崖っぷち領地を継いだ転生男爵~食料ほぼゼロだけど前世の知識で領民たちを救いたい~
長いこと眠っていたらしい。闇の底から、ふわりと意識が浮かび上がる。
「あぁ……ばーちゃん、もういないのか……」
眠っている間だけ忘れていた、どうしようもない寂しさが再び胸に押し寄せてくる。
祖母が死んだ。
たった一人の家族がいなくなり、俺は完全に一人ぼっちになってしまった。
ふもとの村の爺さん婆さんたちに手伝ってもらい、なんとか葬式を済ませた。そしてその夜、寂しさに耐えかねて無理やり眠りについたのだ。
重い瞼を開けると、漆喰の白い天井が目に映った。
「あれ……?」
違和感が全身を包む。ここは確か、築百年は経った木造の古民家のはずだ。なのに視線の先には、装飾の施された洋風の天井。
慌てて上体を起こし、周囲を見渡す。くたびれた絨毯、オークらしき木材の机。飾り気はないが、確かに「西洋の執務室」と呼ぶにふさわしい空間だった。書類が散乱し、妙に悲惨な状況になってはいるが……。
「……どこだ、ここ」
机の脇に、一枚の紙が転がっていた。分厚く、妙に上質そうな紙――いや、羊皮紙?拾い上げた瞬間、脳内に洪水のように記憶が流れ込んでくる。
ここは、崖っぷちの赤貧男爵領。そして、俺は――その若き当主。
「……マジか。俺、転生してるじゃん……」
状況を整理しよう。前世の俺は、物心ついた頃から祖母と二人で暮らしていた。人里離れた山の中の一軒家、いわゆる「ぽつんと一軒家」だ。
そこで畑を耕し、川で魚を捕り、森で木の実を拾う自給自足の生活。不便だったけれど不思議と満ち足りていた。ばーちゃんと二人だけの世界は、静かで、温かくて、優しかった。
――だが、理由は定かじゃないけれど、ばーちゃんが死んだ後、俺はこの世界に転生してしまったようだ。
あっちで死んだのか?寂しさに耐えかねて死んでしまったのか?自殺した記憶は全くないのだが……
それに、ここはどこなんだろう?過去の地球なのか、それとも異世界か……蘇った記憶の地名や国の名前、ここでの暮らしぶりを見ても、中世っぽいというだけでよくわからない。
それらはとっても気になるが、だがそれにも増して気になるのが今世の俺の状況だ。
ここは、村ひとつだけの小さな男爵領で、俺はその家の嫡男だった。奇しくも、前世の俺と同じ、今年十八で成人したばかりの若造だ。厳しい領主教育は受けてきたが、経験も実績もない青二才。
これから、父について色々学ぶはずだったのだが、その父は盗賊討伐に出たまま帰らなかった。傭兵崩れの盗賊団に返り討ちに遭い、討伐に参加した村の男衆もろとも討たれたのだ。
残されたのは、森に逃げ込んで難を逃れた老人と女子供、そして彼らの避難をまかされた俺だけ。村の備蓄は根こそぎ奪われ、領主館も荒らされた。俺は即座に男爵位を継ぐことになったのだが、親族たちや亡母の実家は、こんな貧乏領に手を貸す気など毛頭ない。
父の死から半月、孤立無援のまま、寄り親である伯爵家から一通の羊皮紙が届いた。
『爵位継承は認めるものの、これ以上の瑕疵は看過できない』
書面には二つの条件が記されていた。
一つ、伯爵家からこれまでに借り受けた借金を三年以内に返済すること
一つ、この冬を、餓死者を出さずに乗り切ること
そして、その後にさらりと書かれた一文。
『なお、援助は一切行わぬ』
「……こりゃあ、無理ゲーだな」
もし条件を果たせなければ、俺は借金奴隷として鉱山送り。その上、領地は没収され、村は隣の子爵領に吸収されるという。
――なるほど、出来レースか。
そういえば、子爵は昔からうちの領地にある川の水車を狙っていたな。幸い、村から離れていたため、盗賊たちによる破壊は免れていたが……。
「あんな水車、お前たちには宝の持ち腐れだ」と、ことあるごとに嫌味を言っていた。
無理もない。うちの川は水量が豊かで、あの水車はこの辺りでは珍しいほどの稼ぎ頭だった。この時代、水車とは策謀の種になるほど貴重で重要な産業基盤でもある。
「……そうか。この間、伯爵家の五男が子爵家に婿入りしたんだったか」
間違いない。伯爵と結託し、合法的に水利権を奪うつもりだ
でも何故こんな回りくどいことを?
