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想像の国のゼンパンク  作者: Kikuchi
第2章 (海未) 消された送金
5/5

 宝田海未たからだうみはいつもより少し早めに家を出た。

 マンションのエントランスを抜けると、秋の冷たい空気が頬を刺した。スーツの上からでも身が引き締まるような感覚がある。通勤ラッシュの時間にはまだ少し早いが、それでも駅へ向かう道には、ビジネスバッグを手にした人々が行き交っていた。

 都内での一人暮らしも、もうすっかり慣れた。仕事で帰りが遅くなっても気にする人はいないし、朝の時間もすべて自分のペースで使える。けれど、時々、無性に誰かと話したくなる瞬間がある。

 特に――父のことを思い出した時。

 父は元・財務省の官僚だった。

 中でも主計局に所属し、補助金や公共事業予算の編成を担当していた。

 だが、ある時期から「何か」に気づいた父は、その実態を追及しようとした。しかし、その矢先――家が謎の火事に遭った。

 煙の匂い。夜空を赤く焦がす炎。

 そして、炎の中でこわばった父の表情。

 あの出来事の後、父は政治や行政の話を口にしなくなった。

 父が暴こうとした「何か」の具体的な内容について、父は詳しくは話さなかった。しかし、そこには何らかの不正があったのだろう、と海未は思う。

 不正を暴こうとした結果、家族を危険に晒した。その罪悪感が、父を官僚の道から遠ざけたのかもしれない。

 海未がコンサルタントとして政府案件に関わっていることも、一応知ってはいる。

 だが、それについて何かを語ることはなかった。ただ、一度だけ「気をつけろよ」と呟いた。それだけだった。

 父さんはもう戦わない。でも、私は――。

 駅に着くと、電車がちょうどホームへ滑り込んできた。

 ドアが開き、乗客たちが乗り込む。海未もその群れに紛れつつ、思考を頭の奥へと押し込む。

 今日も、通常のコンサル業務。

 ただし、「父がかつて扱っていた補助金」を、自分が今、別の立場から追っている。

 そう考えると、政府案件という重さが、肩にのしかかるように感じた。


 会社に着くと、時計は8時半を指していた。

 外資系コンサルのオフィスは、ガラス張りの壁と洗練されたインテリアが目立ち、そこかしこで英語が飛び交う。

 海未はそのままプロジェクトルームへと向かい、指定されたデスクに荷物を置いた。ノートパソコンを開き、まずはメールチェックから始める。

 今回、彼女がアサインされたのは経済産業省の「地方産業活性化支援プロジェクト」。

 地方自治体と経産省が連携し、補助金を民間企業やゼネコンに振り分ける仕組みをモニタリングし、適正な運用を推進することが表向きのミッションだった。

 とはいえ、実態は単なる「監査」ではなく、省庁側の意向を汲みながら、企業向けの改善提案を行うのがコンサルの仕事だった。

 しかし、コンサル業界内では「政府案件はおいしいが、深入りすると厄介」というのが定説だった。

 政治的な意向や利権が絡み、下手に調査を進めると「余計なもの」を見てしまう場合があるからだ。

 そんなとき、隣のデスクに座っていた同期の瑞季みずきが声をかけてきた。

 彼女も同じプロジェクトに配属されているが、別の自治体の案件を担当している。

「海未、おはよう。そっちはどう?」

「うん、大丈夫。これから、補助金の支出先リストをもう少し詳しくチェックするつもりだけど」

 瑞季は頷きつつ、周囲を警戒するように声を潜めた。

「もし気になることがあったとしても、あんまり表立って動かない方がいいよ。経産省の意向が最優先って言われてるし。どうせ全部『国のために使われてる』って言われるだけかもしれないしね」

 海未は苦笑しながら「まぁ、そうかもね」と返す。

 だけど、心の底では違う思いがあった。

(私は、本当に適正に使われているのか確かめたい)


 打ち合わせを終えた海未は、オフィスのデスクに座りノートパソコンを開いた。

 画面の立ち上がる青白い光が、まだ覚めきらない頭を照らす。

 時計を見ると、午前10時過ぎ。コーヒーの残り香が漂う執務室では、同僚たちがそれぞれの業務に取りかかっていた。

 海未は、経産省の補助金の支出一覧のファイルを開く。

 その瞬間、無数の数字と項目がびっしりと並んだ表が目に飛び込んできた。

 経産省と地方自治体が連携し、複数のゼネコンに振り分けている資金の明細が羅列されている。

 まずは全体像を把握する必要がある。

 海未は、BIツールを使ってデータを可視化し、数十分かけて棒グラフやヒートマップを作成した。

 各建設会社の受注額、工事の進捗状況、自治体ごとの支出比率――それらが俯瞰できるように、何度も軸を変えて分析する。

 スクリーン上に浮かび上がった棒グラフを見ると、一見していくつかの主要なゼネコンが同程度の金額を受注しているのがわかる。

 特定の一社だけが極端に突出しているわけではなく、補助金の分配自体は公平に見えた。

(意外と普通に分散されてるんだな……)

 そう思った海未は、そのまま報告書の作成を始めた。

 しかし、途中まで作成したところで、その手が止まった。

 ――何かを見落としている気がする。

 何の根拠もなかったが、直感がそう主張していた。


 海未は視点を変え、今度は各自治体の補助金振込のタイミングと、実際の工事報告書の提出時期を比較することにした。

 一覧表をスクロールしながら、彼女はふと眉をひそめる。

(……おかしい)

 いくつかの自治体では、補助金の振込が工事報告書の提出よりも早いケースがある。

 本来であれば、工事の完了を確認してから補助金が支払われるはずなのに、実施前に資金が流れている箇所がいくつかあった。

(補助金を受け取った後で工事を始めることもあるだろうけど……これは?)

 パターンを見極めようと、海未はさらに詳細なデータを確認する。

 すると、ある自治体のデータが目に留まった。

 そこでは、本来の工期よりも極端に短い期間で工事が完了したと報告されている。

(この規模の工事を、たったこれだけの日数で……?)

 海未は違和感を抱えながらも、午前中の時間では掘り下げるのに限界があると判断した。

 午後にもう少し詳しく調べよう、とメモを取り、ファイルを一旦閉じる。

 手元のコーヒーカップを持ち上げると、もうすっかり冷めてしまっていた。

 オフィスの空調の音だけが静かに流れる中、海未は深く息をついた。

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