「ただの犬の散歩係」と追放された令嬢ですが、隣国で魔獣を極上のもふもふにする『筆頭魔獣散歩卿』に就任しました〜適当に飾り付けた結果、王宮の護衛獣が暴走しても私はもう知りません〜
「——以上が、今週の王宮護衛獣および特別保護指定魔獣の運動および毛並み管理のスケジュールです。西の塔の白銀狼レイスには、本日は午前中に北の森の岩場ルートを二時間半。午後はブラッシングを念入りに、特に後脚の関節部分の血流を促すマッサージを追加してください。東の庭園の双尾狐の双子には、陽の当たる時間帯に丘を三往復。彼らは最近、前足の爪切りを嫌がる傾向にあるので、運動後に特別支給の干し肉を与えてから私自身が切ります」
王宮の裏手にある広大な「魔獣管理棟」。
朝の清々しい空気が満ちる中、リゼット・フォン・クラマーの手元にある分厚い革張りの『護衛獣運動管理台帳』には、王宮が誇る数十頭の「もふもふ」たちの名前と、日々の健康状態がびっしりと書き込まれていた。
「リゼット様! 炎舞猫のルビーが、また朝ごはんを半分残しています!」
管理棟の奥から、見習いの獣丁が焦った声で走ってきた。
「ルビーは昨日、私が東の回廊を散歩させたときに、庭師が撒いた新しい肥料の匂いを嗅いでくしゃみをしていました。鼻の粘膜が少し荒れているはずよ。消化の良い温かいヤギのミルクに、鎮静のハーブを二滴混ぜて与えてあげて。……それから、今日は無理に走らせず、日向ぼっこと軽いブラッシングだけにしてちょうだい」
「畏まりました!」
王宮護衛獣。普通の犬や猫ではない。魔力帯びた巨大な狼、空駆ける獅子、幻惑の尾を持つ狐。彼らは王家を守護する強力な戦力であり、他国への威信を示す外交の象徴でもある。
しかし、どれほど強力な魔獣であっても、本質は「生き物」だ。
運動不足になれば魔力が体内に鬱血して凶暴化し、毛並みが荒れれば外交の場に出すことはできない。肉体と精神の健康を保つためには、毎日の適切な「散歩」——広大な王宮の敷地と裏の森を使った、種族ごとに異なる細やかな運動管理——が絶対不可欠なのだ。
普通に歩かせるだけではない。
岩場を登らせて爪を削らせるルート。森の土を掘らせてストレスを発散させるルート。水辺を走らせて被毛の埃を落とすルート。その日の気温、湿度、魔獣の機嫌、さらには発情期や換毛期のサイクルまで計算し尽くして、リゼットは百通り以上ある「散歩コース」を毎日完璧に割り当てている。
その結果、王宮の護衛獣たちは常に最高に美しい毛並みと、穏やかで凜々しい気品を保ち、各国の要人たちを「触れずにはいられない」ほど魅了していた。
「——またこの獣臭い泥だらけの棟か。たまには王宮の庭園で優雅に茶でも飲んだらどうだ、リゼット。見ていて憂鬱になる」
唐突に管理棟の扉が開き、むせ返るような安っぽい香水の匂いが流れ込んできた。
見習いの獣丁たちが一斉に顔をしかめ、奥のケージからは不快な匂いに抗議する魔獣たちの低い唸り声が漏れる。
現れたのは、金糸の刺繍が入った立派な騎士団の制服を着崩した男——王室魔獣騎士団の副団長にして、リゼットの婚約者であるヴィルヘルム伯爵息男だった。彼の腕には、ひっ切りなしに扇子を扇いでいる真紅のドレスの令嬢、クロエが寄り添っている。
「ヴィルヘルム様。ここは魔獣たちの待機棟です。強い香水は彼らの鋭い嗅覚を刺激してストレスになります。お下がりください」
「もうよい。お前のその泥だらけの長靴と、毛まみれで獣臭い姿には、心底うんざりさせられる」
ヴィルヘルムは吐き捨てるように言った。手には純白のハンカチを握り、口元を覆っている。
