005,また俺の知らない話?なんてこと言うんだ!ぷんぷん
次の話はイネス視点のまとめみたいなものです。文字数だけ3000字あるので暇なとき読んでください
それは、とある夜のことだった。
屋敷の奥、暖炉の火が揺れる書斎にて。
クラリスは、湯気の立つ紅茶を口に運びながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。
「……夜は、静かですね」
「お嬢様が屋敷を引き継がれて以来、静けさは相変わらずでございます」
そう返したのは、傍らに控えるメイド長――イネス・バルドレイン。
長年仕えてきた忠義の象徴にして、彼女の片腕。
しばらく沈黙が落ちる。
だがその空気を破ったのは、クラリスのごく控えめな“つぶやき”だった。
「……あの男、今夜も廊下に布団敷いて寝ていました。意味が分かりません」
「そうでございますか。昨日は書庫の下に潜って寝ていたはずですが……彼なりに、居心地を探しているのでしょう」
「なんなんですの、あの……生き物は。言葉が通じているのかも怪しいのですけれど」
「ですが、時折――いや、ごく稀に、まるで人の芯を読んだような言動をなさいます」
クラリスは目を細める。
「ええ。それがまた、厄介ですわ。……冷静になればなるほど、“自分の方がおかしい”ような気がしてくるのです」
イネスはそこで、珍しく口元に笑みを浮かべた。
「お嬢様。初めてユウト様に“動揺”という感情を抱かれたのは、いつ頃で?」
クラリスは黙ったまま、そっと紅茶に視線を落とした。
「……見透かさないでくださる?」
「申し訳ありません。ですが……お嬢様とユウト様の関係、私は“悪くない”と思っております」
「“悪くない”ではなく、“許容範囲”の間違いですわ」
「それは光栄です」
ふっと二人の間に笑いがこぼれる。
だが──その後。
イネスの声が、わずかに硬さを増す。
「ですが、忠告を一つ。……お嬢様。あの方の“怠惰”は、ただのだらけではありません」
「……ええ。それは、分かっています。彼は、意識的に何かを“遠ざけて”います。人も、責任も、過去も」
「それでも、目は濁っていない。私はそれが一番、怖いのです」
クラリスは小さく頷いた。
「……このままでは、きっといずれ彼は“全部”を手放すでしょうね。自分が望んだ通りの、静かな終焉を」
「止められるのは、お嬢様だけです」
クラリスは一口、紅茶を飲むと、ぽつりとつぶやいた。
「……あなた、私と同じ顔をしていました。あの人を見ていたとき」
「…………」
「……ねえ、イネス。わたくしたちって、“完璧でいようとする人間”でしょう? でも彼は、“不完全でも完成してる”みたいな顔をしてる。それが腹立たしいのです」
イネスは静かにうなずいた。
「ええ……それが、羨ましいのです。きっと、お嬢様も」
クラリスはそっと椅子から立ち上がった。
ドレスの裾を揺らし、暖炉の火に背を向けながらこう言う。
「……では、明日から第二段階を始めましょう。あの男に、“不完全さの居心地”を奪う作戦」
「承知しました。メイド全隊、配置完了済みです」
「ええ。あとは私が、きっちり囲い込んでみせますわ」
そう、これは宣戦布告ではない。
静かな共犯者同士による、“改造計画”の始まりだった。
──それを、誰よりも無防備な寝顔で眠る男は、まだ知らない。
朝の光が差し込むリビング。
今や整えられた調度品と、磨き込まれた床が、嘘のように整った空間を保っていた。
──だが、その中心で。
「……おい、勝手にカップの取っ手の角度まで揃えないでくれない? 不気味なんだよな、規則性って」
「黙ってください。思考の質が落ちます」
クラリス・アーデルヴァイン。
私は、この怠惰な男・ユウト・ラグネアの“矯正”をあきらめたわけではない。
いや、方向を変えただけだ。完璧に直すのではなく、“囲い込む”。
名付けて──《意識させずに生活を支配する段階的介入型囲い込み作戦》。
段階一:「生活圏の最適化」
ユウトの動線、癖、居心地のいい場所すべてを把握し、その周囲に無理なく整った環境を敷き詰める。
結果、彼の怠惰が「この空間が一番ラク」という条件に結びつき、外に出ようとしなくなる。
段階二:「無意識の依存形成」
紅茶を出すタイミング、ソファの角度、適温の調整、書物の整理順……。
ユウトが「それが当然」と思うようになるまで、徹底的に快適さを演出。
自分からは動かずとも、“いつのまにかクラリスが必要”な生活に仕立てる。
段階三:「精神の共同化」
表面上は関与しないフリをしながら、内心を少しずつ共有する会話。
議論というより“反論できない問いかけ”を繰り返し、彼の言葉の中に“私の視点”を棲みつかせる。
──そのすべてが、完了しつつある。
そして今、私は最終段階に差し掛かっている。
段階四:「心の滞在許可申請」
「ユウト。今日は庭に出ましょう。ちょうどバラが咲き始めたので」
「え、庭? 無理。陽に焼かれる。溶ける。蒸発する」
「ならば私が傘をさします。帽子もご用意してあります。日陰のベンチも整備済みです」
「……そこまでする?」
「“そこまでする”のではありません。“そこまでしてでも、あなたと過ごしたい”のです」
一拍、沈黙。
ユウトは面倒そうにため息をつき、立ち上がった。
「……はー。ほんと、悪役令嬢ってやつは、手間がかかるな」
「それは私の台詞ですわ、ユウト様」
私の作戦は、着実に進んでいる。
彼の“怠惰”という名の装甲は、ゆるやかに──しかし確実に、私という異物を“許容”し始めている。
だが──
私自身も気づいていた。
彼の中に足を踏み入れれば入るほど、そこに“温度”があることに。
不器用で、ゆがんでいて、でも確かに誰かを拒まない“余白”がある。
それは──完璧であることしか知らなかった私にとって、あまりに心地よすぎる檻だった。
心を囲っていたつもりが、
気づけば私の方が、彼の世界に閉じ込められつつあるのかもしれない。
──作戦は、順調。
けれどそれが勝利か敗北かは、まだ分からない。