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翌朝、空人はいつもより早く起きて身支度を整えた。ワッペンをシャツのポケットに忍ばせ、鞄には念のため着替えを一枚。もしかすると何かあるかもしれないという漠然とした不安だ。
電車を乗り継いで、舞浜駅に到着すると、平日にもかかわらず多くの家族連れやカップルで賑わっている。
テーマパークの入り口へ向かう人々は皆、楽しそうだが、空人は胸に一抹の焦りを抱く。この人混みの中、どこを探せば「ゼンパンクへの入口」があるのか。
先にチケットを購入し、ゲートをくぐる。そこには華やかな装飾やキャラクターの着ぐるみがあふれ、いかにも夢の国の雰囲気が漂っている。しかし空人の心は浮き立つどころか、不安に押し潰されそうだ。改めて「本当にこんなところに『ゼンパンク』なんてあるのか?」と自問する。
パークのマップで「ギャラクシーマウンテン」の場所を探し、空人は人波を縫うように歩く。それはコースター系の人気アトラクションで、入り口前には待ち列が伸びている。「相変わらず人気があるのは確かみたいだけど……」と呟きながら空人は並ぶ。
順番が近づくとスタッフの女性が「お一人ですか? ではこちらへどうぞ」と笑顔で案内する。青いワッペンはまだシャツの内ポケットに入れているが、とりあえずこれを胸につけないと意味がないのだろうか。
アトラクションの乗り場に着く直前、空人はポケットからそっとワッペンを取り出し、シャツの胸ポケットあたりに貼り付けてみる。「これでいいのかな……」と思いながらシートに座り、安全バーを下ろす。
車両がガコンと動き出し、暗いトンネルへ突入する。期待とは裏腹に、何も特別なことは起きない。背中にはコースターの振動だけが伝わり、スピードが増して天井のライトや惑星を模した飾りが流れていく。
(……特別なことは起きそうにもない。でも、当たり前か……)
空人は心の中で苦笑する。コースが曲がり、急下降し、宇宙を模したトンネルをくぐるが、何の異変も起こらない。やがてアトラクションは無事にゴールし、ホームに到着してしまった。
シートから降りて通路を出ると、他の客たちが「楽しかったね」と言い合い、笑顔で進んでいる。空人はぽつんと一人で出口を抜けながら、落胆を隠せない。
(……以前に乗った時と何も変わらないな。林檎男に騙されたか?)
ワッペンも外して手のひらに握りしめる。あれほど壮大な話を聞かされて期待した自分が馬鹿らしく思えてきた。街の公園で怪しい男に声をかけられ、こんな遠路まで足を運んだのに何の収穫もない。
アトラクションの出口を出ると、そこは雑踏の中。土産物屋やレストランが並んでいて、楽しげなBGMが遠くから流れてくる。空人は肩を落としながら、「帰るか」と思わず口にした。
そのとき、突然スーツ姿の男が空人に近づいてきた。片手にはバナナを持っている。妙に場違いな印象を与える姿で、空人は思わず「え?」と声を漏らす。
男はにこやかに微笑み、小声で言った。「空人さんですね? 私がご案内します。……すみません、林檎じゃなくバナナで」
空人は驚きで一瞬言葉を失う。林檎男と同じ怪しさを感じるが、今度はバナナ? どういうことだ、と戸惑いながら、「あ、はい……」とだけ返す。
周囲の客に聞かれないよう、男は首をかしげてニコッとする。「こちらへどうぞ」
そのままテーマパークのスタッフエリアへ続く細い通路を歩き出し、空人は状況が分からないままついていく。警備員に止められるかと思ったが、男が何かカードを見せるとあっさり通過できる様子だ。
「さっきアトラクションに乗られてましたね? ワッペンを付けて。残念ながらそれを付けても『表のシステム』では何も起きません。ただ、正式にご案内を差し上げるのは私の役目でして」
男は軽くバナナの皮をむき、一口かじりながら歩く。「林檎男から話は聞いてますよ。ぜひよろしくお願いしますね」