「王立騎士団の副団長たる私が、ただの『犬の散歩係』を妻にするなど、社交界の笑い者だ。実家のクラマー男爵家が没落しかかっているから慈悲で面倒を見てやっていたというのに、いつもいつも泥と獣の毛にまみれて……はしたないにも程がある」
「迎賓館や王宮の裏方を預かる身として、実務に支障のない服装を心がけているだけです。絹のドレスでは、白銀狼の遊び相手になりませんから」
「口答えをするな!」
ヴィルヘルムは苛立たしげに声を荒らげ、隣で腕を組むクロエの肩を抱き寄せた。クロエは勝ち誇ったような、そしてリゼットを心の底から見下すような笑みを浮かべていた。
「お前との婚約は破棄する。そして、今日をもって筆頭獣丁の任も解く。明日からは、この愛らしいクロエが筆頭獣丁……いや、『魔獣ふれあい管理官』となる。彼女が提案した『薔薇のリボンと香水』で、魔獣たちを美しく飾り立て、賓客にかわいらしい姿を披露するのだ!」
リゼットの手が、台帳の上でピタリと止まった。
「……魔獣たちに、香水とリボンを?」
「そうだ。それこそが最高のおもてなしというものだ。お前のようにただ犬のように引っぱり回して泥だらけにして歩かせるだけの無味乾燥なやり方など、牧羊犬の世話と変わらん。護衛獣は王家の飾りだ。美しく、いい匂いがしなければならない!」
「お待ちください、ヴィルヘルム様。それは絶対におやめください」
リゼットは静かだが、確固たる声で反論した。
「白銀狼や双尾狐は、自分の体に異物の匂いがつくことを極端に嫌がります。香水など振りかければ、ストレスで毛をむしり取り、皮膚炎を起こします。それに、彼らは一日十キロ以上の『運動』が必要です。リボンで飾って小部屋に閉じ込めてしまえば、行き場を失った魔力が暴走し——」
「言い訳など聞きたくない! 魔獣だろうが何だろうが、餌を減らして大人しくさせていればいいだろうが!」
ヴィルヘルムは全く聞く耳を持たなかった。彼にとって魔獣とは、自分が乗って見栄を張るための「乗り物」か、愛でて楽しむだけのただの「動くぬいぐるみ」でしかないのだ。
「いいか、リゼット。お前は毎日、見習いどもに『ただ犬の散歩の指示を出している』だけだろうが! 適当に庭を歩かせて、毛を梳して餌をやる。そんなものは田舎の子供にでもできるただの雑用だ。ただの散歩係が、魔獣学の権威にでもなったつもりで偉そうに私に意見するな。さっさとその薄汚い手帳を置いて出ていけ!」
——ただ、犬の散歩の指示を出しているだけ。
その言葉が、リゼットの五年間のすべてを否定した。
毎日、何十頭もの魔獣の筋肉の張り、瞳の輝き、便の状態を病的なまでに観察し、その日の魔力量に合わせたミリ単位の運動スケジュールを組んできた。彼らが美しく、あの圧倒的な『もふもふ』の毛並みを保ち、気高く王家を守っていたのは、豪華な檻でも高い餌のおかげでもない。計算し尽くされた「最高の散歩とブラッシング」のおかげなのだ。
それを、この男は五年間、一度も見ようとしなかった。知ろうともしなかった。少しも理解していなかった。
胸の奥で、カチリ、と何かが凍りつく音がした。怒りですらない。完全なる見切りだった。
「……承知いたしました」
リゼットは抵抗をやめた。深々と、美しい一礼をし、五年間の血と汗と魔獣の抜け毛が挟まり込んだ分厚い『護衛獣運動管理台帳』をポン、と作業台の上に静かに置いた。
「引継ぎの記録は、すべてその台帳に記してあります。各個体の運動量の下限と上限、ストレスサイン、アレルギーを持つ草花のリストも完璧に記載していますので、どうかお役立てください」
「ふん。こんな汚らしいノートなど、クロエのごみ箱にでも捨ててしまえ。行くぞ、クロエ。この獣の臭いには吐き気がする」
「ええ、ヴィルヘルム様。明日からは私が、あの子たちを可愛らしくデコレーションして差し上げますわ。おバカな魔獣でも、私にはメロメロになるはずですもの」