それは無法に奪えば、侯爵に目をつけられるからだ。
俺の村を含むこの一帯の正式な領主は侯爵で、伯爵はその代官のようなものに過ぎない。やり手の侯爵は、領内の不正を許さないだろう。
盗賊に返り討ちに遭った父の死は、貴族的には不名誉だが、表向きは「名誉の殉死」。だが、その後継ぎ(俺)が領地経営に失敗したとなれば話は別だ。それは大手を振って処罰できる「失態」となる。だからこその、こんなにも厳しく、達成不可能な条件なのだ。
すべては、俺を合法的に潰すための罠
無理難題を突きつけられた俺は絶望のあまり卒倒した――どうやら、その直後に転生したらしい。
今日は、生き残った村人たちと今後のことを話す日だ。混乱する頭を抱えながらも、その記憶を取り戻し、俺は重い体を引きずり村へ向かった。
扉が引き倒された領主館の門を抜けると、広場に村人たちが集まっていた。その数は五十人ほど。俺に気づくとざわめきが止まり、いくつもの視線が突き刺さる。
村の長老が、おずおずと一歩前に出た。
「……伯爵様には、無事に爵位の継承をお認めいただけましたでしょうか?」
その声音には、切実な恐れが含まれていた。俺が爵位を継げなければ、彼らの土地も権利もすべて宙に浮く。まさに死活問題だ。
「ああ、認められたよ……だがな」
俺は羊皮紙の内容を簡潔に伝えた。話し終えると、村人たちの顔から一斉に血の気が引いていく。
「餓死者を出すな、とは……無論そのつもりですが」
長老がかすれた声で言った。
「収穫したばかりの今年の麦も、備蓄も、家畜も、すべて奪われました。避難の時に持ち出した食料も残り僅かです。それなのに、援助無しにこの冬を越すなど……どうすれば……」
言葉の終わりは震え、今にも泣き出しそうだった。
「失敗すれば、俺は借金奴隷だ。そうなれば、お前たちも無事ではすまない」
羊皮紙には書かれていないが、没落した小領の農民など、農奴に落とされるのが常だ。だが俺は知っている。奴隷になること、それはこの世界の人々にとって、生きるより辛い屈辱だということを。
絶望が広場を支配した。泣き崩れる老婆、呆然と天を仰ぐ老人、母親にすがりつく子供……。 その光景を目の当たりにした俺の頭の中で、冷ややかな声が囁いた。
(冗談じゃない……)
前世の「俺」の声だ。五十人もの命が俺の肩に?ばーちゃんと二人、静かに暮らしてきた俺に、そんな重責を背負えるわけがない。いっそ、この村を捨てて一人で森にでも逃げ込むか? その方がよほど現実的だ。
そう思考が冷たく結論づけた、その瞬間だった。胸の奥から、魂を焼くような激しい衝動が突き上げてきた。
(――見捨てられるものか!)
今世の「俺」の魂が、心の中で咆哮した。脳裏に、この身体に刻まれた記憶が鮮やかに蘇る。 森から何とか村に帰りついたあの日。夫が亡くなったことを告げられ声もなく崩れ落ちた妻の姿。親の死を知って、それでも健気に俺を見上げてきた子供の瞳。「坊ちゃま…いえ、若旦那様……」震える手で俺にすがった長老の、あの必死の形相。今世の「俺」は、その一人一人の顔も名前も知っている。
見捨てない。この者たちを、見捨てることなど出来る訳がない!
