1
松島空人は、その日の朝、妹・夢花の病室を訪れていた。白いカーテンと白い壁、薄い青のベッドカバーが広がる病院の一室。夢花の顔は少しやつれているものの、空人が来ると、いつも笑顔を見せる。
「お兄ちゃん、おはよう」微かに顔を上げ、弱々しい声でそう言う夢花の姿を見ると、空人の胸は締め付けられた。ここ数日の治療の影響か、頬が少しだけ、こけて見える。
彼がベッド脇の椅子に腰を下ろすと、夢花はふと空を見上げるように天井に視線を移した。
「ねえ、お兄ちゃん……宇宙の始まりって、何があったと思う?」
不意の問いに、空人は一瞬返事に詰まる。小さい頃から、夢花はふとしたときに哲学じみた質問を投げかけてくる癖があった。
「宇宙の始まり? そうだな……ビッグバンとか、そういう科学的な話が定説なんじゃないか?」
「うん。ビッグバンは聞いたことあるよ。でも、そうじゃなくて、もっと本当の本当の最初に宇宙が始まった時って、どんな感じだったと思う?」
「……なんだろう。わからないなぁ」
「そっか。私ね、なんとなく『最初は一つだったものが、二つに分かれた』ってイメージがあるんだ。宇宙も、そうやって始まったのかなって……」
そう言って微笑む夢花の表情は寂しげで、けれどどこか儚い美しさがあった。空人は胸が締め付けられるような感覚を覚える。
部屋にノックの音が響いた。ドアに目を向けると、看護師と目が合った。
「松島さん、少しお時間よろしいですか? 先生がお話したいそうです」
「わかりました」小さく返事をして、空人は病室を出た。
相談室で主治医が待っていた。空人が椅子に座ると、主治医は深刻そうな顔で切り出した。
「夢花さんの病状ですが、今の治療だけでは根治が難しいかもしれません。最先端の治療はアメリカで行われていますが……」空人は思わず奥歯を噛んだ。海外での治療なんて、莫大なお金がかかるに決まっている。主治医は続ける。
「かなりの費用が必要になります。金額的には、今の日本での治療費とは比べ物にならないほどです」
そう言って主治医は、その金額が書かれた紙を机の上に置いた。一瞬、全ての思考が飛んだ。まさに天文学的と言っていいほどの桁違いの金額だった。
「もしその治療が難しければ、正直なところ……寿命は数年程度かもしれません」
廊下の白い蛍光灯の光が、かえって冷たく感じられた。空人は感情の波が押し寄せるのを必死に抑える。母が死んだときもそうだった――医師から告げられる事実の重み。「……分かりました」それだけ言うと、声を失った。
病室に戻ると、夢花がベッドから少し起き上がったところだった。
「大丈夫……? 先生と話してきたんだよね」小さな声でも、空人にはその響きが痛いほど伝わる。夢花は薄々、自分の病気に関する状況を理解しているのだろう。
「うん、ちょっと話をしてただけ。気にしないで」空人が取り繕うように言うと、夢花はかすかに笑う。
「お兄ちゃん、いつも苦しそう。ごめんね、私のせいで。私、知ってるよ。本当はもっとお金が必要なんでしょ?」
その言葉に空人はハッとする。妹に悟られないようにしていたつもりだったが、夢花にとっては自分の病気のせいで兄が苦しんでいることくらい、想像がつくのだろう。
「謝らないで。夢花は何も悪くない。俺が何とかするから。必ず……」そう言いかけて、言葉が詰まる。金策の当てもなく、ただ空元気を出すしかない状況だと分かっているからこそ、空人は自分に苛立ちを覚える。
「お金のことは気にしないで。お兄ちゃんがいてくれたら、私は幸せだよ」
夢花はそう言って、屈託のない笑顔を見せた。空人は、妹の純粋さと、自分の不甲斐なさで、胸が苦しくなった。
病院のエントランスを出ると、シャツの襟元を緩め、深く息を吐く。
(……どうすればいいんだろう)
まだ朝の涼しさが残る秋の空気の中、空人は大きく深呼吸をした。
身体が強くなかった母親は、空人が中学生の時に亡くなった。当時空人は、一生分と言っていいほどの涙を流した。
それから程なくして、父親は二人の子どもを置いて失踪した。
銀行口座に残っていたお金を大事に使いながら、そして様々なアルバイトを経験しながら、空人は妹と二人きりで生きてきた。若い頃からお金を稼がないといけなかったので、効率的にたくさんのお金を稼ぐため、独学でソフトウェアエンジニアリングの勉強をした。結果としてパソコン一台で稼げる能力が身に付き、それは今のフリーランスエンジニアという仕事に活きている。
父親の失踪について、当時は事態をすぐに飲み込めなかったが、大人になってから、「あの時の父親は逃げたのだ」ということを理解した。最愛の妻を亡くし、二人の子供を一人で育てることに疲れ果て、どこか遠くへ逃げたのだ、と。
今となっては、父親に会いたい気持ちさえなかった。そんな機会がもし得られるくらいなら、母親を生き返らせて欲しいと思った。
とにかく、残されたのは夢花と自分だけ。だから夢花を支えられるのは、自分しかいないのだ。しかし、どれだけ唯一の家族を守りたい気持ちが強くても、目の前の金銭的困窮は、切り抜けようがないほど大きな壁として立ちはだかる。
遠くで救急車のサイレンが鳴る。空人はその音を聞きながら、改めて自分の無力さに唇を噛んだ。
(アメリカでの治療費なんて、本当に支払えるのか? フリーランスのエンジニアでやってきたけど、この先の大きな案件だって、すぐには望めない……)
夢花の「宇宙の始まり」の問いが頭の中をよぎる。「最初は一つだったものが、二つに分かれた」――それはどこか不思議なイメージだが、今の空人には自分と妹が切り離されてしまう悪夢のようにも感じられた。
「……絶対にそんなの嫌だ。妹と離れ離れになるなんて……」思わず呟く声がかすれて、自分でも驚く。
今の自分にできることは何だろう? それを思いつくことができないまま、秋の冷たい空気だけが妙に肺に突き刺さるように感じられた。




