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病院を出てから、空人は近くの公園へ向かった。彼は新しいコードのアイデアや仕事の悩みを整理するとき、決まって公園の片隅で瞑想をする。深呼吸をして頭を空にすることで、迷いや不安を一時的に封じ込めることができるからだ。
大きな木の下のベンチ。そこに座り、目を閉じる。ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。頭の中には夢花の顔、そして高額な治療費の数値がちらつくが、それを無理やり追い払うように息を整えた。
――だが、その日はいつもと違った。
「……いい天気ですね」
知らない男の声に、空人は思わず目を開いた。そこには、ネイビーのスーツを着てネクタイをきちんと締めた男が立っていた。不思議なのは、男が右手に赤く熟した林檎を持っていることだった。まるでどこかの童話から飛び出してきたような場違いな感じだ。その顔には底知れぬ笑みが浮かんでいる。
「あなたは……?」空人は一瞬警戒したが、男はにこやかに微笑み、すっと林檎を差し出した。
「食べますか? お腹が空いているならどうぞ。とはいえ、お代は結構ですよ。……ふふ、冗談です。実は、あなたに興味がありましてね」
最初は何のことだか分からなかった。怪しい勧誘か、あるいはネットワークビジネスの類だろうか?
空人は警戒しながらも、適当に相槌を打ち、会話を切り上げるタイミングを図る。
「ゼンパンク――仮想空間のようなもの、といえば伝わりやすいでしょうか」
男は澄ました表情で、空人に説明を始めた。ゼンパンクには、ゼンジニアと呼ばれる人々がいて、彼らは仮想空間を構築・拡張する仕事をしている。ゼンジニアリングと呼ばれるイメージや思考がそのまま形になる技術を扱うのだそうだ。そして男は、自分こそがそのゼンジニアをスカウトする係、いわば「ゼンジニアのスカウター」であるという。ある程度のプログラムスキルや瞑想習慣を持つ人間を探しているのだと言った。
男の話を聞くうちに、空人は言葉を失っていった。
「……信じられないでしょうが、あなたには素質がありますよ」男は微笑み、林檎をくるりと回した。「正直、報酬も破格です。仮想空間の構築に協力し、成果を出せば、あなたが求めている金額などすぐに稼げるでしょう」
男が口にした金額は、ちょうど空人が必要としていた金額を少し上回るほどの金額だった。
空人は半信半疑だった。しかし同時に、病院での現実が頭をよぎる。妹の治療費をなんとかしなくてはならない――その焦りが、男の言葉をまるで甘い蜜のように感じさせた。
「いや、だけど……仮想空間って。そんなのファンタジーでしょう? VRか何かの話ですか?」空人が戸惑いながら尋ねると、男はやんわりと首を振る。
「VRなんてものではありません。ゼンジニアリングで作り出されるのは、もっと直接的で、もっとリアルな空間です。名刺代わりにこれをどうぞ」
男はポケットから青いワッペンを取り出した。名刺ではなかったが、胸につけられるような形状で、不思議な模様が描かれている。中心に円相が描かれ、そこから回路のような紋様が広がっていた。
「舞浜にあるテーマパークに『ギャラクシーマウンテン』というアトラクションがあります。そのアトラクションに、この青いワッペンを装着したまま乗れば、あなたはゼンパンクへ行けます。行きたくないのなら、行かなくても結構ですが……」男は林檎をかじってみせる。その歯触りが、リアルな音を伴って空人に迫ってくる。
「あ、間違ってもテーマパークのスタッフに質問したりしないでくださいね。ギャラクシーマウンテンが入り口ではありますが、ゼンパンクはテーマパークとは無縁のプロジェクトなんです。まあその辺りの事情については複雑なので、ゼンパンクに行った際に調べてみてください」
男は淡々と続けた。
「お金がなければ、あなたが本当に守りたい人に愛を注ぐこともできませんよ。例えば……妹さんの治療費とかね」
その言葉に、空人はビクリと肩を震わせた。なぜ妹のことを知っているのか? そもそも妹の話はまだ何もしていない。
空人は男の顔を改めて見返す。その表情からは、彼の真意は読み取れなかった。