それは、前世の俺が決して抱くことのなかった、あまりにまっすぐで、青臭くて、どうしようもなく高潔な魂の叫びだった。その凄まじいまでの意志を目の当たりにして、逃げようとしていた自分がひどくちっぽけに思えた。
そうだ。何とかしなければ。いや――俺が、何とかするんだ。
前世の山で採った様々な食材の映像が去来する。前世の記憶と、今世の覚悟。その二つが一つに溶け合うのを感じながら、俺は顔を上げた。目の前の絶望に沈む村人たちを見据え、力強く宣言する。
「――まずは、生き延びることから始めよう。森に入れば、何か食べられるものがあるはずだ」
その言葉が、俺たちの再起の始まりだった。
幸いにも今は実りの秋、半日足らずで村人たちは、いくつもの籠にいっぱいの野草や根菜を収穫して戻ってきた。
「これだけあれば、しばらくは持ちそうだな」
そう口では言ったものの、心の中では不安が拭えない。籠の中の野菜はどれも細くて歪だ。
長老が苦い顔をして言った。
「若旦那様……これらの野菜は足が早うございます。採って十日も経てば、黒ずんで腐ってしまいます。とても冬越しの食料には……」
「……そうか」
俺は手に取った渋ニンジンを眺めながらうなずいた。前世の日本の野菜のように品種改良されているわけではない。だからこそ、傷みが早いのも当然だ。わずかな希望を見つけたと思ったが、現実はそう甘くない。
「それでも無駄にはできない。とにかく、まずは洗って天日に干そう。少しでも長く持つようにするんだ」
俺の指示のもと、広場にはいくつもの茣蓙が広げられ、その上に野菜が並べられた。 初秋のやわらかな日差しがそれらを照らし、水分をゆっくりと奪っていく。
「子供たちは森で薪を集めてくれ。夜は冷える、焚き火を焚こう」
そう声をかけると、子供たちは勇んで森に駆けていった。やがて、広場にはいくつもの薪の山が出来上がる。乾いた木の香りが風に乗って漂った。
夕暮れが来る前に、薪をくべて焚き火を起こすと、青白い煙が立ち上った。その匂いを嗅いだ瞬間、胸の奥に懐かしい記憶がよみがえる。
――ぽつんと一軒家の裏にあった、あの掘っ立て小屋。ばーちゃんが、畑で採れた大根をせっせと燻していたっけ。あの香ばしい匂い、冬の朝に食べた燻りガッコの味。
「……そうだ、燻せばいいんだ!」
思わず声が出た。野菜も、乾かして燻せば長期保存できる。それに渋みやえぐみも和らぎ、食べやすくなるはずだ。
「俺に考えがある。みんな、もうひと踏ん張り頼む!」
その言葉に、疲れ切った村人たちは顔を見合わせた 希望というにはあまりに小さな光だったが、それでも俺の心が確かに動き始める。手近な枝をつかむと、地面に図を描きながら説明した。
「こうやって……穴を二つ掘って、煙を通すんだ。片方で火を焚いて、もう片方に野菜を吊るして燻す。熱じゃなくて“煙”で乾かすんだ」
野菜の燻製などこの世界では誰も知らない知識だった。村人たちはぽかんとした顔で見つめている。すると、老婆のひとりが小さな声でつぶやいた。
「ああ、魚を干すのと似ておるな」
その一言で、場の空気が「あぁ、なるほど」と変わってくれた。
俺はその機を逃さず、鍬を手に取り穴を掘り始めた。すると女たちは、疑問を飲み込んで縄を撚り始めてくれた。
暗くなるまでまだ時間がある。子供達には「脂の出ない生木の木や枝」を取りに行ってもらった。
残りの者たちも、俺の図面を見ながら木を組み立て始め、そうして広場の片隅に、急ごしらえの小さな燻製小屋ができあがった。
本当は粘土で隙間を埋め、煙が逃げないようにしなければならないが、それは明日の作業にして、火床に乾いた薪で種火をおこす。火が熾火になったのを見計らい、そこへ子供たちが持ってきた生の枝を数本くべた。
するとジュッという湿った音を立てて生木が燻りはじめ、甘く苦い匂いの煙がゆっくりと立ち昇った。
「焦げないように、火は弱く保つ。煙だけを通すんだ」
そう説明しながらも、俺自身も息を呑む。 うまくいく保証などどこにもない。だが、やらなければ冬を越せないのだ。
数刻が過ぎ、あたりはすっかり暗くなった。小屋の隙間から立ちのぼる煙はやや青く、鼻に心地よい。試しに一つ、吊るしていた不格好な野生の大根を取り出してみた。まだ温かく、手に持つとしっとりしている。切ってみると、中までじんわりと色が染みており、噛むと燻された香りと共に、わずかな甘みが広がった。
「……うまい」
思わず漏れたその一言に周囲がざわめく。老婆が一口かじり、涙をこぼした。
「ただの根っこが……なんという滋味深い味になるんじゃ……」 「ほんとだ……これなら、冬でも食べられるかもしれん!」 次々と手が伸び、笑い声が広場に満ちた。
煙に包まれた夜闇の中、焚き火の赤が村人たちの顔を照らしている。その表情は、ほんの少し前とは比べ物にならないほど生気に満ちていた。
それから、俺たちは村総出で森からの収穫と燻製作りに取り組んだ。当然、俺もその作業に加わった。なんといっても、俺が始めたことだ。領民たちと一緒に森に入り、燻製小屋の火の番もする。忙しく立ち働くことで、底冷えするような不安から逃れられる気もした。
男手が圧倒的に足りないから大掛かりな狩りは出来ないが、罠を張って兎などの小動物の肉も収穫でき、それらも燻製肉にしてゆく。
食糧の見込みが多少改善したことで、村人たちは以前のように気安い会話をするようになった。そんなある日、子供たちが無邪気におしゃべりしている中で、俺は耳を疑う言葉を聞いた。
「にーちゃん、これが終わったら、荒れ地に行って甘い大根採りに行こうよ」
年少の子が兄に向かって言った、そのたわいない会話に、俺は思わず手にしていた野菜をとり落としてしまった。
甘い大根だって……? まさか、異世界転生ものの王道のアレか!?