二人が去っていった後、管理棟には重い沈黙が落ちた。
「リゼット様……! そんな、突然すぎる!」
「私たちが上層部に抗議します! リゼット様がいなければ、レイスやルビーの気性を抑えられる者なんていません!」
泣き叫ぶ見習いたちに、リゼットは優しく、だが諭すように微笑みかけた。
「ありがとう。でも、いいの。決まったことですから。あなたたちは優秀よ。今まで私が教えた通りに、無理はさせず、魔獣たちの『声なき声』をよく聞いてあげて。……ただ、白銀狼のレイスだけは、絶対に岩場の散歩を欠かしてはダメよ。彼の魔力は運動で発散させないと、内部から体を焼いてしまうから」
リゼットは身の回りの手入れ道具——長年使い込んだ真鍮のブラシと、ご褒美用の特別なクッキーが入ったポーチだけを小さな鞄に詰め、振り返らずに王立管理棟を後にした。
五年間の知識と経験が詰まった台帳は、主を失って作業台の上にポツンと残されていた。明日にはゴミ箱に捨てられる運命にあることも知らずに。
王宮を去った翌日の昼下がり。
リゼットは王都の片隅にある、広大な森に面した寂れた公園のベンチに座っていた。
持たされた退職金ははした金で、実家の男爵家はとっくに借金まみれで解散状態だ。帰る場所など最初からなかった。明日からどうやって生きていくか。どこかの牧場で羊飼いの仕事でも探すしかないだろうか。
溜息をつきながら、鞄から取り出した真鍮のブラシを無意識に布で磨いていた瞬間——。
「グルルルル……」
背後の森の暗がりから、低く、腹の底に響くような唸り声が聞こえた。
リゼットが振り返ると、そこにいたのは、信じられないほど巨大で、そして信じられないほど『ボロボロ』の魔獣だった。
漆黒の毛並みを持つ、三つ首の魔狼——伝説の『ケルベロス』種。他国では魔王の使いとも称される圧倒的な魔獣だ。
だが、その威厳ある姿は見る影もなかった。本来なら艶やかに光るはずの漆黒の被毛は抜け落ち、あちこちに毛玉ができている。三つの巨大な頭は重そうに下がり、その目は充血し、苛立ちと苦痛に満ちていた。
「ああ……なんてこと」
恐怖よりも先に、リゼットの職業病が爆発した。
威嚇する巨大な魔獣を前にしても、彼女の目に入ったのは『死にかけている毛並み』と『極度の運動不足による魔力の鬱血』だけだった。
「かわいそうに。首輪の擦れ跡から見て、長期間狭い場所に鎖で繋がれていたのね。毛玉の中に古い血が固まっているわ。このままじゃ皮膚炎で死んでしまう」
リゼットは立ち上がり、ゆっくりと、警戒させない歩様で巨大なケルベロスに近づいた。
魔狼が牙を剥き、火の粉を散らして威嚇する。だがリゼットは全く動じず、真鍮のブラシを右手に、左手には手作りのハーブクッキーを持った。
「大丈夫よ。痛いのは全部取ってあげる」
リゼットは右側の頭の耳の裏へ、絶妙な角度でスッと手を差し入れた。そこは、どんな犬科の魔獣でも自分で掻くことができず、最も毛玉ができやすい『痒みの死角』だ。
長年の勘で最もひどい毛玉の根本を捉え、ブラシで滑らかに、引っ張ることなく解きほぐす。
「キュン……?」
威圧的なケルベロスの声が、一瞬で情けない子犬のような声に裏返った。
「そう、いい子ね。次は真ん中の頭よ」
リゼットの魔法のようなブラッシング技術が、絡みついた痛みを次々と取り除いていく。わずか十五分の間に、あれほど猛り狂っていた漆黒のケルベロスは、三つの頭すべてをリゼットの膝に擦り付け、デレデレの『もふもふ黒犬』と化して腹を天に向けていた。その被毛は本来の美しい艶を取り戻し、触れば指が吸い込まれるほどの極上の柔らかさを放っている。最高のもふもふだ。
「——素晴らしい手際だ」
