第十話 香の乱れ、ひとつの出会い
御渡りの気配が大奥を駆け抜けた翌朝、空気は奇妙な静けさをまとっていた。
嵐が過ぎたあとの静けさ、というほど穏やかではない。
むしろ、昨夜それぞれの胸の内へ落ちたものを、誰も口に出さず抱え込んでいるような静けさだった。
将軍の影が通った。
その事実だけで、上の娘たちの表情は変わり、侍女たちの歩き方も、女中たちの囁きも、みなほんの少しずつ色を変えた。
そして、その揺れは今日になってもまだ残っている。
わたしは朝の支度をしながら、昨日廊下の向こうから聞こえた家光公の声を思い出していた。
――ここの香は、今のほうがよいな。
たったそれだけの一言。
けれど、それが自分の耳へ届いたこと、しかも自分が手を入れた花の前で落ちたことを思うと、胸の奥がどうしても落ち着かなかった。
浮かれてはいけない。
自分に何度もそう言い聞かせる。
あれは、わたしに向けられた言葉ですらない。たまたま、その場にいたにすぎない。
そうわかっていても、心というものは理に従うばかりではないらしい。
雪江が帯を締めながら、鏡代わりの金具越しにこちらを見た。
「まだ引きずってるわね」
「そんな顔をしていますか」
「してる」
きっぱりと言い切られる。
「でも、悪い顔じゃないわ。少しだけ、ものを考える目になってる」
「前は違った?」
「前は、怯えながら覚えようとしてる目だった」
「いまは?」
「怯えながらでも、見ようとしてる目」
その違いは大きいのか小さいのか、自分ではわからない。
けれど雪江にそう言われると、少しだけ背筋が伸びる気がした。
朝の割り振りで、わたしは控えの間とその手前の見回り、それに夕刻へ向けて使う香具の運び手伝いを命じられた。
香具――香炉や香木、灰、香匙など、香を扱うための道具一式だ。
花の見回りと違い、香は目に見えぬぶんだけ扱いがむずかしい。強すぎてもいけない。弱すぎてもいけない。部屋ごとの格、使う時刻、人の集まり方にまで左右される。
「今日は香の出入りが多い」
お滝どのが帳面を閉じながら言う。
「余計な口は出すな。だが、言われた通りには動け」
「はい」
「志乃、おまえは鼻が利くのかい」
不意にそう問われ、わたしは少し戸惑った。
「花や水の傷みには、少し気づきやすいほうかと」
「ふん」
お滝どのは短く鼻を鳴らした。
「なら、なおさら勝手な判断をするんじゃないよ。香は花以上に、人によって好みと禁忌がある」
「承知しております」
「よろしい」
その言葉を胸に留め、わたしは仕事へ向かった。
午前のうちは目立ったことはなかった。
控えの間の花も水も大きな乱れはなく、見えない手の悪戯も今日はひとまず影を潜めているように思えた。
いや、潜めているだけかもしれない。
相手が諦めたとは思わない。
だからこそ、こちらも気を抜かぬようにひとつひとつ確かめた。
昼に近づくにつれ、香具を持って行き来する女中たちの姿が増えた。
廊下に流れる匂いも、いつもと少し違う。沈香、白檀、そして花の香と混ざる、柔らかな甘さ。
どの部屋にどの香が置かれるのか、下の娘には詳しくわからない。だが、匂いの重なり方で、どこかに偏りがあることだけは感じ取れた。
わたしが南寄りの控えの間の前を通ったときだった。
障子の隙間から、ふわりと強い香が流れてきた。
思わず足が止まる。
強い。
強すぎる。
甘さそのものは上品だが、部屋の広さに対して香の立ち方が重い。これでは、近くにいる者の喉や頭を圧すかもしれない。
わたしは一瞬迷った。
勝手に立ち入るわけにはいかない。
だが、もしこのまま誰かが具合を悪くすれば、それもまた面倒になる。
そのとき、部屋の中から物音がした。
