第一話 日本の後宮、その門は涙で開く
朝の空気はまだ冷たく、吐いた息が白くほどけた。
江戸の町はすでに目を覚ましつつあるのに、わたしの胸の内だけは夜の底に取り残されたままだった。
見送りのために表へ出てくれた母は、夜明け前から身支度を整えていた。色の褪せた小袖をきちんと合わせ、髪も乱れなく結い上げている。その姿は、貧しさに擦り切れながらも誇りだけは失っていない武家の女そのものだった。けれど、細くなった指先を見ればわかる。母がこの数年、どれほど無理を重ねてきたかくらい、娘であるわたしには嫌というほどわかった。
庭とも呼べぬ狭い土の先に、朝露を含んだ南天が一本だけ立っている。かつては庭師を呼んで手入れしていた小さな庭も、今ではその余裕などない。落ち葉を掃き、枝を払うのも、ここしばらくはわたしの役目だった。
その南天の赤い実を見つめながら、わたしは自分の荷を抱き直した。風呂敷に包まれた中身は少ない。替えの小袖が二枚、母の縫ってくれた足袋、父の遺した古い懐紙入れ。そして、弟が昨夜こっそり忍ばせたらしい、歪んだ折り紙の鶴が一羽。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「姉さま」
家の中から、小さな足音が駆けてくる。まだ眠たげに目をこすりながら現れたのは、十にもならぬ弟の新之助だった。羽織の紐もろくに結べておらず、頬には布団の跡がついている。きっと、母に内緒で起きてきたのだろう。
「起きてはいけませんと言ったでしょう」
母がたしなめると、新之助は唇を尖らせた。
「だって、姉さまが行ってしまうのに」
「行ってしまう、ではありません。お勤めに上がるのです」
「でも、遠いんでしょう。すぐには帰ってこないんでしょう」
その言葉に、母は一瞬だけまぶたを伏せた。
帰ってこない。
その可能性を、誰も口にしないようにしていただけだ。
江戸城大奥。
将軍家の奥向き。女だけが住まう、華やかで、そして恐ろしい場所。
貧しい武家の娘が、そこでどのような扱いを受けるかなど、考えなくてもわかる。けれど、行かねばならなかった。
父が失脚してから、我が家は坂を転げ落ちるように傾いた。
もとはささやかながらも、恥ずかしくない暮らしをしていた。贅沢とは無縁でも、四季の行事を忘れず、客が来れば茶を出し、庭の草木を愛でるだけの余裕はあった。父は口数の多い人ではなかったが、帳面に向かう横顔にはいつも静かな矜持があった。役目は小さい。だが、それでも徳川の世に仕える旗本のひとりとして、生真面目に勤めを果たしていた。
その父が、上役の不始末に連座するかたちで役を解かれたのは、去年の冬のことだ。
父自身が不正を働いたわけではない。むしろ見逃さずに進言しようとしたからこそ、都合の悪い者たちに押し込められたのだと、あとから母は低い声で言った。だが、事の真相がどうあれ、一度ついた汚れは簡単には落ちない。役目を失った父は急に老け込み、春を待たずして病に伏した。そして梅が散るころ、わたしたちに何の言い訳も残さぬまま逝ってしまった。
家に残ったのは、薄い俸禄の名残と、世間の冷たい目だけだった。
親類はいた。けれど、誰も手を差し伸べてはくれなかった。
手を貸せば、自分たちまで同じ泥を被る。そう考えるのも無理はないのだろう。人は自分の家を守るためなら、驚くほど綺麗な顔で背を向けるものだと、そのとき知った。
そんな折に持ち込まれたのが、わたしの大奥奉公の話だった。
どこからどう繋がった縁なのか、母は最後まで詳しく言わなかった。ただ、「断れる話ではない」とだけ答えた。家を潰さぬため、弟の将来を細くとも繋ぐため、娘ひとりを差し出す。それは聞こえは悪くとも、武家の家では昔から珍しくもない現実だ。
わたしも、泣いて嫌がるほど子どもではなかった。
ただ、怖いだけだった。
江戸城へ上がる。大奥へ入る。