不意に、森の奥から低い声がした。
黒の外套を羽織った、長身の男が立っていた。銀色の髪に、鋭い氷のような青い瞳。威厳に満ちた人物だが、その顔には深い疲労と驚きが入り混じっている。
「失礼。その暴れん坊は、私の連れなんだが……君のその魔獣の扱い方があまりに見事で、つい見入ってしまった。……我が国の誇る『黒曜狼』を一瞬で手懐けるとは。一体何者だ?」
男——隣国ヴァイスブルク帝国の特命全権大使にして、冷酷なる『氷の公爵』の異名を持つレオンハルト・フォン・クライベルクは、目を丸くしてリゼットを見つめた。
「……重度の運動不足と、極度のストレスによる鬱血ですね」
リゼットは無意識に答えていた。
「この子は広大な雪原を走る種族です。使節団の馬車と共に、狭い日本の街並みや王宮の小さな厩舎に閉じ込めていたのでしょう。しかも、香辛料のきいた『肉』ばかり与えていませんか? 胃腸が荒れています。よろしければ、私が持参した『消化に良いハーブクッキー』をお分けします。ごはんに混ぜてあげてください」
レオンハルトはあっけにとられたまま、リゼットが差し出したクッキーを受け取った。
そして、傍らに寄り添って「もっと撫でて」と尻尾を振るケルベロスを見て——深い溜息をついた。
「驚いた。君の言う通りだ。私は他国でこの子に十分な運動をさせてやれず、暴れ出した彼をどうにもできず、夜な夜なこっそり森へ連れ出して途方に暮れていたのだ」
レオンハルトはじっとリゼットを見つめた。その氷青色の瞳に、強い光が宿る。
彼は優秀な魔法使いであり戦士だが、「動物の世話」は致命的に不器用だったのだ。
「単刀直入に言う。君、我が帝国の大使館へ来てくれないか。今すぐだ」
「えっ?」
「私はヴァイスブルク帝国大使のレオンハルト。我が大使館の魔獣管理事情は致命的に最悪でね。不器用な軍人ばかりで、皆『黒曜狼』のご機嫌取りに悩み、毛まみれになっている。……君の技術は、ただの散歩係ではない。芸術だ。大使館の総管理官……いや、『筆頭魔獣散歩卿』として、君を厚遇で迎えたい」
芸術。散歩卿。
ヴィルヘルムからは「誰にでもできる田舎の子供の雑用」と吐き捨てられた仕事を、この高位の貴族は真っ直ぐに「芸術」と呼んだ。
「私でよろしければ……」
リゼットの瞳から、一筋の涙が溢れた。それは悲しみではなく、自分の五年が報われた安堵の涙だった。そして何より、目の前の極上の『もふもふ』を毎日好きなだけブラッシングさせてもらえるという喜びに。
「喜んで、お引き受けいたします」
一方その頃、王宮の魔獣管理棟では、悲鳴と怒号と凄まじい遠吠えが飛び交っていた。
事の始まりは、リゼットが去った三日後のことだった。
新しい筆頭管理官となったシャルロッテは、獣舎に足を踏み入れるなり「臭い!」と鼻をつまんだ。
「本当に獣臭くて地味な部屋ね! こんな汚い獣をお客様に出していたなんて信じられないわ。さあ、今すぐすべての子たちに、この『薔薇の香水』を浴びせて、最高級のシルクのリボンを巻きなさい!」
「お、お待ちください! 魔獣は自身の匂いを消されることを本能的に嫌がります。それに、明日はレイスの岩場走りの日——」
「うるさいわね! 私の指示に従えないならクビよ! 岩場なんて汚らしいところに行ったら、リボンが汚れるじゃない!」
絶望する見習いたちを尻目に、致死量に等しい大量の薔薇の香水が白銀狼や双尾狐にドバドバと吹きかけられた。
結果——その夜から、王宮は地獄絵図と化した。
白銀狼のレイスは自らの体についた異臭にパニックを起こし、牙で自らの美しい銀の毛皮をむしり取り始めた。見事なもふもふは一夜にして無惨なハゲだらけの虎刈りとなり、ストレスで皮膚から血を流している。エレオノーラが残した『護衛獣運動管理台帳』にはそのことが朱書きで警告されていたが、台帳はシャルロッテによって初日にゴミ箱に捨てられていた。