小さく、何かが揺れたような音。
続いて、誰かが息を詰める気配。
わたしは思わず障子の近くへ寄った。
「失礼いたします」
返事はない。
代わりに、中でかすかな呻き声のようなものが聞こえた。
ためらっている暇はなかった。
わたしは障子を細く開け、中を覗いた。
控えの間は、昼のやわらかな光に包まれていた。
だが、その空気の中にだけ香が濃く溜まり、ひどく重たい。
部屋の隅、几帳のそばで、若い女中がひとり、膝を崩すように座り込んでいた。顔色が青い。呼吸も浅い。
「大丈夫ですか」
わたしはすぐに部屋へ入り、傍へ寄った。
「……香が」
女中は苦しげに呟く。
「少し、きつくて……」
やはり。
わたしは香炉のほうを見た。灰の上で香木が深く燻っている。部屋の戸が閉まり気味で風が通らず、香だけが溜まっているのだ。
「少し失礼いたします」
わたしは女中を壁にもたれさせ、まず障子をほんの少しだけ開けた。大きく開ければ風が通りすぎて香りそのものが崩れる。だが閉めきったままではいけない。
次に香炉へ寄り、香木の位置を少しだけずらす。火を消すのではなく、焚き方を弱める。香は必要なのだろう。だが今は、立ち方が乱れている。
「水をお持ちいたします」
「……いいえ、呼びに」
「その前に少し息を整えてください」
女中の背を支えながら、わたしは部屋の空気をもう一度吸った。
やはり花の香とも喧嘩している。
置かれた枝が甘めの花を含んでいるせいで、香の重さが倍に感じられるのだ。
ほんの少しだけ、青葉を引けば違う。
いや、それはいま考えるべきことではない。
まずは人だ。
「志乃?」
不意に、部屋の入口のほうから声がした。
例の、花器を任せてくれる女中だった。
彼女は中の様子を見るなり眉をひそめる。
「どうしたの」
「香が少し強く立ちすぎているようです。この方が気分を」
「……ほんとうね」
女中はすぐにこちらへ来て、座り込んだ女中の顔をのぞきこむ。
「しばらく外の空気を吸わせたほうがよさそうね」
「はい。障子を少し開けました」
「よくやったわ」
その一言に、わたしは少しだけ息をついた。
「誰か、水を」
女中が外へ向かって声をかける。
そのときだった。
廊下の向こうで、静かに足音が止まる。
その止まり方で、胸の奥がひやりとした。
ただの女中や侍女ではない。
大きな音もなく、けれどそこにいる者すべての気配を一段低くするような足音。
女中の表情が変わった。
わたしも反射のように姿勢を正す。
「どうした」
落ち着いた男の声。
昨日、障子の向こうから聞いたのと同じ声だった。
家光公。
喉の奥が一瞬、からりと乾く。
わたしは条件反射のように頭を下げた。
だが今日は、昨日より近い。障子一枚隔てただけではない。入口のすぐ向こう、その気配が部屋の中へ差し込んでいる。
女中がすぐに答えた。
「香が少々強く立ちすぎたようで、気分を悪くした者が出ました」
「そうか」
一拍置いて、また声が落ちる。
「直したのは誰だ」
女中がためらう気配がした。
だが、ごまかせる間ではない。
「こちらの娘にございます」
それが自分のことだとわかっていても、心臓は馬鹿みたいに大きく鳴った。
わたしは頭を下げたまま、声が出るのを待った。
「顔を上げよ」
その一言で、身体の芯まで緊張が走る。
見上げてよいのだろうか。
いや、命じられたのなら従うしかない。
わたしはゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていたのは、思っていたよりもずっと静かな人だった。
将軍。
徳川家光公。
もっと威圧的で、もっと近寄りがたいものを想像していた。