それは、川向こうの景色が変わるなどという程度の話ではない。
人生そのものが、別のものになるということだ。
「姉さま」
新之助が、わたしの袂をぎゅっと掴んだ。温かな小さな手に、思わず視界が滲みそうになる。
「おまえ、泣いてはなりません」
わたしはしゃがみこみ、弟の肩を両手で包んだ。
「男の子でしょう」
「姉さまだって泣きそうだ」
「わたしは泣きません」
言い切ってみせたものの、声がわずかに震えた。
新之助はそんなわたしを見上げ、鼻をすすりながら言った。
「帰ってきて」
「……ええ」
「約束」
「約束です」
本当は、軽々しく口にしてよい約束ではない。
けれど、それでもそう言うしかなかった。残される者は、待つことでしか明日を繋げないのだから。
母が静かに咳払いをした。門の外には迎えの駕籠が停まっている。これ以上別れを長引かせれば、お互いに弱くなるばかりだ。
わたしは立ち上がり、母へ向き直った。
母はすぐには何も言わなかった。ただ、いつもより少しだけ長く、わたしの顔を見つめていた。幼いころ熱を出した夜も、初めて針仕事を任された日も、父の訃報を受けた夕暮れも、こうして母は何かを量るようにわたしを見ていた気がする。
「志乃」
「はい」
母の声は落ち着いていた。だが、その静かさの底に張りつめたものがあるのを、娘のわたしは知っている。
「これからおまえが行く場所は、花の園と呼ぶ者もいれば、鬼の棲み処だと言う者もいます」
「はい」
「どちらも、たぶん真でしょう」
母はわたしの襟を整えながら続けた。
「綺麗なものに目を奪われてはいけません。やさしい言葉をすぐに信じてもいけません。けれど、疑いすぎて心まで荒ませてもなりません」
「……はい」
「言葉は少なく。目は曇らせず。耳はふさがず。そして――」
そこで母は一瞬、言葉を切った。
わたしは息を呑んだ。
次に告げられた一言は、たぶん生涯忘れない。
「生きて帰るより、生き抜きなさい」
胸の奥へ、真っ直ぐに刺さった。
生きて帰るより、生き抜きなさい。
帰ることを願うなと言うのではない。
ただ、帰りたいと泣くだけでは生き延びられない場所へ、おまえは行くのだと、母はそう言っているのだ。
わたしはうなずいた。
言葉にしようとすると、喉が締まってしまいそうだったから。
母は最後に、わたしの手を取って懐へ小さな包みを押し込んだ。開けば、薄い香木がひとかけと、小さく畳まれた守り札が入っている。
「香木……」
「匂いは、心を落ち着かせます。人の気配を知る助けにもなる。おまえは昔から、花の匂いにもよく気がつく子でしたから」
「ありがとうございます」
その言葉を言った途端、こらえていたものが本当にこぼれそうになった。
母はそれ以上何も言わず、ただ背を一つ押した。
それで足が動いた。
門を出る。
振り返れば、母と弟が並んで立っていた。母は手を振らない。ただまっすぐ立ち、新之助の肩に手を置いている。その姿があまりにも凛としていて、かえってわたしは振り返るのを二度でやめた。三度目をしてしまえば、きっと戻りたくなる。
駕籠へ乗り込むと、布の匂いと木の匂いが狭い空間を満たした。戸が閉じられる。外の景色は細い隙間からしか見えない。揺れに身を任せながら、わたしは膝の上で手を強く握りしめた。
町の音が流れていく。
朝餉を支度する音。
商人の声。
遠くで鳴く鳥。
どこかの寺の鐘。
そのどれもが、これまでのわたしの暮らしと地続きの音のはずなのに、今日はもう別の世のもののように聞こえた。
父が生きていたころ、江戸城について語ることはあっても、大奥の話だけはほとんどしなかった。女が多い場所だ、華やかだ、という曖昧な言葉ばかりで、具体を避けていた気がする。今になって思えば、男である父にも知りようのないことが多かったのだろうし、知っていても娘に聞かせたい類の話ではなかったのかもしれない。