空人は言葉にならず、ただ後を追う。先日公園で出会った『林檎男』と似た雰囲気を感じる。顔は一切違うけれど、まるで双子の兄弟のようでさえある。
スタッフエリアの細い通路をさらに進むと、「関係者以外立ち入り禁止」の看板がいくつも目に入った。
黄色のラインが引かれた床は冷たく、二人の足音だけが静寂に響く。男は無言のまま歩みを進め、途中で振り返ると「どうぞ、こちらへ」と柔らかく促した。
やがて、「危険!」と赤字で大きく書かれたゲートが姿を現す。その異様な存在感に、空人は無意識に足を止めた。
パークのスタッフであっても容易に近づかないであろう、その圧迫感のあるゲートは、まるでこれから先に待つ何かを警告しているかのようだった。
「ここを……通るのか?」
空人が戸惑いの声を漏らすと、男はあくまで落ち着いた微笑みを浮かべた。
「安心してください。この少し先に『ゼンパンクの入り口』があります。林檎男が伝えていなかったかもしれませんが、ゼンパンクへ行く道はアトラクションの一部ではなく、ここにあるんです」
男はそう言うと、胸ポケットから黒いカードキーを取り出し、付け加えた。
「ただし、カードキーが必要なんですよ」
ゲートを通過すると、視界の先に現れたのは無機質なコンクリートの壁だった。サビついた鉄骨がむき出しとなり、どこか湿った倉庫のような臭いが漂っている。
「……ここに入り口なんて、本当にあるのか?」
空人の言葉に、男は黙ったまま壁へ近づいた。そして、何の変哲もないコンクリート壁にカードをかざす。
カチリ。
小さな機械音とともに、壁の一部が音もなく横にスライドしていく。空人は思わず息を呑んだ。開いた先に現れたのは、意外なほど普通の一室だった。
その部屋は、無機質な会議室のようだった。
白い壁、金属製のテーブル、無人の椅子が数脚。部屋の隅には観葉植物が置かれているものの、その葉はどこか人工的で、妙に完璧な形をしている。
「ここ……は?」
空人が訝しむと、男は少し笑いながら答えた。
「ここはカモフラージュのための部屋です。万が一、パークのスタッフが入ってきたとしても、『管理用の監視室』と言い訳できる作りになっています」
男はそう言いながら、部屋の隅に設置された壁掛けのモニターを指差した。モニターには、パーク内の監視カメラ映像が映し出されている。
「でも――」
男は一歩前に出ると、壁にかけられた無骨な時計を手に取った。その背面に隠されていたのは、さらに小さなスキャナーだった。
「本当のゼンパンクへの入り口は、こちらです」
男がカードキーを再度スキャナーにかざすと、部屋の一角――まるでただの壁に見えた部分が、まるで溶けるようにゆっくりと開き始めた。
薄暗い通路の奥から、冷たい空気とほのかな機械の音が漏れ出してくる。
壁の奥へ足を踏み入れると、淡い蛍光灯の光が一面に広がり、そこには簡素なカプセルホテルのような構造が並んでいた。
合計20ほどのカプセルブースが上下二段で行儀良く整列している。各ブースには扉が付いていて、中の様子はよく分からない。
「ここがゼンパンクへの入り口ですか? まるでカプセルホテルみたいだけど……」
男はバナナの実を最後まで食べ、皮をすばやくビニール袋にしまうと、手を叩いて軽く笑う。「その通り、こちらが『ゼンパンクへの本当の入口』ですよ。あなたの身体をここで一時保管して、意識を仮想空間へ送るというシステムなんです」
空人は驚きと疑念が入り混じる。身体を保管? 意識を送る? 何を言っているのか理解が追いつかないが、男の言葉はどこか落ち着きと自信に満ちている。
「ゼンパンクは仮想空間ですが、一般的な仮想空間とは異なります。空想のエネルギーを多く必要とする場所なのです。ギャラクシーマウンテンに乗ってもらったのは、言わば最初のステップですね。その身体と意識の状態のまま、ワッペンを付けてカプセルに入っていただくことで、ゼンパンクへアクセスできます」
男がカプセルの一つを指差した。
「乗り込めば、本当に『ゼンパンク』へ行けるのか……」