けれど実際のその方は、派手な圧を前へ押し出すのではなく、周囲を自然に従わせるような重さを持っていた。
目は鋭い。だが、ただ人を切るための鋭さではない。何かを見極めるような目。
衣も声も、過剰ではないのに、そこにいるだけで空気が変わる。
わたしはすぐにまた視線を落とした。まともに見てよい方ではない。
「香が強いとわかったのか」
問いは短かった。
「……はい。香の立ち方が重く、花の匂いとも重なっておりましたので」
「花?」
「はい。部屋が狭めで、戸が閉まり気味でございました。そこへ甘い香が深く焚かれますと、花の香も重なり、気分を悪くすることがあるかと」
「なるほど」
その“なるほど”は、誰かをからかう響きではなかった。
ただ、聞いたことをそのまま受け取る声音。
「名は」
「……志乃にございます」
「志乃」
将軍家光公が、わたしの名を口にした。
それだけで、胸の奥が妙に熱くなる。
そんなことで心が揺れる自分を、どこかで冷静に見ている自分もいた。
浮かれるな。
相手は将軍だ。
わたしのような娘の名前など、次の瞬間には忘れてしまわれるかもしれぬ。
けれど、名を問われ、呼ばれた。
それは事実だった。
「よく見ている」
家光公は静かに言った。
「花を直したのも、おまえか」
昨日のことまで、耳に入っているのだろうか。
わたしは一瞬だけ息を呑み、答えた。
「少しだけ、手を入れました」
「春日局が言っていた娘か」
その言葉に、女中がごく小さく息を詰めたのがわかった。
春日局さま。
あの方が、わたしのことを将軍へ話されたのだろうか。
それとも、昨日のひと枝の花のことだけが、どこかで話の端に乗ったのか。
「過ぎた真似は好まぬ」
家光公の声は変わらず静かだった。
「だが、見えぬままに置かれるよりはよい」
「……恐れ入ります」
「恐れ入ることではない」
そのとき、廊下の向こうから複数の気配が近づいた。
おそらく、家光公のお供か、あるいは呼ばれた医の者か。
家光公はそれ以上長くは留まらなかった。
「その者を休ませよ」
「は」
女中がすぐに答える。
家光公は去り際、もう一度だけこちらへ目を向けた気がした。
気のせいかもしれない。
けれど、その一瞬の視線に、昨夜の“影”とは違う重みがあった。
足音が遠ざかってから、部屋の中には短い沈黙が落ちた。
最初に息を吐いたのは、例の女中だった。
「……あなた、今日はとんでもないわね」
「申し訳ございません」
「そういう意味じゃないの」
女中は呆れたように首を振る。
「いや、半分はそういう意味かもしれないけど」
水を持ってきた別の女中が、気分を悪くした娘を支えて外へ連れていく。
部屋の中には、まだ少しだけ香の名残があった。
「志乃」
女中が低い声で言った。
「今のこと、誰彼かまわず話して回るんじゃないわよ」
「はい」
「でも、もし訊かれたら誤魔化しすぎもしないこと。変に隠すほうが、かえって妙な噂になるから」
「……はい」
「難しいでしょうけど」
「はい。とても」
女中はふっと苦く笑った。
「大奥って、そういうところなのよ」
その後の仕事は、正直ほとんど上の空だった。
手は動く。
足も間違えない。
けれど、胸の奥だけが落ち着かない。
家光公の顔。
声。
“志乃”と呼ばれたこと。
“春日局が言っていた娘か”という言葉。
どれもが現実味を持たず、なのに妙にはっきり残っている。
昼の休憩で雪江とお絹にそのことを話すと、二人とも固まった。
「……は?」
最初に口を開いたのは雪江だった。
「ちょっと待って。近くで?」
「ええ」
「顔を上げよ、と?」
「はい」
「名を訊かれた?」
「はい」
「……何それ」
雪江は本気で言葉を失っていた。