「おい、甘い大根って言ったか? 本当にこの近くにあるのか?」
思わずその子の肩をがしりとつかむと、子供は目をまん丸にし、涙をためながらコクコクとうなずいた。
「はい、荒れ地に自生している大根ですな」
俺の興奮した様子に、長老が慌ててやってきて教えてくれた。
「ですが…まぁ、甘いといえば甘いのですが、渋みが強くて、とても食べられたものではございません。儂も子供の頃にかじって遊んだものですが、大人が食うものではありませんな」
そうは言うが、甘大根――もしこれが、いわゆる甜菜というものなら、異世界ものの定番、甜菜糖で一発逆転も夢じゃない! 俺は子供たちに頼み、村の大人たちも伴って荒れ地へ案内してもらった。
目に入ってきたのは、秋の黄みを帯びた荒れ地に緑の葉を広げ、ところどころに小さな種の穂をつけた甜菜の群れ。葉の間から、ごつごつとした根が顔を出している。中には小さな花の跡があり、種が育ち始めている株もあった。
「間違いない! これは甜菜だ!」
俺はその場で大声を上げ、小躍りして喜びを爆発させた。 秋風に揺れる緑の葉と、種を抱えた株の光景が未来の希望を象徴しているかのようだった。
こうして何株かを収穫し、村に戻った俺だったが、でもその頃にはすっかり落ち着きを取り戻していた。というのも、前世のぽつんと一軒家での出来事を思い出したからだ
子供の頃、ばーちゃんが山で甜菜の株を収穫してきたことがあった。
「これは…砂糖を作って一獲千金のパターンじゃん! 異世界ノベルでよくあるやつだ!」
家が町から遠く、学校に通えなかった俺の小中学は通信教育だった。月に一度、役場の移動図書カーがふもとの村にやってきて、そこで教材を受け取る。ついでに本も借りていたのだが、寄贈された蔵書の中には、なぜか異世界もののラノベが結構な量あったのだ。
そして俺は、そのラノベで「甜菜糖で一獲千金」というパターンを知っていた。
俺がそう言うと、ばーちゃんは渋めに苦笑した。
「じゃあ、やってごらん」
教えてもらいながら、甜菜の蕪を小さく切って水に浸し、それからお湯で煮詰める。何度も挑戦したが、真っ白な砂糖などとても作れそうになかった。それどころか、砂糖を結晶化させる段階の温度管理は非常に繊細で、いつも砂糖になる前に焦がしてしまっていた。
結局、せいぜい土っぽい甘いシロップができる程度だった。灰を混ぜて土臭さを和らげることまではできたが、砂糖の結晶を精製するのは、とてもじゃないが無理だと悟った。
「それでも、シロップだけでも出来れば、この世界では貴重な甘味になるかもしれない」
そう思いなおした俺は、前世の記憶を頼りに甜菜を鍋にかけた。 そうして、飴色の甜菜シロップが出来上がったのだ。
「でもな……やっぱり甘みが薄いんだよな」
もともとの甜菜は野生のものなので、出来上がったシロップの甘みは控えめだ。ただ、幸い村人に頼んで甜菜の種も十分に採れたので、次は畑で育てることができる。
「甜菜もね、畑で肥料をたっぷりやれば、もっと甘くなるんだよ」
あの時、ばーちゃんがそう言っていた。
でもここで問題があった。この村は寒冷な気候のせいか森の腐葉土は薄く、良い土作りには家畜の糞が必要不可欠だ。休耕地に家畜を放し飼いにして糞をさせ、自然に土を肥やしていた。でも……
「盗賊ども、家畜を全部持っていきやがった……」
そこで、また前世の記憶を思い出した。ぽつんと一軒家では鶏を飼っており、鳥小屋の掃除は俺の仕事だった。集めた糞は堆肥桶に入れ、落ち葉をかけて発酵させる。春先にはその堆肥を畑にまき、土を作っていた。
「……これを、人糞でやるしかない」
