018,エプロンの結び方から教えてください、なんて言うわけないでしょう
屋敷の厨房に、緊張が走った。
その原因は、たった一言。
「……私も、料理をします」
そう宣言したのは、他でもない。
あの完璧主義令嬢、クラリス・アーデルヴァインだった。
その場にいたフェリアは包丁を取り落としかけ、
オズワルドは茶を噴きそうになり、
ユウトは……トーストをもっさり咀嚼しながら、「へえ」と呟いた。
「クラリスが? 料理を?」
「できます。やればできるはずです」
「でも、やったことは?」
「……観察は、していました」
「観察は得意だもんな……」
フェリアがそっとささやいた。
「クラリス様、本気ですか……?」
「本気よ。私はいつも本気」
きっぱりとした声。その瞳に揺れはない。
だけど、ほんの少しだけ頬が赤いのは、誰にも見せない“決意”の裏返しだった。
「なぜそこまで?」と問われれば、答えは単純だった。
――ユウトの隣に立ってみたかった。
ただの“主”としてでなく。
完璧を振るう者としてでなく。
ひとりの人間として、同じ湯気の中で笑ってみたかった。
「わたくし、料理用の書物はすでに五冊読み込みました。理論上、失敗する要素は……」
「クラリス様」
フェリアが止めた。
「料理は、“温度”と“空気”と“勢い”と“ノリ”と“愛”です」
「なにその抽象の集合体」
「感じるんです!」
「はあ……では、その“愛”とやらの比率は何%ですか?」
「80です!」
「思考放棄にも程があるわね……」
その言い合いを横で聞いていたユウトが、ふっと笑った。
「よし、じゃあ手伝ってやるよ。まずはエプロンつけろ」
「……言われなくても、そのくらい分かります」
クラリスは、フェリアが用意した白いエプロンを手に取り――
数秒後、黙って差し出した。
「……結び方が、分からないだけよ。教えるなら、早くして」
「はいはい、“完璧”なお嬢様」
ユウトの指先がそっと彼女の背中に回る。
小さく息をのんだクラリスは、顔を背けたまま、そっと目を閉じた。
――その夜、クラリスは焼きすぎたパンを見て、
「これは……あえて炭化させたの。焦がしていない、炭にしたの」
と堂々と言い張り、ユウトに「はいはい、天才の理論だ」と笑われた。
だけどその笑顔が、彼女にとってはなによりの“ご褒美”だった。
炭と化したパン。
ひしゃげたオムレツ。
謎の光沢を放つ謎のスープ。
テーブルに並んだ“成果物”を前に、クラリス・アーデルヴァインは静かに立ち尽くしていた。
端正な眉が、ほんのわずかに引きつっている。
「……これはその、試験的なアプローチであって。決して失敗ではなく、研究段階の――」
「クラリス」
ユウトが、小さな笑みを浮かべて言った。
「よくがんばったな。普通にすごいって」
「……なぜ笑うのよ。笑うような出来じゃないでしょ」
「だって見てみろよ、スープから魔力の波動感じるんだけど」
「!? 入れてないわよ、魔素なんて……え、入ってないはず……」
「クラリス様……その粉、魔導演算剤です……」
「…………!!?」
キッチンの片隅でフェリアが目を覆う。
オズワルドは沈黙を選んだ。
それでもユウトは、スプーンを取り、ひと口すくった。
「……ん。うん。なんか胃が覚醒しそうな味だ」
「やめて。余計に傷つくから。というか、食べないで……」
「いや、これも経験値。人生には“バグる味”ってのも必要だしな」
「バグ扱いしないで!」
怒っているようで、どこか楽しげなクラリスの声。
そして、ユウトが笑った。
「まあ、味はともかく――俺はこういうの、嫌いじゃないぞ」
「……ほんとに?」
「おう。たまには失敗して、笑って、ってのも悪くない」
その言葉に、クラリスはきょとんとした表情を見せた。
“失敗”という言葉に、これまで彼女がどれほど敏感だったかは、ユウトも分かっている。
けれど今、彼女の目には悔しさもある。だけど、それよりも――
「ふふ……じゃあ、次は絶対成功させるから」
「おう。そのときも食ってやるよ」
どこか誇らしげな声。
クラリスは、初めて“失敗を誇れる”夜を知った。
炎でも、剣でも、論理でもない。
ただ、焦げたパンと、変なスープと、笑い合う声。
それだけで、胸がふわりと温かくなる。
「……ねえ、ユウト」
「ん?」
「あなたのそういうとこ、少しずつずるいと思うの。こっちが怒ろうとしてるのに、笑って流すし。褒められると……、なんか、嬉しいし」
「褒められたら、素直に嬉しがれよ」
「……バカ」
クラリスがそっと呟いたその声は、今までで一番やさしかった。
――それは、“完璧主義”の仮面が、ひとときだけ緩んだ音だった。