お絹に至っては、箸を持ったまま目を丸くしている。
「し、将軍さまが……?」
「そうらしい」
「そうらしい、じゃないでしょうに」
雪江がようやく息を吐く。
「あなた、自分で思ってる以上に大変なことになってるわよ」
「でも、わたしから何か申し上げたわけでは」
「そういうことじゃないの。向こうから声がかかった、そのこと自体がもう」
言いかけて、雪江は周りを見た。
当然だ。こんな話、軽々しく口にするものではない。
彼女は声を落とした。
「……とにかく、今は静かにしていなさい。いい?」
「はい」
「綾姫さまたちの耳に入ったら、間違いなく面白く思わないわ」
「ええ」
その予感は、夕方には現実になった。
廊下で綾姫さまとすれ違ったとき、彼女はいつも通り美しく微笑んでいた。
だが、目の奥だけが昨日までより明らかに冷たかった。
「志乃さん」
「はい」
「今日はお忙しかったようね」
「そのようなことは」
「でも、少し騒ぎになっていたわ」
綾姫さまは袖口をそっと整える。
「香のことで、将軍さまのお足を止めてしまったとか」
わたしは頭を下げたまま答えた。
「気分を悪くした方がおられましたので」
「ええ、そういうこともあるでしょう」
綾姫さまの笑みは崩れない。
「ただ、御前の通り道で何か起きるというのは、良いことばかりではありませんわ」
「承知しております」
「ほんとうに?」
その声が、ごくわずかに鋭くなる。
「下の娘がよく見ていた、という話になれば聞こえは良いけれど、一歩違えば“余計な目立ち方をした”とも取られるのよ」
胸の奥が、ちくりと痛む。
その通りだ。
綾姫さまは嫌味を言っている。だが、言っている内容に嘘はない。
大奥では、何事も見え方ひとつで意味が変わる。
「お言葉、肝に銘じます」
「ええ、そうなさい」
綾姫さまは微笑む。
「目に留まることばかり覚えると、あとで苦しくなるわ。花も、人もね」
去っていく後ろ姿を見送りながら、わたしは胸の内で静かに息を整えた。
綾姫さまの言葉は棘だ。
だが、今日ばかりはその棘の奥に別のものも見えた。
焦り。
あるいは、警戒。
夜、部屋へ戻ってからも、家光公の声は耳から離れなかった。
雪江は何度も「静かにしていなさい」と言い、お絹は「だいじょうぶでしょうか」と何度も訊いた。
わたし自身も、何がどうだいじょうぶで、何がどう危ういのか、まだうまく形にできない。
ただひとつだけはっきりしているのは、今日の出来事で、わたしはまた一段、綾姫さまたちの目の中で“ただの下働き”ではなくなってしまったということだ。
布団へ入って目を閉じると、昼のあの部屋の空気がよみがえる。
重すぎた香。
浅くなっていた呼吸。
わたしの手でずらした香木。
そして入口に立っていた将軍の姿。
香の乱れ。
たったそれだけのことが、ひとつの出会いを生んでしまった。
出会い――と言ってよいのかもわからない。
わたしはただ名を問われ、少し言葉を交わしただけだ。
それでも、その短いやりとりは、これまでのどんな一日とも違う重みを胸へ残していた。
浮かれてはならない。
思い上がってもならない。
けれど、見てしまったもの、聞いてしまった声を、なかったことにはできない。
大奥は美しい檻だ。
その中で人の運は、ほんの小さなきっかけで動く。
花ひと枝でも。
香の乱れでも。
そして、その動きは必ず、誰かの視線を鋭くする。
わたしは布団の中で両手をぎゅっと握った。
見て、覚える。
もうそれだけでは足りないかもしれない。
でも、それをやめれば、たぶんあっという間に飲み込まれる。
家光公の静かな目と、綾姫さまの冷えた笑み。
その両方を胸へ抱えたまま、わたしは眠りの底へ沈んでいった。