俺は村はずれに簡易トイレを設置し、用はそこで足すよう村人たちにお願いした。以前は茂みに穴を掘って用を足していたため、抵抗があるかと思ったが、意外にも村人たちは素直に従ってくれた。
それでも……。
「若旦那様、それで……これは、何にお使いになるおつもりで?」
長老がひきつった顔で見つめるのは、簡易トイレから引き出された木製の桶。中は糞と尿でいっぱいだ。
「これを堆肥に使う」
長老はヒュッと息を呑んだ。
「まさか、この人糞で野菜をお育てになるおつもりで?……」
周囲の村人たちも一斉に視線を向ける。
「人の糞を畑にまくなんて……においがきつくなりませんか?」 「病気になったりしませんか?」 「これを使ったら、まるで糞を食べることになるような気がしますだ……」
村人たちは顔をしかめ、不安や抵抗を口々に訴える。この世界では、人糞に対する忌避感は前世以上に強烈なのだ。
「これは発酵させてから使う。だからにおいも薄くなるし、病気にもならない。まずは、ここにたまる糞尿を毎日堆肥槽に移すんだ」
そう言って糞尿でいっぱいの桶を持ち上げると、村人たちは一斉にのけぞった。
最初のうちは、村はずれに作った堆肥槽へ糞尿を移す作業は、俺ひとりの役目だった。
鼻をつまみながらの重労働で、村人たちも距離を置いていた。しかし、やがて子供たちが興味を示し、手伝いに来てくれるようになった。次第に大人たちも加わり、誰かが桶に糞を入れ、誰かがその上に落ち葉をかぶせる――そんな流れが自然とできていった。
ある程度たまった頃、俺は棒で全体をかき混ぜ、空気を入れる作業を始めた。
村人たちは最初、顔をしかめていたが、槽の中身がすでに黒っぽい土のように変わっているのを見て、思わず声を上げた。
「おお、土みたいになっとる!」
「これをまけば、良い土ができそうじゃ」
穢れの最たるものであろうと、躊躇わずに利用する――
村人たちは、今はこれしか頼る手立てがないという現実と覚悟を受け入れつつ、来春には畑が再生できるかもしれないという希望も、同時に抱いていた。
冬の足音が近づく。朝には森や畑に霜が降りはじめ、冷たい風が村を吹き抜ける。
本格的な冬――俺たちの生死を分ける戦いが、もうすぐ始まろうとしていた。
燻製技術で、とりあえずの食料は確保できた。しかし、全員でこの冬を越すには絶対的に心もとない。それに、破壊された村のインフラも手つかずだ。何より、三年で伯爵家からの借財を返済する目処は全く立っていない。
このままでは先がない。誰かから支援を取り付けなければ――。
俺は、目の前にある小さな樽に目をやった。試行錯誤の末に今回作り上げたシロップだ。やはり甘みは控えめだが、砂糖や蜂蜜の高価さを考えれば、現状でも十分価値のある代物だと思う。これを原資に、村のための支援を取り付けるしかない。
しかし、まず頼るべき伯爵は、子爵と結託している可能性が濃厚で、だから村のための支援も期待薄だ。それどころか、シロップを渡せば製法や土地を根こそぎ奪われるリスクすら孕む。
「そうすると……侯爵閣下か……」
伯爵を飛び越えて侯爵に直接シロップを差し出す……
でもこれは明らかに秩序を乱す行為。今世の俺の知識に照らせば、最悪、不敬として命を奪われる可能性もある。しかし本格的な冬の到来までひと月もない。
「村を救うためには、この手しか考えつかない……」
俺は拳をぎゅっと握りしめ、決意を噛みしめた。
俺は長老に村を託し、一人村を出た。
厚いマントの上から背負った背負い袋にはシロップの小樽。伯爵領都までは歩いて半日だった。そこから乗合馬車で侯爵領へ向かう。
「オヤジ、これを売りたい。いくらになる?」
