誰かの物語
人の姿を得たぼくは、量販店で過ごす時間が増えた。
人々の声や気配が集まるこの場所は、風のように漂っていた頃から、ぼくのお気に入りだったから。
ある日、棚を眺めて歩いていると、一冊の小説が目に留まった。
表紙には見覚えのある言葉が並んでいた。
ページを開くと…、胸の奥が、ざわりと揺れた。
これは、ぼくがまだ“何か”だった頃、こたつで眠る若い女性の指先をそっと動かして書いた物語だ。
彼女は22歳の大学生で、夢のように静かな歌声を持つ人と、とても仲がよかった。
ぼくは物語を読み返しながら、あの夜のことを思い出していた。
彼女が眠りに落ちた、瞬間。
ぼくは彼女の中に流れ込むようにして、言葉を紡いで。
彼女の想いと、ぼくの願いが混ざり合って生まれた物語。
それが今、ここで売られている……。
従業員たちが「最近よく売れてるんだよ」と話しているのが聞こえる。
ぼくはそっと本を棚に戻し、静かに息をついた。
「その本、いいですよね」
ふいに声をかけられて、驚いた。
37歳の、手作り弁当を毎日持ってくるパートの男性は、今日この職場を離れるのだそうだ。
もう、指をトントンしながら考え込む姿も見られなくなるのだな…。
きっと、明日から…店内には、この人の噂が流れる事だろう。
最後にぼくと話してみたかったと言った彼は、棚の本を買って…晴れ晴れしい笑顔を残し、店を出た。
自分が知る物語が…自分が関わって書かれた物語が、誰かの手に渡っていく。
それは不思議で、少し誇らしい気持ちだった。
ぼくは今日も…量販店を歩きながら、時折立ち止まって、耳を澄ます。
誰かの声が混ざり合うこの場所で、また…新しい物語が生まれるのかもしれないから。
……ぼくの中にも、誰かの中にも。