空人は思わずつぶやいた。男は大きく頷き、「ええ、ゼンパンクの運営スタッフがあなたを歓迎しますよ。成果を出せば、報酬も用意されているとか」と微笑む。
胸が高鳴る。パークの客たちは、まさかパークの裏に、そんな秘密の空間が広がっているとは夢にも思わないだろう。だが、それと同時に疑念も湧く。「こんな怪しい施設に、本当に足を踏み入れていいのか? 何か危険なことに巻き込まれたりしないのか?」――心の中で警鐘が鳴る。
男はスーツのポケットから小さなカードを取り出し、「このブースを使ってください。ワッペンはつけたままで」と促す。扉が自動で開くと、中には薄いベッドのようなクッションが敷かれており、頭部にヘッドギアらしき装置が付いている。
「さあ、空人さん。どうぞ。時間がありませんから」
空人はカプセルの前で深呼吸した。妹の顔が頭に浮かぶ。もしこれが本当なら、膨大な報酬を得て妹を救えるかもしれない。騙されたとしても、やってみなきゃ分からない。
(俺がやらなきゃ誰が妹を助けるんだ)
そう心に言い聞かせ、「どうなるか分からないけど……やるしかないか」と低く呟いた。
男は微笑んで「大丈夫ですよ。ゼンジニアとして働くのは大変ですが、あなたならできるかもしれない」と手を差し出す。
空人はその手を軽く握り、「わかった」とだけ答えた。
カプセル内に足を踏み入れる。中は清潔感があり、ベッドのクッションに横たわる形を取ると、わずかにシートが身体を包むように沈む。天井部分にモニターや細かなランプが配置され、ヘッドギアらしき装置が上から下りてきそうだ。
(……そういえば、この状態でどうやって生活するんだ? トイレとか、飯とか)
ふと疑問が浮かび、空人はカプセルの内壁を見渡した。まるで病院のICUのような精密さがあるが、食事設備もトイレのようなものも見当たらない。
そんな空人の様子を察したのか、男が淡々と説明する。
「ご安心を。カプセル内では最低限の水分と栄養が点滴のような形で補給されます。排泄についても、自動処理システムが機能しますので、何も気にする必要はありません」
「……それは助かるけど、ちょっと不安になるな」
「快適とは言えませんが、ゼンジニアの皆さんは問題なく過ごされていますよ」
空人は半ば納得しつつ、今さらやめる理由もなかった。
「では、おやすみなさい――というわけでもないのですが、意識が移行されるプロセス中、少し寝ている感覚になるかもしれません」
男が言い終わると、空人の頭上に機械アームが伸びてきて、ヘッドギアを合わせる位置へガチャッと固定する。少し重いが不快ではない。胸につけたワッペンが微かに青く光るような錯覚を覚え、空人は不安と期待の入り混じった想いに囚われる。
(ゼンパンク……本当に存在するのか? 俺はどうなるんだ?)
その疑問を抱えたまま、カプセルの扉がゆっくりと閉じ、視界が薄暗い光だけになる。呼吸が急に深くなり、心拍数が上昇していくのを感じた。
「それでは、行ってらっしゃいませ。いい旅を」
外から男の声が届く。カプセルが完全にロックされた。まるでSFの小説に出てくるコールドスリープ装置にでも入ったようだ。心臓がドクドクと音を立て、その音が耳を圧する。
(俺は今、何をしているんだ……)と一瞬の後悔が頭をもたげるが、それもすぐに消える。妹の顔、林檎男の言葉、バナナ男の導き――全てがこの瞬間に集約されている気がした。
意識がぼんやりと遠のき、何か暖かい液体に包まれるような感覚が広がる。視界の端で、円相と回路紋様の描かれたワッペンが青く発光している錯覚を見た気がした。やがて頭が静かになり、体が宙に浮くような不思議な浮遊感に襲われる。
舞浜のテーマパークのごく一角で、誰も知らない「カプセルブース」に閉じ込められ、その意識がまるで異世界へ飛び立つかのように移行していく。その先に何が待つのか、どんな世界が広がっているのか――空人自身、全く想像もつかないまま、胸の奥に広がる期待感と歪な高揚感に、全身を委ねていった。