俺は、荷物の中から取り出したボロ布の包みを、武器屋の店主の前に差し出した。
「……ほう、これは?」
布の中から、柄に繊細な装飾が施された短剣が現れた。
「盗品じゃない。親の形見だ」
「形見……ですか」
鋼の刃は、じっと見つめる店主の顔を映していた。
「これを」
討伐の前、いつも無口な父は、その時もその一言しか言わずにこの短剣を差し出した。
村人たちは俺に託された。もし盗賊に見つかり囲まれたら、嬲られる前に、これで彼らを楽にしてやらなければならない。その時は、それが俺の最後の仕事になるはずだった。
俺は、短剣の代わりにボロ布の上に置かれた数枚の金貨を、そのまま包んでチュニックの内ポケットに慎重にしまった。
侯爵領の領都まで三日。その間、命を失うかもしれない恐怖よりも、日ごとに冬の色を濃くしていく景色の方が、気になって仕方がなかった。
侯爵領都に到着した俺は、最低限の服を整え、侯爵館へと足を進めた。門の向こうには広大な庭園が広がり、その遥か奥に本館らしき白亜の館が見える。その景色が示す権力の巨大さにたじろぎつつ、俺は門番に声をかけた。
「侯爵様に、急ぎ申し上げたい用件がございます。お取次ぎいただけますでしょうか」
最初は、貧相な青年の訪問に厳しい表情を見せていた門番も、俺が孫子にあたる男爵家当主であると告げると、態度を改めた。
「ふさわしい者に声をかけてまいります。こちらでお待ちください」
そう言うと、門番は奥へと引っ込んでいった。
閉ざされた門の脇で、俺は立ったまま待たされた。朝に訪れたはずが、日が大分傾くころになってようやく門が開き、一人の恰幅のいい中年男が現れた。侯爵家の家令だという。
男は目だけで俺の全身を一瞥した。
「突然のご訪問と伺っておりますが、どのようなご用向きでしょうか」
「侯爵様に、急ぎ申し上げたいことがございます。直接お耳に入れねばならぬ件です」
男は少し考えるように顎に手を当ててから短くうなずいた。
「左様でございますか……では、まずお話をうかがいましょう。こちらへどうぞ」
彼に導かれ、ようやく門の中に足を踏み入れることができた。でもそのまま、内側のすぐ脇の小さな建物の一室に連れていかれた。
漆喰の壁に石畳の床、樫の木の長いすと長机。良く掃き清められていて清潔だが、応接室というより待合室のような、うすら寒い部屋だった。ここで騒げば、門衛が飛んできてつまみ出されるのだろう。
俺が長椅子に腰かけると、家令は長机の向かいにある椅子に腰を下ろした。
促されるまま、俺が領の現状と支援の必要性を説明すると、黙って聞いていた家令は、やがてゆっくりと口を開いた。
「……それなら、直接の寄り親である伯爵家にお話を持ってゆくべきではございませんか?」
「それも考えました。しかし、今回の件はそれだけでは済まぬのです」
ここからが正念場だ。おくびにも伯爵たちの謀の話は出せない。俺は深く息を吸い、落ち着いて口を開いた。
「支援を賜るに足る証として、我が家伝の技を用いました。それで――甘いシロップを作ったのです」
家伝というのは真っ赤な嘘だが、俺の言葉を聞いて家令の眉がわずかに動いた。
「シロップ……甘味と申されますか?」
「はい。試しに作ったところ、思いがけず良いものができました」
現状、シロップはまだ甘みが薄く未完成だが、そんな核心には触れず、そして大嘘にならない程度に風呂敷を広げ、可能な限り言葉を尽くして説明した。
「……しかもこのシロップは、大量に安定して製造することが可能なのです」
最後に言葉を切り俺は、この中年の家令の目をまっすぐに見据えた。
――その価値が、どれほどのものになるか。お分かりいただけますよね?