近所の女たちは、好奇と恐れをないまぜにして大奥を語った。
将軍さまの目に留まれば玉の輿。
けれどひとたび失えば、誰にも知られず消える。
女たちが競い、媚び、陥れ合う。
礼法は厳しく、一つ間違えば笑いもの。
ごく普通の娘は、花の飾りのように使われて終わる。
どこまでが真実で、どこからが噂なのかはわからない。
ただ、噂とはたいてい、まったくの嘘だけでできているわけではない。
わたしは膝の上の風呂敷包みを撫でた。
中にある折り鶴の角が、布越しに小さく指へ触れた。
「新之助……」
口の中で弟の名を転がすと、それだけで少しだけ息がしやすくなった。
わたしが行くのは、自分のためだけではない。
母と弟を食べさせるため。
家を完全に潰さないため。
父の名が泥に埋もれたままで終わらぬようにするため。
だから、弱気になってはいけない。
怖くても、怖いと言ってはいけない。
そう念じていても、江戸城が近づくにつれて、駕籠の中の空気はますます薄くなるようだった。
やがて町のざわめきが変わる。通る人々の足音が増え、道も広くなったらしい。駕籠かきの掛け声に、門番らしき男の低い応答が混じる。格式ある場所へ近づいているのだと、戸の向こうから伝わってくる。
とうとう駕籠が止まった。
「着きました」
外からかかった声に、心臓がひとつ大きく鳴った。
戸が開く。
差し込んできた光がまぶしい。
おそるおそる外へ降り立ったわたしの目の前には、これまで見たどんな建物とも違う、巨大な門と石垣がそびえていた。
江戸城。
言葉にすればたった三文字だ。
けれど、その実物は人の想像を軽々と超えてくる。
高く積まれた石は、一つひとつがまるで山のように大きい。その上に続く白壁は、朝の光を受けて冷たく光っていた。門の木は黒々として分厚く、長い歳月と権威が染み込んでいるようだった。人が出入りしているのに、まるで門のほうがこちらを見下ろしているように感じられる。
わたしは思わず足を止めた。
この中へ入るのか。
わたしが。
あの狭い家で、母と弟と、父の遺した帳面や古びた茶器に囲まれて暮らしていた、ただの旗本の娘が。
胸の中で恐れがじわじわと広がる。
そのとき、先導役の年配の女が振り返った。
「何をしているの。遅れますよ」
「……申し訳ございません」
わたしは慌てて頭を下げ、後を追った。
門をくぐると、空気が変わった。
町の匂いが薄れ、広い空間特有の乾いた静けさが肌に触れる。遠くで人が動き、声が交わされているのに、どこか抑え込まれている。ここでは誰もが、自分の立てる音の大きさを知っているのだろう。
石畳の上を進みながら、わたしは自然と背筋を伸ばしていた。
びくびくしていると見抜かれたくなかったのかもしれない。あるいは、少しでも父の娘らしく見えたかったのかもしれない。
案内された先で、まず持ち物の確認があった。風呂敷を開き、衣を見せ、余計なものを持っていないかを確かめられる。監視する女たちの目は、針より細く冷たい。折り鶴を見つけた若い女が怪訝そうに眉を上げたが、年配の女が「子どものすることです」と流してくれて、わたしはほっと息をついた。
「名は」
「志乃と申します」
「家は」
「榊原……いえ、榊原家の分家筋にあたります」
「ふうん」
その「ふうん」の中には、家格の値踏みも、没落の事情を知っているかもしれぬ含みも、すべてが込められているように思えた。
ここでは名乗るだけで、相手に多くを読まれる。うかつな言葉は命取りになるかもしれない。母の言葉が胸の内で重く響いた。
やがて、わたしは何人かの新入り娘とともに奥へ通されることになった。
廊下は磨き込まれて、柱や長押には少しの曇りもない。障子越しに差す光はやわらかく、庭に面した箇所には季節の花が慎ましく飾られていた。美しい、と思った。思ったのに、同時に息苦しさも覚えた。整いすぎた美しさは、少しでもそこから外れたものを容赦なく弾きそうだったからだ。
