誰かの声
ぼくは、名前のない…“何か”。
姿も形もなく、人間の目には映らない。
ただ、街の片隅や家の隙間、誰かの肩越しに流れる空気の中で、そっと人々の暮らしを眺めている。
声を持たないぼくは、いつもなにかの声に耳を澄ませていた。
動物であったり、虫であったり、人であったり…、ささやきを拾っては、なにかを得て過ごした。
ある日、アパートの一室から、小さなため息が聞こえてきた。
若い女性が、机に向かい…悩んでいる。
ぼくはその肩に寄り添うように漂い、彼女の震える声を聞いてみた。
「うまく書けない…どうしたらいいんだろ」
その言葉が、なぜか…ぼくの胸の奥に、静かに沈んでいった。
別の日。
商店街の裏で、男性がひとり、空を見上げていた。
紙がいっぱいはさまったボードを持って、指先でトントン、トントン、トントントントン…リズムをとりながら。
「無事に建つといいな…。お客さんがいっぱい来たら、それだけで…御の字だ」
その声は弱々しいのに、どこか温かかった。
ぼくはその言葉をそっと拾い上げ、風に混ぜて遠くへ運んだ。
誰かに届くようにと、願いながら。
ぼくは声を持たない。
けれど、人間たちの声は、ぼくの中で静かに響き続けている。
喜びも、迷いも、祈りのようなつぶやきも。
どれも小さくて…、どれも大切だ。
今日もぼくは、誰かの声を探して漂っている。
姿はなくても、そこにある想いだけは、確かに感じられるから。