「どういうことだ! なぜ自傷行為をする!」
「ま、申し訳ございません! 鎮静剤を打ちますが——!」
平謝りするヴィルヘルムだったが、悲劇はそれでは終わらなかった。
レイスを始めとする魔獣たちから、ついに『運動』の時間が完全に奪われたのだ。
リゼットがいれば、魔力量の増減を見極め、時には王宮の敷地外の山岳地帯まで連れ出し、完璧な運動によって魔獣の体内に溜まる熱を放出させていた。だが、シャルロッテにはその知識が全くない。
「なんか暴れてるわね。どうして大人しくしないのよ。もう、檻に閉じ込めて餌を半分にしなさいよ!」
無茶な指示。運動を禁じられた魔獣たちの体内では、行き場を失った強大な魔力が渦巻き、やがてそれは物理的な破壊力となって暴走を始めた。
「ギャァァァ! レイスの檻が溶けてる!」
「ルビーが口から火を吹いた! 厩舎が燃えるぞ!」
狂乱状態となったもふもふ……否、本来の凶暴で恐ろしい姿に戻った魔獣たちが檻を破壊し、王宮の中で暴れ回り始めた。
各国のVIPが連日激怒し、次々と他国のホテルへ逃げ出していく。
一週間もしないうちに王宮の外交機能は完全に麻痺し、国際的信用の失墜の責任を追及されたヴィルヘルムは、国王から騎士団の解雇と厳しい謹慎処分の勅命を受ける事態に陥った。
「ど、どうしてだ! ただ適当に歩かせて餌をやるだけだろう!? 薔薇の香水とリボンで飾り付けただけで、なぜ魔獣が発狂して炎を吐くんだ! なぜ王宮の庭が炭になるんだ!」
煙の立ち込める無惨に破壊された獣舎で、ヴィルヘルムは頭を抱えて泣き叫んだ。
シャルロッテは「私悪くないもん! 野蛮な獣が悪いんだわ!」と泣き喚いてとっくに実家に逃げ帰っている。
ようやくヴィルヘルムは気づいたのだ。魔獣は、ただ餌をやって飾り付ければいいというものではなかった。「ただの犬の散歩」などという適当な雑用はこの世に存在しなかった。あの泥だらけの長靴でリゼットが毎日やっていたのは、魔獣の機嫌取りでも遊びでもなく、この『王宮の平穏と魔獣の命そのもの』を管理することだったのだと。
それから一週間後。
なりふり構わず王都中を走り回ったヴィルヘルムは、ついに隣国ヴァイスブルク帝国の大使館の広大な庭で、巨大なケルベロスと優雅にフリスビーをして遊ぶ元婚約者・リゼットを見つけ出した。
「リ、リゼットォォ! 戻ってこい、お前が必要だ!」
大使館の芝生に駆け込んできたヴィルヘルムの姿は、ひどくやつれ、騎士団副団長の華やかな面影は微塵もなかった。豪華だったはずの制服からは、微かに焦げた獣の毛と泥の匂いが漂っている。
「お前がいないと魔獣が回らない! 狂乱して王宮の半分が燃えた! 頼む、昔のようにあの獣舎で、俺のためにただの犬の散歩の指示を出してくれ!」
芝生の中央。見事な艶を取り戻した漆黒のケルベロスの巨体に寄りかかりながら、リゼットは静かに振り返った。
その瞳には、かつての婚約者への未練はおろか、何の感情も浮かんでいなかった。ただの「見知らぬ通行人」を見る目だった。
「おかしなことをおっしゃいますね、ヴィルヘルム様」
彼女は、かつて自分が言われた言葉を一語一句たがわずに、完璧な発音で返した。
「私は毎日、見習いどもに『ただの散歩の指示を出している』だけでしょう? 適当に庭を歩かせて毛を梳かす。そんな田舎の子供にでもできるただの雑用だと、ご自身でおっしゃったではありませんか」
「そ、それは……! 俺が間違っていた! あのおぞましい魔力暴走! 炎を吐く銀狼! あの『台帳』がないと、散歩のルートもストレスサインも何も分からないんだ! 頼む、戻ってきて台帳を書き直してくれ!」