女たちとすれ違う。
年若い娘。年嵩の女中。高そうな衣をまとった上位の女。
その誰もが、ちらり、ちらりとこちらを見る。
新入りだから珍しいのだろう。
そう思いたかった。
けれど視線の中には、明らかに「どの程度の者か」と測る気配があった。
ああ、見られている。値踏みされている。
それだけで、喉が渇いた。
先へ進むにつれ、女たちの匂いが混じり合っていく。白粉、香、衣に焚きしめた匂い、畳の青さ、木の古い香り。わたしはもともと、花や草木の匂いにはよく気づくほうだった。母もよく「志乃は鼻が利く」と笑っていた。その癖で、緊張しながらも鼻先に触れるわずかな違いが気になってしまう。
甘い香を強くまとった者。
ほとんど匂いを立てぬ者。
同じ沈香でも、火の入れ方の違いで印象が変わる。
そんなことに気を取られていたときだった。
向こうの廊下から、数人の女がこちらへ歩いてきた。
真ん中にいる娘を見た瞬間、空気の質がひとつ変わったのがわかった。
歳はわたしとそう違わないだろう。
けれど纏っているものが違う。
衣の重なり、髪の艶、姿勢、目線。何より、周囲の者たちが彼女を中心に動いている。そのこと自体が、彼女の立場を示していた。
色の白い、整った顔立ちだった。咲きかけの椿のような口元に、作りものめいたほど美しい微笑が浮かんでいる。だが目だけは、冬の水面のように冷えていた。
すれ違いざま、その娘の視線がわたしたち新入りに流れる。
布で撫でるような、やさしい見方ではない。
品を選ぶ商人が、反物の質を指先で測るような目だ。
「まあ」
娘が、楽しげに声を上げた。
「新しく上がった方々かしら」
先導の女が即座に頭を下げる。
「はい。今朝、上がりました娘たちにございます」
「そう」
娘はふっと微笑を深めた。
その笑みを向けられただけで、隣にいた新入りの一人が緊張に肩をこわばらせたのがわかる。
娘の視線が、わたしの上で止まった。
頬が熱くなる。衣が粗末だと思われたのか、顔立ちを品定めされたのか、わからない。ただ、その一瞬で、自分が場違いな場所へ足を踏み入れたのだと骨の奥まで思い知らされた。
「……ずいぶん質素な花も、混じっておりますのね」
くすり、と後ろの女たちが笑った。
大きな声ではない。
けれど、その静かな笑いは、面と向かって罵られるよりもずっと鋭く胸へ刺さった。
質素な花。
言い換えれば、華もない、見栄えもしない娘。
頬を打たれたような気がした。
けれど、ここで顔を上げて何か言えば、笑われるだけでは済まないだろう。わたしは唇の裏を噛み、深く頭を下げた。
「ご挨拶もままならず、申し訳ございません」
すると娘は少しだけ眉を上げた。
返事をするとは思っていなかったのかもしれない。
「よいのです。まだ何もご存じないのでしょうから」
やさしい声音だった。だからこそ、その言葉の中にある見下しがよくわかった。
「ここでは、花にも順がありますのよ。どこへ咲く花か、誰の目に留まる花か、それで価値は変わりますもの」
また、くすくすと笑いが漏れる。
わたしは頭を下げたまま、胸の中でその言葉を受け止めた。
花にも順がある。
そうだろう。ここはそういう場所なのだ。
ただ、言われたことをそのまま呑み込んで消えるのは、なぜだか悔しかった。
「不調法者ゆえ、これより学びます」
できるだけ平らな声でそう答えると、娘は一拍おいて、ふふ、と笑った。
「それは結構」
すれ違うとき、彼女の衣から淡い梅の香がした。冬の終わりの、まだ冷たい朝に似合う香り。香そのものは上品で美しかったのに、その余韻までがどこか冷たく思えた。
娘たちの姿が見えなくなってから、先導の女が低く言った。
「余計なことは申さぬように」
「申し訳ございません」
「今のお方は綾姫さま。上臈見習いにございます。覚えておきなさい」
「……はい」
綾姫。
名前だけが、胸の内に小さな棘のように残った。