「ふむ……」
家令は低く唸り、長く息を吐いた。
「なるほど、それは……確かに、侯爵様にお伝えすべき話かもしれませんな」
こうして、後日の呼び出しを取り付けることに成功した。本当の勝負はこれからだが――少なくとも、危険な賭けへの第一関門は突破できたようだ。
俺は宿で侯爵家の使いを待った。そして十日後、侯爵家がよこした質素な馬車が迎えに来た。
シロップの小樽を膝に抱え、侯爵邸へ向かう。
案内されたのは別館の質素な一室だったが、応接室であることには間違いないようだ。やがて家政長を名乗る年配の男が、数人の使用人を伴って現れた。その中には、前回出会った家令の姿もある。
「それが件のシロップですか?」
家政長は俺の膝の上に目をやった。侯爵閣下が直接味見を希望されるかもしれないとのことで、その中身を見せることとなった。
俺は樽を目の前の机の上に置き、蜜蝋で厳重に塞いだ蓋を慎重に開けた。
濁りも、異臭もなく、甘い香りが鼻を突く。
「まずはわたくしが毒見をしてお見せします」
使用人から渡されたスプーンでシロップを少量すくい、水あめのようなそれを口に運ぶと、柔らかな甘味が口に広がった。
(傷んでは……いないようだ……)
ここで第二関門突破。運搬の際は温めないよう細心の注意を払っていたが、蓋を開けるまでは中の状態を確認できず、毎日眠れぬほどに心配していたのだ。
家政長もひと口味見すると、静かに頷いた。使用人たちは慌ただしく部屋を出て行く。
第三関門突破――ついに、侯爵への謁見が決まった。
小樽は使用人に託され、俺はそのまま部屋で待たされた。
その間、上位者に対する謁見の作法を心の中でおさらいしながら時を待つが、胸の奥はざわつき、息は早くなる。手も足も、小刻みに震えて止まらなかった。
かなり長い時間待たされた後、扉が静かに開き、使用人に先導されて、本館の通用口から執務室へと連れて行かれた。
さあ、勝負の時だ。
侯爵閣下は小柄な初老の男性で、ふくよかに膨らんだ頬にニコニコとした笑顔を浮かべていた。
「遠路をよく来たな。わしの為になにやら土産を持ってきたとのこと、大変殊勝じゃ」
やり手と呼ばれる侯爵の、思いがけない柔らかな言葉と温厚そうなその雰囲気に、俺の体の震えは自然に止まった。
(いい人そうだ……)
侯爵は机の向こうから、にこやかに促した。
「新たな甘未を開発したとな?詳しく説明せよ」
俺は深く息を吸い、落ち着いて言葉を紡いだ。領が危機に陥ったこと、家に伝わる方法(実際は前世の記憶だが……)を使い村の支援のためにシロップを作ったことを伝える。
侯爵は静かにうなずくと、執事から差し出された小皿に盛られたシロップを受け取り、小さなスプーンで口に運んだ。
「ほう……これは……」
しばし味わいながら目を細める。
「砂糖とも、蜂蜜とも違う柔らかな甘みじゃな。なるほど、これは確かに……わしに伝えせねばならぬ話かもしれぬな」
そう言って笑みを浮かべた。現代の記憶からすれば頼りなくとも、今世の人たちにとって、十分貴重な甘みと判断してもらえたようだ。
「家伝であるか。それなら、その内容をつまびらかには出来ぬのであろうな?」
「はい……」
俺は申し訳なさそうに頭を下げる。
――ここも想定された正念場だ。
できれば、今冬だけでなくもっと長期の支援を取り付けたい。だから製法についてのカードをここで切るのは拙速だ。その代わり、俺が『金のなる木』であることを理解させる。
「家伝の詳細はお伝え出来ませんが、本日献上いたしたものよりさらに上質なものを作るめどがあり、その準備も進めております」
あの堆肥をたくさん与えて甜菜を栽培する。そうすればこれよりずっと甘みの強いシロップが大量にできるはず。
「それらを今後、侯爵閣下に直接献上差し上げることも可能だと思っております」
すると侯爵は「さようであるか」と満足そうにうなずいた。ただ、一瞬、侯爵の眉間に皺が寄ったように見えたのは気のせいか?
だが意外にも、製法についてはそれ以上聞いて来なかった。様子見するつもりか、それともここで強引に迫り逃げられることを警戒したのか――ちょっと拍子抜けしていると
「セバスチャン」
侯爵は後ろに控える執事に問いかける。
「この小樽、蜂蜜であったらいくらになるかのう?」
「この大きさであれば、金貨三十枚、上質なものなら五十枚といったところでしょうか?」
「そうか」と、しばし考えてから鷹揚にうなずいた。
「ではこの小樽、金貨百枚で買おう」
ひゃ、百枚!!
