009,疲れたから膝枕してくれない?
夜も更け、屋敷がすっかり寝静まった頃――
ユウト・ラグネアは、ランプの灯りだけが照らす書庫の片隅にいた。
机の上には厚みのある一冊の本。
背表紙には、金文字でこう記されている。
《位相魔導式における双方向転写理論/クルーゲル=ガーレス教授著》
(ほんとに……送ってきやがった)
ぼそっと呟きながらも、ユウトの手はもうページをめくっていた。
開いた瞬間、文字の海が襲いかかる。
理解不能の数式と、意味の通じない専門用語。
けれどユウトの目は、眠気どころか、逆に研ぎ澄まされていく。
(……この記述、前論文と矛盾してる。いや、違う。別の角度から見れば……)
ページをめくる音だけが、部屋に響いた。
外の月は、とうに天頂を越えている。
だがユウトは気にも留めない。
その姿は、まるで“怠惰の皮を被った狂人”。
――いや、むしろ効率という名の神に仕える、最短距離で真理へ辿り着く求道者だった。
椅子にもたれ、眉をひそめる。
(クルーゲルの教授……やっぱこの人、馬鹿だ。いや、天才なんだけど、書き方が馬鹿)
一言ぼやいて、すぐに続きを読み始める。
疲労はあるはずなのに、目の奥は異様に冴えていた。
やがて、ページの余白に何かを書き込む。
「式の逆解、可能。けど導出条件が曖昧。精度を削るか……」
淡々と、しかし確実に。
ユウトは理論の奥底へ、自分の足で潜り込んでいく。
やがて、窓の外が微かに白み始めた頃――
「……あ、やべ。もう朝か」
ようやく顔を上げたユウトは、苦笑しながら本のページに栞を挟んだ。
そして呟く。
「クラリスにバレたら怒られそうだな……“徹夜とか最低”って顔で」
でもその口元には、どこか満足げな笑み。
本を胸に抱え、背もたれに寄りかかる。
そこには、“天才”でも“貴族”でもない、ただ魔導という学問を愛する一人の青年の姿があった。
朝の光が差し込むころ。
ユウト・ラグネアは、書庫の長椅子で半分眠りながら目を覚ました。
「……うーん、あと五式分だけ……」
ぼそりと呟いて、再び本に手を伸ばす――その瞬間だった。
「――やっぱりここでしたか」
低く、冷ややかな声。
顔を上げると、そこには完璧なる令嬢・クラリス・アーデルヴァインが、きっちり朝の身支度を済ませた姿で立っていた。
その隣には、いつの間にかイネスの姿も。
「……君たち、早くない?」
「あなたが遅すぎるんです。朝食の席に現れず、書庫を見に来たら……この有様」
クラリスは眉間を押さえた。
「寝てないんですか? また?」
「いや……徹夜っていうか、読んでたらいつの間にか朝だったというか……ほら、新刊来たから」
「“読んでたら朝だった”って、一番怒られるやつなんですけど」
イネスが呆れ混じりの声を上げる。
それでも、クラリスは怒鳴らなかった。ただ静かに近づき、ユウトの頬にそっと手を伸ばす。
「……熱はないようですね。でも顔色、悪いです」
「クラリス様、薬草湯と栄養スープ、厨房に用意させました。今ならまだ温かいかと」
「ありがとう。イネス、あなたも寝かせる準備を。寝具をここに持ってきて」
「かしこまりました。観察日誌の“過労項目”に加筆しなきゃ……」
「今なんか言った?」
「いえ。では用意してきます」
イネスがすっと退室し、クラリスはユウトの前にしゃがみこんだ。
「……あなたね、そういうところがずるいんです」
「え?」
「本当は誰よりも努力家で、根を詰めて……でもそれを“怠け”の仮面で隠して、誰にも心配させない」
「心配、してたの?」
「当然でしょう。あなたは……私の旦那様ですから」
小さな声だったが、はっきり聞こえた。
ユウトは、一瞬だけ目を見開く。
そして――
「じゃあ看病、よろしく。俺、意識飛ぶかも」
そう言ってそのままクラリスの膝に頭を預けた。
「――ちょ、ちょっと!?」
「こうすると、気遣って怒られないって気づいた」
「最低……でも、今だけは特別に許します」
クラリスは顔を赤くしながらも、そっとユウトの髪を撫でた。
「……ったく、膝を枕にするなんて……」
静かに寝息を立てるユウトの額に、クラリスは冷たいタオルを乗せながら、小さくため息をついた。
書庫は、先ほどまでの魔導書や研究資料で散らかっていたが、その中でも――一冊だけ、明らかに“使い込まれたノート”が目を引いた。
装飾もなければ、表紙に名前すらない。
「……まったく……」
クラリスはそっとそのノートを手に取り、何気なくページを開いた。
そこで、彼女の時間は止まった。
――“重層式魔導回路の簡易展開と、精神干渉の回避プロトコル”
整然とした字。几帳面すぎず、しかし論理に一切の乱れがない。
通常、専門家でなければ理解に至らない高度な式が、簡略化されている。
さらにページを捲れば――
《魔導式の“熱干渉”理論における誤謬》
→“現行理論では対魔導障壁の起動時に熱負荷が集中する問題について、エネルギーの逃げ場を失う構造上の矛盾がある”
→“式全体の逆算ではなく、起点の定数定義を再編することで解決可能”
「……嘘……でしょう……?」
クラリスの手がわずかに震えた。
これは、王国魔導学会がいまだ解明できずにいる課題だ。
それを、寝巻き姿でふらふらしていた男が――たった一人で、しかも誰にも見せず、ノートに淡々と書き記している?
捲っても捲っても出てくるのは、誰にも知られていない未踏の領域。
そのすべてが、あの気怠げな青年の脳内から生まれているという事実に、クラリスは背筋を凍らせる。
「……ユウト……あなた……」
彼の寝顔を見下ろしたクラリスの心に、ある感情が走る。
それは――畏怖。そして、ほのかな悔しさ。
彼女は努力でここまで来た。完璧主義者として、名家の名に恥じぬよう、すべてを積み重ねてきた。
だがこの男は、“気まぐれに思索しただけ”で、その何歩も先を行っていた。
「……私が、あなたに追いつくには……」
彼女はそっとノートを閉じ、ユウトの額のタオルを取り替える。
――けれど、なぜだろう。
この天才に対して、妬みよりも先に浮かんだのは、不思議と、誇らしさだった。
「……やっぱり、見逃しておけないわね」
今夜、クラリスは初めて“嫉妬ではなく、挑戦”の目でユウトを見た。
そして彼女の中に、新しい決意が芽生えていた。
――この男に、恥じぬ伴侶でいるために。