「その薄汚い手帳は、貴方がゴミ箱に捨てさせたはずですけれど?」
冷たく、完璧な拒絶だった。
ヴィルヘルムが絶望に顔を青ざめさせたその時、立派なバルコニーの上から静かな、しかし圧倒的な威圧感を持つ声が降ってきた。
「我が才能ある筆頭魔獣散歩卿に何か用かな。王家直属の泥棒ネズミよ」
現れたのは、レオンハルト大使だった。肌触りの良い上質なスーツを完璧に着こなした冷酷なる氷の公爵の威風堂々たる姿に、さらに彼の足元で「ガルルル……」と地獄の業火を口端から零して威嚇する三つ首のケルベロスを見て、ヴィルヘルムは恐怖で情けなく腰を抜かした。
「た、大使閣下……! そ、その女は我が騎士団の職員で、私の——」
「黙れ」
レオンハルトの氷青色の瞳が、ヴィルヘルムを射抜く。
「彼女の紡ぎ出す芸術的散歩管理を『ただの犬の散歩』と見下した愚か者が。彼女はすでに我が帝国大使館の最重要職員だ。お前のような、もふもふの被毛の美しさすら理解できない無能の元に還すつもりなど毛頭ない」
「そ、そんな……」
「帰れ。そして、焦げ臭く燃え上がった王宮で己の無能を一生悔やむがいい。二度と彼女の視界に入るな。……噛み殺すぞ」
最後の一言は、ケルベロスの三つの首が同時に放った低音の重唱と完全にハモっていた。
ヴァイスブルク帝国の屈強な警備兵に両脇を抱えられ、「リゼットォォ!」と泣き叫びながら無様に引きずり出されていくヴィルヘルムの背中を、リゼットは冷ややかに、しかしひどく晴れやかな気持ちで見送った。
彼がこれからどうなるか、考える必要もない。あの男の人生は、破壊された王宮の獣舎の瓦礫と共に、とっくに破綻しているのだから。
「……ひどい泥の匂いだったな。全くもって目障りだ」
「ふふ、そうですね。それからレオンハルト様。少しお昼寝に入りますから、ケルベロスの『黒曜』には腹巻きを巻いておきますね。彼は寝相が悪くてすぐにお腹を冷やしますから」
柔らかい日差しが降り注ぐ大使館の庭園。
レオンハルトが穏やかに微笑み、リゼットのために淹れた温かいハーブティーを差し出した。
その足元では、かつての獰猛な魔獣ケルベロスが、三つの頭で器用にリゼットの膝を取り合いながら、ヘソ天で高いびきをかいている。その極上のもふもふの毛並みは、太陽の光を受けて眩しいほど黒光りしていた。
「頼む。君の管理する散歩のおかげで、黒曜の毛並みは以前より三倍増しで輝いている。我が国の軍人たちも、君が来てから顔つきが全く違う。誰も彼もが、黒曜を撫でたくて仕事の効率が上がっているのだ。君は我が大使館の至宝だ」
「もったいないお言葉ですわ、レオンハルト様。でも、一番のご褒美はこの子たちの『もふもふ』を存分に堪能できることです」
受け取ったティーカップから立つ湯気は、かつて居たあの獣舎の殺伐とした空気とは違う、とても心地よい温かさだった。
——ただの犬の散歩の指示を出しているだけ。
ええ、そうですわ。
リゼットは紅茶を一口飲み、黒曜のもふもふの腹に顔を埋めながらふわりと笑う。
私はこれからも、ただ魔獣を散歩させ続ける。筋肉の張りを聞き、天候を読み、魔力消費を計算し、最高のもふもふ環境を設計する。私にしかできない、この完璧な実務を、私を真に必要とし、正当に愛でてくれる人たちのために。
新しい『大使館専用魔獣飼育台帳』は、すでにリゼットの美しい文字と、極上の抜け毛コレクションで満たされ始めていた。
窓の外の庭園では、鳥がさえずり、草花が揺れている。明日はきっと、極上の散歩日和になるだろう。
(了)
続編あります!
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