「この値段で、お前の領の窮状を救えるか?」
にこやかに問いかける侯爵閣下に、俺は思わず生唾を飲み込み、上ずった声で答えた。
「じゅ、十分であります。それだけあれば、わが領を救うことが出来ます!」
金貨百枚あれば、この冬越しはおろか、荒らされた村も立て直せる。
「ありがたき幸せ……」
俺は思わず、崩れるようにひざまずき、額が床につきそうになるほど頭を下げた。
良かった。ここまで来たのは正解だった。
賭けは勝ちだ、大勝ちだ!
これで、みんなを救える――村のみんなの笑顔が、脳裏に浮かぶ。
命を賭して、侯爵閣下のもとに来て良かった……本当に、ほんとうに来てよかった……
きつく閉じた目に、思わず安堵で涙がにじんだ。
「だがな小僧」
突然、侯爵閣下の言葉が刃のように低く響いた。聞き違いかと思わず見上げると、閣下の顔には相変わらずふくよかな笑顔が浮かんでいた。
「おまえは、寄り親を飛び越して儂の前に顔を晒したのだ」
でもその目は、鋭く冷たい光を宿していた。
「この金で、お前の首も買われたこと、ゆめ忘れるなよ」
部屋の温度が一気に下がった気がして、俺はそのまま、また頭を下げて床に額をつけた。
――でも、それは一瞬だった。
閣下の声はすぐに朗らかさを取り戻し、そのまま話を続ける。
「帰りの馬車はあるか? 無ければこちらで用意させよう。あぁ、それから、伯爵にも言って聞かせておかねばならんなぁ……セバスチャン、書状の準備をせよ」
さっきの一瞬が幻だったかのように、閣下は機嫌よさそうに話を進めるのだが、俺は動くこともできず、手足がガタガタと震えていた。
「……ありがたき……幸せ……」
その言葉をひねり出すのが精いっぱいだった。
帰りは、家政長に見送られて正面玄関の大扉から送り出された。だが、俺の背中は冷たい汗でびっしょりで、手足の震えも止まらなかった。
侯爵家の紋が描かれた馬車で、宿へ向かう膝の上には、金貨百枚が入ったずしりと重い袋。
これで間違いなく村は救われる。それに、伯爵にも書状を出すといっていたから、無闇はできなくなるはずだ。
そんなことを考えていたら、あの時の閣下の顔が浮かび、思わず金貨の袋に添えていた手を放す。
――ニコニコと笑う目に宿る鋭利な光。
結果的に、今回の行動で俺は寄り親である伯爵を明らかに裏切った。
だが――『侯爵家への裏切りは、絶対に許さない』。
たとえ今後、甜菜シロップがどんなに富を生もうとも。
あの目の威圧はそれを語っていた。
――そして金貨百枚。
あの甘みの薄いシロップに、やはりそんな価値があるはずない。閣下が投資したのは、「さらに上質なもの」を作る約束と、「それを献上し続ける」未来。果たせなければ、俺の首は容赦なく刈られる。
「皮肉なもんだ……」
つい声になって漏れた。
目の前の「冬越し」という絶望的な壁を乗り越えるために足掻いたら、「侯爵」という怪物の巨大な壁の前に立ってしまった。これは、冬を越すことよりずっと難しい問題かもしれない。
……そういえば、俺はなぜ転生したんだろう。
前世の俺は、ばーちゃんが死んだ後どうなったのか。寂しさに耐えかねて死んだのか?結局、何も分からないままだ。
だが、今はそんなことを考えている暇はない。それに、もうどうでもよかった。
確かなことが一つだけある。今回の困難は、智慧のない今世の俺だけでも、覚悟のない前世の俺だけでも、決して乗り越えられなかった。
今世の「俺」が持つ、民を守るという揺るぎない覚悟。前世の「俺」が持つ、ばーちゃんと生きた実践的な智慧。この二つが一つになったからこそ、俺は今ここにいる。
膝の上の金袋を、今度はぎゅっと握りしめた。
化け物の掌の上だろうが関係ない。二人の「俺」が力を合わせれば、きっと次の困難だって乗り越えていける。
そして
「――絶対に、村を守り抜いてみせる」
馬車の外に広がる、冬の気配が色濃くなってきた街の景色を見据え、俺は……いや俺たちは、静かに、だが強く、そう誓った。




