010,そんなことよりこの紅茶うまくね?
午前十時。屋敷の庭にある小さなテラスにて。
クラリスは、銀のティーポットを優雅に傾けながら、穏やかな声で切り出した。
「ユウト。少し……話があるの」
「ん。聞くだけなら」
テーブル越し、陽光の差す木漏れ日の下。ユウトは例のごとく椅子にぐったりと寄りかかり、湯気の立つ紅茶を片手にしていた。いつも通り、眠たげな顔だ。
「昨夜、あなたのノートを読んだわ。あの、魔導理論の――」
「あー、見ちゃったか」
言葉を遮るように、ユウトは苦笑いと共に片目を開いた。
「……あれ、どうせまともに使える理論じゃないから。思いつきを書いてるだけ。机上の空論ってやつだよ」
「そうは思えなかったけど?」
クラリスの声音に、わずかな鋭さが混じる。
が、ユウトはそれすらも軽やかに受け流した。
「でも現場で使えないんじゃ意味ないだろ? あれは寝る前の脳ストレッチってやつ」
「“熱干渉の再構築”が脳ストレッチですって? どこの筋肉を鍛えてるのかしら」
「だって他にやることないし」
「……!」
言葉の矛先を封じようとするような、脱力系の一撃。
クラリスは苛立ちとも呆れともつかない感情を抑えながら、もう一歩踏み込んだ。
「あなた、自分の才能に無自覚すぎるわ。あの理論、正式に発表すれば王都の学会だって黙って――」
「クラリス、今この紅茶、すごくいい香りしてない?」
「話を逸らさないで」
「いやほんとに。このジャスミンの後にほのかにローズが来る感じ……このバランス、神業じゃない?」
「ユウト!!」
思わず語気を強めたクラリスに、ユウトはポン、と小さく手を打った。
「そっか、メイド長に伝えておこう。今日の紅茶は当たりだって」
「違う、そうじゃないの! 私はあなたの――っ」
「オレの?」
ユウトがわずかに身を乗り出し、クラリスの目をじっと見た。
その視線に、クラリスの言葉がふいに止まる。
「……なんでもないわ。あなたがそう言うなら、今はそれでいい」
「そ。なら……もうちょいだけ、眠らせて」
ユウトはまた椅子に体を沈め、目を閉じる。
クラリスは、言いそびれた想いを胸に抱えたまま、紅茶のカップをそっと口に運んだ。
――気づいているのだ。
ユウトはわざと話を逸らした。
だがそれは、照れでも誤魔化しでもない。彼の“絶妙な距離感”だ。
そしてクラリスは、なぜだかその不器用さが、少しだけ――
胸を温かくするのだった。
朝の屋敷は、いつもより静かだった。
鳥のさえずりすら遠く、日差しは柔らかく、寝床の誘惑も極まっていた。
――それでも、ユウト・ラグネアは布団から這い出た。
「……昨日の紅茶、うまかったな」
ぽつりと呟く声には、自覚なき好奇心がにじんでいる。
いつものように“面倒くさい”を盾にしていれば済んだ話だ。
だが、あの香り、あの余韻――
なぜか脳裏から離れなかった。
ふらふらと足を引きずりながら、彼は屋敷の厨房へと向かう。
「……フェリアさんっていたっけ?」
「いますけど、何ですか。寝ぼけ顔のまま厨房に現れないでください。衛生が死にます」
「あー、まあ……ごもっとも。でも、ちょっとだけ、聞きたいことがあって」
フェリアは手にしていたポットの湯気越しに眉をひそめる。
「紅茶の……淹れ方。昨日のやつ。なんか、うまかったから」
瞬間、厨房にいたメイドたちの動きが止まった。
怠惰の権化、布団の精霊、やる気の墓場とまで陰で呼ばれた男が――
自ら“紅茶の淹れ方”を尋ねたという事実に、軽く鳥肌が立つ。
フェリアは目を細め、慎重に問う。
「……何か悪いものでも召し上がりました?」
「いや、普通に。気になっただけ」
「……なるほど。では、こちらへ」
メイド長不在の厨房で、フェリアは静かにポットを差し出す。
「これはダージリン。葉の分量と湯温、それに蒸らし時間が肝です。昨日のはジャスミンをベースにした特調ブレンド。軽くローズを浮かべてます」
ユウトは珍しく真剣に耳を傾けていた。
寝癖はひどいままだったが、その目だけは――静かに、深く何かを捉えていた。
「へえ……そんなに色々あるんだな。香り、奥にちゃんと理由あるんだな」
「当然です。クラリス様に出すものですから、手は抜きません」
「……だよな。だから……ちゃんと伝えておきたくて。ありがとな」
「……ッ、ッ!? ちょ、ちょっと待ってください、今の録音してない、誰か……!!」
フェリアがうろたえる傍らで、ユウトはふわっと笑い――
「じゃ、俺は俺で、淹れてみるか。趣味ってほどでもないけど、ちょっとだけ」
そう呟いて、眠たげな貴族は自室へと戻っていった。
その背中を見つめながら、フェリアはそっと呟いた。
「……あの人、絶対何か“隠れ変化”してる。絶対おかしい……」
でも。
不思議と、悪い気はしなかった。




