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アーカイブ・タワーの静かな一角で、空人は立ちすくんでいた。父の名前がゼンパンクの設立初期に関わっていたという事実が頭から離れない。黒塗りされたページの向こう側に隠された真実——それがただの偶然なのか、それとも自分と妹に直接関わる問題なのか、確かめずにはいられなかった。
(……もしかしたら夢花に、何か異変が起きているかもしれない)
ゼンパンクの時間は現実世界の数倍遅く進んでいる。ここでの一週間が現実ではわずか数日しか経っていない。しかし、タワー内にある「同期ブース」と呼ばれる場所だけは例外だった。先ほどゼンパンクについて調べていた際に見つけたその情報が、今の空人の頭に鮮明に浮かび上がる。
「ゼンパンク内の『同期ブース』は、現実世界と同じ時間の流れで会話が可能です。外部との連絡はここからのみ許可されています」
妹に直接確認できる唯一の手段——空人はすぐにアーカイブ・タワーの1階にあるそのブースへと足を向けた。
アーカイブ・タワーの奥まった一角に、その電話システム専用のブースは存在していた。周囲の静寂の中に浮かび上がるその扉は、まるでこの仮想空間と現実世界を繋ぐ唯一の「出入り口」のようだった。
「現実世界と完全同期中」と表示された小さなサインが、ブースの入口脇に光っている。その冷たい光に導かれるように、空人は扉を静かに押し開けた。
内部は簡素で無機質だった。壁には何の装飾もなく、ただ一つのホログラムパネルが中央に浮かび上がっている。空間はわずかに冷たく、ゼンパンク特有の夢のような空気感が、この小部屋だけは妙に現実的な緊張感に置き換わっていた。
空人は扉を静かに閉め、深呼吸を一つ。「何も起きていない」と信じたい気持ちと、「何かが起きているはずだ」という直感が交錯する。
ホログラムパネルに手をかざすと、現実世界の時間が浮かび上がった。東京はちょうど夜の8時を回ったところだった。たったこれだけの情報でも、現実と再び繋がる感覚に空人はわずかに安堵した。
妹、松島夢花の番号を入力する。数字が並ぶたびに心拍数が上がり、パネルの静かな光が部屋の中を不気味に照らしていた。
数秒間の無音——この静寂の空間が、やけに長く感じられる。ゼンパンク内の喧騒や光の洪水とはまるで異なる、現実そのものの冷たさが肌に染み込んできた。
コール音が鳴り始める。空人の胸の鼓動が自然と速くなる。まるで、長い夢から目覚めた瞬間のような、ざわめく感覚。数回目のコールの後、ついに夢花の声がスピーカーから聞こえた。
「……もしもし?」
その声は、思ったよりも元気そうだった。しかし、空人の耳にはどこか遠く感じられる。現実と仮想の距離感が、こうして直接声を聞くことで一層際立つのだった。
「夢花、俺だ。空人だよ」
一瞬の間——受話器越しの沈黙が、空人の胸をわずかに締め付けた。しかしすぐに、妹の声が少し明るくなって戻ってきた。
「お兄ちゃん? どうしたの? こんな時間に……」
空人はホッとしながらも、慎重に言葉を選び始めた。
「いや、ちょっと気になってさ。……そっちは大丈夫か? 何か変わったことはない?」
夢花は少し考えるように沈黙した後、軽く笑いながら答えた。
「うーん、別に何もないよ。私は普通に過ごしてるし。お兄ちゃんこそ大丈夫? 新しい仕事、大変なんでしょ?」
その言葉に、空人は一瞬戸惑った。(ああ、そうだ——夢花には「新しい仕事を始めた」とだけ伝えてたんだっけ……)
ゼンパンクに来る直前、妹に直接会えない期間が続く可能性があったので、「新しいフリーランスの案件も始まったから、しばらくは忙しくて連絡が減るかもしれない」とだけメッセージを送っていた。
「……ああ、仕事は大丈夫だよ」
「そっか」夢花は短く返した。
その声を聞きながらも、空人の胸の奥には引っかかるものがあった。夢花の無邪気な返答が、逆に不自然に感じる。ゼンパンクで見つけた父の名前、大河内の変化、そしてこの仮想空間自体の違和感——それらが頭の中で複雑に絡み合っていく。
「夢花が特に異常ないならよかった。でも、もし何か変だなって思うことがあったら、すぐに教えてくれ」
空人の声が少し真剣味を帯びると、夢花も少しだけトーンを変えた。
「うん、わかった。でも……お兄ちゃん、あんまり無理しないでね。声がちょっと疲れてる気がするよ」
その言葉に、空人は思わず苦笑した。現実世界と仮想世界の狭間で過ごしている自分の変化を、夢花は敏感に感じ取っている。家族ならではの直感なのか、それとも——。
「ああ、大丈夫だよ。ありがとう、夢花」
短い会話だったが、現実と繋がる唯一のこの瞬間は、空人にとって何よりの救いだった。




