008,危ないところだった?なんてことないだろ
市の南通りを歩いていたときだった。
何の前触れもなく、馬の嘶きが空気を裂いた。
「ッ!? あれは……っ!」
暴れた一頭の馬が、荷馬車を引いたまま暴走していた。
飼い主の手綱は既に外れ、通行人が悲鳴を上げて逃げていく。
しかも、その進行方向――そこには、小さな子どもが一人、棒付きキャンディを握ったまま立ち尽くしていた。
「ユウトさん、下がっていて!」
クラリスが、瞬間で走り出した。
(は?)
ユウトは一歩遅れて状況を理解した。
クラリス・アーデルヴァイン――王国でも屈指の名家の令嬢が、
その完璧に整えられたドレスの裾を無理やり引き上げ、素手で暴走馬の正面に突撃した。
「そこまでですわ、無礼者ッ!!」
まさかの正面突破。
ドレスのヒールを蹴り脱ぎ、クラリスは馬の顔に向けて鋭く手をかざした。
魔導結界でも張るのかと思ったその瞬間――
バチンッ!
乾いた音が響いた。
(……え、平手打ち?)
そう、彼女は本当に――馬の横頬に、思いきり張り手を見舞ったのだ。
あまりの衝撃に、馬は一瞬ひるんだ。
その隙にクラリスは手綱を掴み、懐から取り出した香草を鼻先に押しつける。
「落ち着きなさい。あなた、走っていい血統じゃありませんわよ。品性が足りません」
誰かが叫んだ。「あれ、アーデルヴァイン家のご令嬢じゃないか!?」と。
その一方でユウトは――呆然とした顔で、飴玉を握った子どもとともに立ち尽くしていた。
「……いや、うん。普通に怖えよ、クラリス……」
そして一拍置いて、子どもがぽつりと呟いた。
「……あの、お姉ちゃん、ヒーロー?」
「……違う。あれは、貴族っていう生き物だ」
その後、クラリスのドレスは少し破け、ヒールは片方行方不明、
周囲の見物人は勝手に拍手喝采、ユウトは「結婚相手ってあれでいいのか……?」と小さくうめいた。
暴れ馬は――次の日、王国軍の訓練馬にスカウトされたらしい。
その夜、クラリスはいつもより遅く寝室に戻った。
小さなランプの明かりだけが、広い部屋をぼんやりと照らしている。
机の上には紅茶が一杯――彼女自身が淹れたものだ。
香りはいい。温度も丁度よいはず。だが、彼女はそれを一口も飲まないまま、ひとり頬杖をついていた。
「……なによ、“狂犬作戦”って……馬鹿みたい……」
誰にともなく呟く声が、部屋に溶ける。
口元には、なぜか緩んでしまう笑み。すぐにそれに気づいて、慌てて手で押さえた。
「ち、ちがう……私は別に、感謝してるわけじゃ……ない……」
視線は机の角。そこに、今朝ユウトが適当に書き置いた「今日は昼まで寝る」のメモがある。
紙一枚なのに、なぜか目に入るたびに胸がザワつく。
「……何あれ。殴り書きもいいところじゃない……字も汚いし……なのに……」
小さく、心の中で付け加える。
(……なぜか、ちょっと……あの“らしさ”が、嫌いじゃない)
瞬間、何かに気づいたかのようにクラリスはバッと立ち上がった。
「ち、ちがうわよ! 私はただ、貴族として最低限の感謝をしているだけで……!」
(……誰も聞いてない)
でも止まらない。
「それに、手を繋がれてドキドキしたとか、そういうのじゃないから! 勘違いしないでよね、ユウト!」
ひとしきり抗議のような独り言を終えると、クラリスはふぅと深く息を吐いた。
「……ったく、なんで私が、こんな……」
顔を赤くしたまま、彼女はようやく紅茶に手を伸ばす。
でも、カップを口に運ぶ直前で、ふと思い直す。
「……もしかして、また“見透かされた”とか思われてたら……嫌……かも」
その瞬間、ふわりと表情がほどけた。
――そして彼女は、そっと紅茶を戻し、部屋の明かりを消した。
その夜、クラリス・アーデルヴァインはいつもより長く、ベッドの中で眠れなかった。
原因? もちろん――「あいつ」のせいである。
「まあ、あいつなら怒るよな」って思いながら、紅茶を飲んでた夜
深夜0時をまわった頃。
ユウト・ラグネアは、屋敷の一角――自室ではなく、談話室のソファに沈み込んでいた。
手には、クラリスが淹れた紅茶。
(……苦い)
そう思ったが、何も言わない。いや、言う相手もいない。
天井を見上げながら、ため息だけをひとつ。
(にしても、今日はよく歩いたな……)
街でのひと騒動。
暴れ馬と、それに素手で飛びかかったクラリスの勇ましい(※後で怒られた)姿。
ついでに、やたらと視線を気にしていたクラリスが、何度も帽子の位置を直していたことも――なぜか妙に印象に残っていた。
(……いや、帽子はどうでもいいんだけど)
思考を切り替えようとするが、ふと、クラリスの顔が脳裏に浮かぶ。
不機嫌そうに口を尖らせながら、時折、視線をそらすあの感じ。
言葉ではツンケンしていても、腕を掴めば振り払わず、どころか少し力が入るあたり――
「……まあ、あいつなりに頑張ってんだよな」
ユウトはカップの紅茶を見つめながら、ぼそっと呟く。
誰にも聞かれない声。
自室に戻る気にもなれず、ただ静けさの中で過ごす深夜。
彼はふと、ソファの横に置かれたメモ帳を手に取った。
何気なく書き込む一行。
「クラリス、傘を忘れる。次回、折り畳み持たせること。」
(……気遣いって、言わなきゃ気づかれないし、言ったら怒られるし。めんどくせえな)
でも、どこか少しだけ――笑ってしまう。
紅茶を飲み干して、立ち上がる。
その背中は、寝巻き姿でも妙に整っていて、静かな風格を感じさせた。
そして彼は、最後に一言だけ呟いた。
「……まあ、明日も“怒られに”行ってやるか」
その言葉には、ほんの少しだけ――期待と、興味と、照れが混ざっていた。




