012,あの紅茶はなぜかほっとしたんですよね
ラグネア邸の厨房は、朝から活気に満ちていた。
その中心にいるのは、厨房班の若きエース――フェリア。
赤毛をキュッと三つ編みにまとめた彼女は、普段なら朝のスープを整えるのに余念がない。だが、今日は様子が違った。
「……ようし。作戦開始、っと」
誰に聞かせるでもなく呟くと、彼女はそっと厨房を抜け出した。
向かう先――ユウトの私室。
目的――弟子入り交渉。
対象――紅茶職人(見習い)ユウト・ラグネア。
フェリアの動機は単純だった。
あの紅茶。
クラリス様が珍しく無言で飲み干し、おかわりすらしたという“謎の一杯”。
しかも、淹れたのは――ユウト。
「マジで? あの寝巻き伯爵が?」
味覚に関して自信のあるフェリアは、残されたカップの香りと底に残った茶渋でその“ありえない絶妙加減”を分析し、確信していた。
(たぶん、こっちが本職なんじゃ……)
トントン、と控えめに扉をノックすると、中から気だるそうな声が返ってきた。
「開いてる。入るな」
「はい入りまーす!」
「いや入るなって……」
無視して堂々と入室。フェリアは元気に立ちふさがった。
「ねぇユウト様! 弟子にしてください!」
「……え?」
ユウトはソファでだらけていた体を少しだけ起こし、じっとフェリアを見つめた。
明らかに、「寝かせろよ」という顔をしている。
「なんの弟子?」
「紅茶の! あたし、あの味、完全に覚えた! でも、なんであんな味になったのかさっぱり分かんない!」
「適当にやっただけだけど」
「その“適当”が一番こわいの!」
勢いで距離を詰めるフェリアに、ユウトはうっすらため息をついた。
「……真似しないほうがいいよ。“二度と同じ味は出ない”ってクラリスに言われたから」
「でもクラリス様、また飲んでたよ? ってことは、たぶん……味以上に、“気持ち”が入ってたんだと思う」
「気持ちって……俺、そんなの入れてないぞ。睡魔とだるさなら入ってたけど」
「それが出汁になってるんだって!」
「やだなそんな出汁……」
フェリアはにっと笑った。
「とにかく、教えてよ。紅茶の淹れ方ってより、あんたの感覚? 思考? そのへんをさ」
ユウトは少し考えるふりをしてから、ぽつりと答えた。
「……紅茶のこと考えてなかった」
「え?」
「“クラリスが何なら飲めるか”だけ考えてた」
フェリアは息を呑んだ。
(……マジか。ラブじゃん)
「わかった……弟子入りはやめとくわ」
「早いな」
「でも、ヒントだけはありがとう。“誰のために淹れるか”って、あたしが忘れてたやつだった」
満足げに踵を返すフェリア。
ドアを開ける直前、彼女は肩越しに笑ってこう言った。
「でも気をつけなよ? そういう紅茶は――飲んだ方も、簡単には忘れらんないから」
バタン、と静かに閉まるドア。
ユウトはしばらくその場に座ったまま、何かを考えていた。
「……誰のために、か」
そして再び、ソファに倒れ込む。
「……まあ、クラリスにしか淹れたことないけどな……」
昼下がり。ラグネア邸のテラス。
初夏の風が、カップの紅茶から立ちのぼる香りをやさしく撫でていく。
クラリス・アーデルヴァインは、薄いブルーのドレスに身を包み、上品に紅茶を口に運んだ。
「……やっぱり、今日も完璧ね」
その隣では、ユウト・ラグネアが脱力全開の姿勢で、ぐったりとテーブルに肘をついていた。
「ほめてるならもっと労ってほしい。俺、今日一回しか寝てない」
「それを“起きた”と呼ぶのです」
淡々と返したクラリスは、ふと視線を落とし、そしてぽつりと呟いた。
「……でも、そうね」
「ん?」
「たまには……少し、雑に淹れてみてくれないかしら」
ユウトの手が止まった。
「……え?」
「“完璧な味”ばかりだと、なんというか……落ち着かないのよ」
ユウトは眉をひそめてクラリスを見る。
「え、なに。紅茶が完璧すぎてプレッシャー?」
「そういうわけではないけれど……」
クラリスは少し視線を逸らした。
「たまには、“人間らしい不出来”を感じてみたいのよ。あなたにも、そんな面があると……その……安心するから」
「俺は十分不出来だと思うけどなあ。寝起きの顔とかすごいし」
「そこじゃないのよ」
珍しく歯切れが悪いクラリス。
紅茶のカップを見つめたまま、小さく呟く。
「――最近、あなたの“完璧な部分”ばかり見てる気がするの」
「……それ、やだな。プレッシャーかけてたなら、ごめん」
「違うの。ただ……」
そこまで言って、彼女はふっと笑った。
「私のほうが、もっと必死になってるのよ。きっと。あなたが怠けてるぶん、私が“追いつかなきゃ”って。……不思議ね。追い越すどころか、どんどん距離が空いてく気がする」
ユウトはしばらく無言だった。
そして、静かに立ち上がった。
「じゃ、次はわざと雑にしてみるか」
「……本当に?」
「お湯の温度、適当。葉っぱ、目分量。気分で1ミリ浮かせて注ぐ。あと、寝ぼけながら」
「完全に毒では?」
「期待には応えないと」
クラリスは笑いながら、ほんの少しだけ目を潤ませていた。
そして、ポツリと。
「……ありがとう」
「なんもしてないけど」
「そういうところが、また……ずるいのよ、あなたは」
風が吹いた。
完璧な紅茶の香りと、ちょっとだけ不器用な優しさが、午後の光に溶けていった。




