007,こんな日があったっていいと思ってるあたり俺も毒されてる
「……ねえ、ユウト。たまには街に行ってみない?」
クラリスがそう言ったのは、午後の紅茶が終わり、空気が少しだけ緩んだ頃だった。
「街? 俺が? ……歩きで?」
「当然です。馬車は目立ちますから。今日は“お忍び”です」
「忍んだことないけど」
「心配しなくていいわ、私が用意してあるから。地味な外套と、あなたの分の服も。まさか、それすら拒否するつもり?」
「……布団の方が忍びの極意に近いと思うんだけど」
「出発は十五分後です。遅れたら、あなたの枕を焼却します」
──そして現在。
俺はクラリスとともに、王都の南区を歩いている。
地味な外套にフードをかぶり、通行人に紛れてひっそりと歩く俺。傍らには、徹底的に庶民風に偽装された“元・悪役令嬢”。
……とはいえ、顔立ちと雰囲気までは隠せない。
何人もの男がすれ違いざまに振り返るのを、俺は何度か見た。
「……お前、普通に目立ってるからな?」
「気のせいです。私が誰かなんて、わかるはずがありません。むしろ、あなたの眠そうな顔の方が印象に残ると思います」
「なるほど、俺が囮ってわけか。光栄だな」
「そう捉えていただけると助かります」
市場には、香辛料の匂い、焼き菓子の甘い香り、果物の彩り、子供たちの笑い声が満ちていた。
クラリスはそんな風景に溶け込むように、静かに、けれど楽しそうに視線を巡らせていた。
「……こういうの、意外と好きなんだな」
「意外とは失礼ですね。私は貴族である前に、ひとりの民として、この国を知っておくべきだと思っているのです」
そう言いながらも、焼き林檎の屋台をじっと見つめていたその目が、思いのほか純粋だったのを、俺は見逃さなかった。
「……食べるか?」
「い、いえ……私は、そういうものには……」
「買ってくるわ。お前のその言い方は“欲しいけど遠慮してる”やつだ」
「ま、待ちなさいユウト! 勝手に行動しないで――!」
俺はクラリスの制止を軽くスルーして、焼き林檎を二つ買った。
戻って手渡すと、彼女は明らかに動揺しつつ、顔を逸らした。
「……ありがとうございます。でも、次からは黙って行かないでください。……少しだけ、心配しますから」
「へえ、心配なんかしてくれるんだ」
「二度言いません」
彼女はひと口、焼き林檎をかじった。カリッとした音が、妙に耳に残る。
……その瞬間の笑みは、あまりに自然で、
屋敷の中では見せたことのない“年相応の少女の顔”だった。
俺はふと思った。
この散歩を「たまには」じゃなく、「よくあること」にしても、案外悪くないのかもしれない、と
「……あの、お嬢様。クラリスお嬢様、ですよね?」
その声が聞こえた瞬間、空気が凍った。
市場の片隅、果物屋の屋台に立ち寄った時だった。
クラリスのフードの隙間から、うっすらと覗いた銀金の髪――それを見逃さなかった少女がいた。
「いつも掲示板で見てるんです! 学院時代からのファンで……あの、サインとか……!」
「っ……ちがっ、私は……っ」
クラリスが珍しくどもる。
慌てて視線を伏せ、フードをかぶり直すが、声はどんどん周囲に広がっていく。
「クラリス様!?」「え、あのクラリス=アーデルヴァイン!?」「本物?」
人だかりができはじめる。ざわめき、熱気、好奇と羨望の目線。
クラリスは明らかに困惑していた。
本来なら毅然と対処する彼女が、どうしてか、この“市井の期待”には戸惑っている。
……このままだと、厄介なことになる。
「よし、じゃあ撤退しよう。作戦名は“陽動:野良犬作戦”。クラリス、右に二歩、目線下げて」
「は、は?」
俺は素早く果物を一個手に取り、全力で――地面に叩きつけた。
パシャッ!
「うわっ!?」「汁飛んだ!」「誰か暴れてる!?」
即座に、俺は大声を上げる。
「誰か! このへんに狂犬がいたって通報あっただろ!? 早く安全な場所に避難を――!」
「狂犬!? まじで!?」「さっき変な鳴き声したって聞いた!」
情報の精度より、テンションと勢いが勝る街の群衆心理。
野次馬の意識が、クラリスから逸れる。彼女はぽかんと口を開けたまま、俺を見た。
「……あなた、なにを」
「ほら、今がチャンス。右にある小道から抜ける。あとは任せろ」
俺は彼女の手を引いた。拒否されるかと思ったが、意外にもすんなりと指が絡まる。
「……ふ、不本意ですが……助かりました」
「だろ? 俺、けっこうやればできるから」
「“やれば”ね。普段やらない癖に……」
そう言いながらも、彼女はほんの少しだけ笑っていた。
俺はその笑顔を、見ないふりをしながら、群衆のざわめきの向こうへと足を早めた。
※後日――
イネスの観察日誌にはこう記されていた。
《日誌No.28:即興騒動処理能力》
対象者、突発事態に対して“最小労力かつ最大混乱”を引き起こす手段を即時に判断。
あれは……もう戦略兵器では?