004,え?それ俺知らないんだけど……まあ一時休戦ということで……
──この屋敷を初めて見たとき、私は本気で絶句した。
「……屋敷、というより“遺跡”ですね」
床には埃、壁には亀裂。調度品は“骨董”というより“ただの古い物”でしかなく、カーテンは日焼けして色が死んでいた。
何より許せなかったのは、あの男──ユウト・ラグネアが、その状況を「これが俺の“味”」などと言い放ったことだ。
味ではない。劣化である。腐敗である。断罪対象である。
とはいえ、私は“完璧主義者”であると同時に、“現実主義者”でもある。
ならば、手を打つのは早いに越したことはない。
私はすぐに実家に連絡を取り、厳選したメイドたちを転属させた。
戦場でいうなら、“最前線に精鋭を送り込む”ようなものだ。
──しかし。
問題はその“戦場”の主だった。
「お掃除のために少しお部屋を失礼しても……」
「え、ダメ。俺の布団の毛並みが乱れる」
「……ユウト様、服をお着替えください」
「布団は服です」
「理解不能です」
──はっきり言って、あの男は“悪意のないテロ”だった。
怠惰の化身。自主性ゼロ。最低限の人間性のみで構成された奇跡の存在。
こちらがどれほど理論的に指導しても、寝巻きのまま「俺の流儀だから」の一言で片付ける。
当然、メイドたちの間では不満が噴出した。
「お嬢さま、あの男……精神汚染系の呪いにかかっているのでは?」
「もはや暗殺した方が建設的では?」
「せめて半日だけでも隔離を!」
……気持ちは分かる。
私だって、朝から“布団のまま転がる男”と目が合うたびに、体内の品位ゲージが削られている気がする。
だが、だからこそ私は立ち向かうのだ。
完璧を目指す者として、諦めるわけにはいかない。
「いいえ、これは“試練”なのです。彼の存在が私に試しているのです。品位とは、環境に左右されない精神の構築だと」
「……お嬢さま、それたぶん違います」
「いいえ、これは精神鍛錬。そう、これは“精神道場”なのです」
結果的に、屋敷の掃除は完了した。
カーテンは張り替え、寝室は人間の居住に適した空間になり、食堂には香り高い紅茶の香りが満ちるようになった。
メイドたちも──完全には慣れていないが、それなりに“ユウト・ラグネアという異物”との共存に向けて歩み始めている。
問題はただ一つ。
──その男が、“微妙に好感度を上げるような行動”を時折してくる、ということである。
ある夜、書類整理に没頭していた私のもとへ、無言で茶菓子を置いていった。
それも、私が好きなものを、正しい淹れ方で。誰に聞いたのだろう?
「……甘やかしてどうするのです、私……」
思わず自分を叱りたくなる。
でも、次の日、彼はまた布団のまま廊下を転がっていた。
「うん、帳消しですね。ゼロ。相殺。世界は平等です」
──そうして今日も私は、完璧主義と怠惰の間で揺れる屋敷に立ち続ける。
この戦いがどこへ向かうのかは、まだ誰にもわからない。
ただ一つ言えるのは。
「……もうちょっと、“普通”の人が良かったかもしれない」
でも口に出すと、負けた気がするから、言わない。
この屋敷には今、誰にも気づかれぬ“冷戦”が続いている。
──発端は、些細なことだった。
「ユウト様、昨日の脱ぎ散らかした服、片づけていただけませんか?」
「俺、風の流れを読みながら脱ぐ派なんで……。あれ、風水的な配置なんですよ」
「……そうでしたか。では、風水的に“燃えるゴミ”へ移動させますね」
にこりと笑って、しかし目がまったく笑っていない。
屋敷に仕える歴二十年、クラリス嬢に仕えて十年──“氷のメイド長”と恐れられる女、イネス=バルドレイン。
彼女は完璧なプロだった。礼儀、作法、警備、料理、統率力──どれを取っても非の打ち所がない。
だからこそ、彼女にとってユウトの存在は、ストレスの塊だった。
ベッドメイキングをしても、数秒後には布団と融合。
掃除を始めれば、「掃除機の音が思考を乱す」と逃走。
洗濯物をたたもうとすれば、「このシワが俺の歴史」と逆ギレ。
メイドたちは笑いながら距離を取るが、イネスは違う。
「お嬢様の未来を曇らせるものは、例外なく排除します」
それは、執事に匹敵する忠誠であり──戦宣言でもあった。
かくして、静かなる戦争が始まった。
【戦況1:食事編】
イネスは、毎朝ユウトのために栄養バランス完璧な朝食を用意する。
しかし──
「うん、ありがたいけど……これ、俺にはエネルギー過剰すぎる」
と、言いながら目玉焼きの黄身だけ食べて去る。
翌日、イネスは出汁と塩分を控えた“極限まで淡白な粥”を出す。
「おや、断食仕様? 俺の美学、わかってきましたね」
「いえ、これは“消化にいい”食事です。……どちらかというと、病人用です」
──引き分け。
【戦況2:洗濯編】
イネスはユウトの寝巻きにアイロンをかけ、完全に形を整えて戻す。
ユウトは一瞥して、
「……この“ヨレ”が、俺の一日を守ってくれてたんだが」
と、わざと椅子の背に雑にかけてシワを作る。
次の日から、イネスは“折り目の一切ない、シワ加工済み布団服”を用意。
「うわ、見た目だるいのに、触るとちゃんと洗ってある……! 何この敗北感」
「私の勝ちですね」
──イネス、一勝。
【戦況3:布団編】
「布団は俺の鎧。日中は“待機状態”で布団と共に在るべき」
という謎理論のもと、ユウトは各部屋に私物の布団を常備。
イネスはすべての布団を没収。
代わりに“自動収納式の掛け布団ロッカー”を導入。
ボタン一つで布団が巻き取られ、開閉コードはイネスのみ所持。
──翌朝。
ユウトはタンスの中で体育座りしていた。
「ここが今日の布団」
「……意地でも布団と生きるのですね」
──引き分け(精神的ダメージ:両者)。
【戦況4:最後の砦】
だが──この静かな戦争には、やがて“軟化”の兆しが見え始める。
ある日のこと。書類の束を抱えていたイネスが、足元の段差に気づかずつまずいた。
その瞬間、誰よりも早く彼女を支えたのは、布団を肩に羽織ったユウトだった。
「おっと。危なっかしいな。……あんまり根詰めないで。あなたが倒れたら、クラリス泣くでしょ」
「…………」
イネスは、初めて数秒言葉を失った。
そして。
「……“泣く”とは、お嬢様がですか?」
「うん。ああ見えて、寂しがり屋だからね。あなたに弱音吐けるの、あの子くらいだよ」
その言葉に、イネスはわずかに目を細めた。
敵視していた男が、知らぬ間に主の内面に入り込んでいた事実。
「……私の負けですね」
「え? 何の話?」
「いえ、“戦争”は終戦です。次からは、共存にしましょう」
「共存? それ、俺がもっとダラけていいって意味?」
「違います。私の監視が強化されるという意味です」
──こうして、“静かなる戦争”は終わりを迎えた。
だが、イネスはこの戦いを忘れない。
そして彼女は密かに、クラリスと共に“ユウト更生計画第二段階”の準備に入っていた──。