その後、案内された部屋は、思っていた以上に狭かった。
新入りの下位女中が寝起きする場所なのだから当然だろう。けれど、家で使っていた自分の部屋より広いはずなのに、妙に息苦しい。壁も襖も綺麗すぎて、自分だけが汚れたもののように思えるからかもしれない。
「こちらを使いなさい。荷はそこへ」
「はい」
割り当てを告げる女は手短かで、情けを交えない。
それがかえってありがたかった。今はやさしくされるほうが、きっと泣きたくなる。
同じ部屋になった娘が二人いた。ひとりは町方出身らしい愛想のよい顔立ちの娘、もうひとりは武家育ちらしく背筋の伸びた娘だ。だが互いに名乗り合う余裕もない。皆、緊張で口が固くなっていた。
荷を置き、膝をついたとき、ようやくひとつ長い息がこぼれた。
来てしまった。
本当に、来てしまったのだ。
母の言葉を思い出す。
生きて帰るより、生き抜きなさい。
わたしは風呂敷をほどき、折り鶴をそっと取り出した。少しだけ潰れている。不器用な新之助らしい折り方だ。唇が勝手にゆるみそうになって、慌てて押さえた。
「志乃」
自分の名を、自分で小さく呼ぶ。
そうしないと、足元が揺らぎそうだった。
わたしはもう、あの家の娘であるだけではいられない。
ここでは肩書も、家の事情も、同情してはくれない。
見られるのは、どんな娘か。使えるか。邪魔か。
それだけだ。
ならば、せめて見失わないようにしよう。
自分が何のために来たのか。
何を守るために、ここへ入ったのか。
障子の外を、誰かの衣擦れが過ぎていく。遠くで鈴のような笑い声が響き、またすぐに消えた。美しい場所だと思う。だがその美しさは、人を迎えるためのものというより、飲み込むためのものに近い。
花の園。
そう呼ぶ者がいるのもわかる。
だが、綾姫の笑みを思い出すだけで、その花びらの裏に隠れた棘も見える気がした。
そのとき、廊下の向こうで俄かに人の気配が変わった。
ざわめきではない。むしろ逆だ。
音が、小さくなる。
誰もが自然と背筋を正し、息を潜めたような気配が伝わってくる。
何事かと顔を上げると、部屋の外を通りかかった年嵩の女中が、開けかけた障子の向こうから鋭い目でこちらを見た。
「顔を上げるでないよ」
「……はい」
反射のように頭を下げる。
衣擦れの音が続き、幾人もの足が静かに通り過ぎていく。
その列の中心を、わたしは直接見たわけではない。けれど、わかった。
これは、ただ者の通る気配ではない。
空気そのものが道をあけるような重さ。
柔らかな絹の音ひとつで、人の心持ちが変わる圧。
やがて列が過ぎ去り、少ししてから周囲に息が戻った。
同じ部屋の娘が、こっそり囁いた。
「今の……どなた……?」
もう一人の娘も青い顔で首を振る。
外から、低い声がした。
「春日局さまの御通りにございます。今後、粗相のなきように」
春日局。
その名を聞いた瞬間、胸の内に冷たい水が落ちたような気がした。
父も母も、近所の女たちも、皆その名だけは畏れていた。将軍家光公の乳母にして、大奥を束ねる絶対の人。
その御方が、今、すぐそこの廊下を通ったのだ。
わたしは額を畳につけたまま、そっと息を吐いた。
まだ何も始まっていない。
けれど、確かに門はもう閉じたのだと思った。
ここは外の世界とは違う。ここにはここの掟があり、ここの強者がいて、ここの弱者がいる。
そしてきっと、今日笑われたことなど、始まりにもならないのだろう。
それでも――。
わたしは畳の目を見つめながら、胸の奥で静かに言い聞かせた。
覚えておこう。
門の重さも。
綾姫の笑みも。
春日局の名で空気が変わることも。
全部、忘れないでいよう。
泣いて立ち尽くすためではなく、ここで生き抜くために。
日本の後宮。その門は、たしかに涙で開いた。
けれど、泣いたままで終わるつもりはない。
そう思ったときだけ、ほんの少しだけ、胸の震えが収まった。