不審な気持ちも膨らんだが、それ以上に、この話に心が惹かれている自分がいるのも事実だった。もしこれが本当なら、空人には願ってもない話ではないか。
「どうします? 行きますか? それとも、行かずに妹さんを放っておきますか?」
その男の問いかけに、空人は答えられなかった。
「もし行くと決めた場合は、今の仕事は辞める必要があるのでしょうか?」
「いえ、仕事を辞める必要はありません。ただ最初の訪問であれば、長くて一週間ほどを見込んでいただくのがいいでしょう。なので案件の合間に、一週間ほど確保してください」
男の言葉を聞いても、空人はあまりイメージが湧かなかった。たったの一週間で何ができる? ソフトウェアであれば、一週間でできる実装なんて高が知れている。
しかし、現実ではありえないと否定しつつも、「もし本当なら」という希望は消えない。何よりアトラクションに乗るだけであれば、ノーリスクでできると感じた。
空人がワッペンを受け取ると、男は再び微笑んだ。
「よい判断を期待しています。――ああ、そうそう。僕の名前は……そうですね、林檎男とでも覚えておいてください。ふふ」
そう言うとスッと身を翻し、男はまるで風のように去っていった。空人が振り返った時には、もう公園のどこにもその姿はなかった。
林檎男――あの奇妙なスーツ姿の男と公園で会話してから、空人は自分でも驚くほど疲れていた。家に着く頃には夜になっていて、街灯のオレンジ色の明かりが静かな住宅街を照らしている。
家の鍵を開け、玄関の電気をつけると、急に現実が迫ってくるように感じた。公園で受け取った青いワッペンを胸ポケットから出し、改めてまじまじと見る。そこには筆で描いたような円相の模様と、そこから回路のような紋様が広がっている。まるで禅とテクノロジーが融合した不思議な意匠だ。
「……本当にこれで行けるのか?」つぶやきながら、ワッペンをキッチンのテーブルに置く。
林檎男は言った。「舞浜にあるテーマパークの『ギャラクシーマウンテン』に、そのワッペンを付けたまま乗れば、ゼンパンクへ行ける」——空人は心のどこかで鼻で笑っていたが、妹の治療費が嵩むこの状況では、ひとかけらの希望にもすがりたい思いがある。
冷蔵庫を開けるが食べる気力が湧かず、そのままシャワーを浴びて部屋着に着替えた。妹は入院中でこの家には空人しかいない。静まり返ったリビングはやけに広く感じられ、頭の中で、林檎男の言葉がリフレインする。
ゼンパンクへ行けば、多額の報酬が得られる。妹を救うお金が手に入るかもしれない……。
甘い誘惑だが、それでも現実離れしている。耳に残るのは、「禅とエンジニアリングの融合」「仮想空間」「ゼンジニアとして働け」など、まるでSFじみた単語ばかりだ。
机の上に放り出したワッペンを見つめていると、空人の胸には妙な熱が灯っていく。こんな荒唐無稽な話に乗るなんて馬鹿げている――理性はそう警告する。しかし、妹の苦悶の顔が脳裏をかすめる度、「やるしかないのか」と気持ちが揺れるのだった。
ベッドに横になっても寝つけず、スマホで「ギャラクシーマウンテン」を検索する。舞浜のテーマパークの人気アトラクションの一つとして紹介され、公式サイトにはキラキラした写真が載っている。でも、そんな場所に行けば「ゼンパンク」なる謎の仮想空間へ行けるという話は一切ない。
まさかこのワッペンを付けて乗り込めば、リアルに仮想空間へ飛べる……? 俺はそれを本気で信じているのか?
自問自答が止まらない。だがもし妹の治療費が必要な今、これが唯一の救いになるかもしれないのなら、挑戦する価値はあるのか。
(妹はまだあの病院にいるし……俺以外に頼れる人間はいない……)
目を閉じると、妹の顔が浮かぶ。医療費の額は膨大で、フリーランスエンジニアとしての稼ぎでは全く追いつかない。空人には両親がいないも同然、母は亡くなり、父もどこかへ逃げてしまった。結局、妹を守るのは自分しかいないのだ。
午前2時を回っても眠気が来ず、ついに空人は決断する。
(明日、舞浜へ行こう)
どうせデタラメかもしれないが、やってみるしかない。
スーツ姿の林檎男が「これを使えば報酬が得られる」と語った言葉を、今だけは信じてみよう。仮にそれが嘘だったとしても、イタズラだったと分かるだけで、それ以上のリスクはないはずだ。




