愚かさを利用して婚約破棄の舞台を作り上げた令嬢のお話
「なんてバカげた光景でしょうか……」
貴族たちの通う学園。春先のある日、昼休みも後半に差し掛かった中庭。そこに広がる光景を目にして、男爵令嬢ディーベフィアは思わず呻いた。
中庭でいちばん日当たりのいいベンチに腰を下ろす一人の令嬢。それを取り巻く10人近くの貴族子息たち。彼らは中心にいる令嬢の関心を引こうと甘いささやきを繰り返している。
その令嬢は確かにある種の魅力があった。
ゆるくウエーブのかかった腰まで届くブロンドの髪。長い睫毛の下で妖しくゆらめく深い紫の瞳。少し厚めの唇から漏れる吐息には、年齢に見合わない色香がある。その胸は豊かであり、腰のくびれは悩ましい。貴族らしくない肉感的な魅力にあふれた令嬢だった。
男爵令嬢アルレメニア・カンタミナート。
男爵令嬢という貴族としては低い身分。娼婦のような過剰な色香。本来ならこの貴族の学園で注目を集めるような令嬢ではない。彼女は一年生の頃は誰からも注目されない日陰者だったはずだ。この春に二年生になったとたん、こうして注目を浴びるようになった。
女生徒一人を何人もの男子生徒が取り囲むなど、貴族としてみっともないことだ。しかも男子生徒たちはみな高位貴族の子息だ。それなのに、恥じる様子はまるでない。
何より驚くべきことは、その集まりの中に侯爵子息がいることだ。
侯爵子息アスペレード・エンザスム。絹のように滑らかなプラチナブロンドの髪。エメラルドよりなお輝くと言われる美しい緑の瞳。その整った顔は、美男美女ばかりの貴族の学園の中でも一線を画する美しさを誇っている。
その振る舞いは気品があり、学園での成績も高い。魔力の高さと精度にかけては宮廷魔導士に迫る実力だ。侯爵家の子息に相応しいと学園内でも評判の俊英だ。
そんな彼が、今は男爵令嬢の隣に座って寛いだ様子で談笑している。あまりに気安いその姿は、まるで街中で見かける平民の優男のようだった。
周囲でこの光景を眺める生徒たちもまたどこかおかしい。
羨望の目を向ける者がいる。嫉妬の目を向ける者もいる。しかしこの貴族の礼儀をどこかに置き忘れたかのような退廃的な光景に対し、不快を示す者はいない。懐疑の目を向ける者は男爵令嬢ディーベフィアしかいない。
何かがおかしい。どこかが狂っている。穏やかな春の陽光の下、男爵令嬢ディーベフィアは戦慄に身を震わせた。
男爵令嬢ディーベフィア・ベーカムワークは学園に通うごくありふれた生徒だ。
肩まで届く栗色の髪につぶらな茶色の瞳。目鼻立ちはそれなりに整ってはいるが、この貴族の学園において特に目を引くほどの美しさではない。
魔法の扱いは上手い方だが、魔力は平均よりはやや下回る。それに専攻している魔法学が地味だった。
ディーベフィアが専攻しているのは「状態異常魔法」だった。毒や麻痺、睡眠や疲労。攻撃力低下、防御力低下、素早さ低下といった、対象の能力を削ぐことを目的とした魔法だ。
戦闘においては実に有用な魔法ではある。毒や麻痺は耐性を持たない相手に切り札となりうる。筋力が下がれば戦士は思うように剣を扱えなくなり、素早さを奪われれば盗賊はほとんど何もできなくなる。魔力が下がれば魔導士は攻撃の手段を失い、僧侶は仲間の回復もろくにできなくなる。
有用性は高いものの、攻撃魔法のような派手さはなく卑怯なイメージがある。そのため貴族の間ではあまり人気がない分野だった。そんな魔法をディーベフィアが専攻する理由は、その堅実さゆえだった。
攻撃魔法は威力を出すのにまず高い魔力が必要だ。天性の才能もいる。ディーベフィアはそれらを持ち合わせていない。
だが、状態異常魔法は違う。まず、比較的低い魔力で発動できる。特別なセンスは必要なく、理論を理解し手順を守りさえすれば確実に効果を発揮する。努力すれば結果が出る魔法なのだ。
ディーベフィアは自分の身の丈を理解していた。魔法で大成することはできない。しかし状態異常魔法で確かな成績を残せば将来の選択肢が少しは増える。そう考え、状態異常魔法を専攻に選んだのだ。
ディーベフィアは普段から防御効果を持つ護符をいくつも身に着けていた。学園の生徒は貴族であり、高い魔力を有している。魔法を使わなくても魔力は徐々に体から漏れ出る。そして魔力とはただそこにあるだけで周囲の人間に影響を与えるものだ。入学したての頃、高い魔力にあてられて体調を崩す生徒も毎年何名も出ている。
ディーベフィアはそうした周囲の生徒からの魔力の影響を遮断するために護符を身に着けていた。状態異常魔法は精密な魔力操作が重要であり、周囲の生徒の高い魔力に影響を受け続けては感覚が狂う恐れがあると考えていたのだ。
それは勉強に集中するために、静かな図書館で耳栓までするようなものだった。状態異常魔法を学ぶ生徒は他にもいたが、彼女ほど徹底している生徒はいなかった。
二年生になった春先のある日のこと。ディーベフィアは、学園の異常に気が付いた。
休み時間、生徒たちがくだけた口調で話すのをよく耳にするようになった。その話題は貴族に相応しくない下品でわいせつなものだった。
貴族と言っても年頃の若者だ。仲間内でそうした話題で盛り上がる時もあるだろう。だがそれを人の耳目のある場所であけっぴろげに話すなど、紳士淑女のふるまいではない。
教師の叱責を受けてすぐに鎮火すると思ったが、なぜかマナーに厳しいはずの教師たちは放置していた。
いつの間にか学園の空気が変わっていた。なのに、誰もそのことを気にする様子がない。違和感を抱いているのはディーベフィアだけのようだった。
そんな中で最も異常の中心と言えたのは、男爵令嬢アルレメニア・カンタミナートだった。その令嬢離れした色香から、男子生徒の間でひそかに噂になる令嬢とは聞いていたが、実際に彼女に近づくような男子生徒はほとんどいなかった。
爵位が低く、色香しか取り柄のない。そんな令嬢と懇意にするのは外聞が悪い。年頃の男性は性欲に振り回されると言うが、それでも貴族としての立場を忘れるような愚か者はいないようだった。実際、冬季休暇の前までは、彼女はどちらかといえば孤立している令嬢だった。
しかし、この春になって状況は変わった。
ある日、アルレメニアが伯爵子息を伴って歩いている姿が見かけられた。ついに色香に負けた男子生徒が現れたのかと少し噂になった。
日が経つにつれアルレメニアに語りかける男は増えていった。やがてアルレメニアは10人の男子生徒を連れ歩くようになった。
そうした男子生徒の誰もがアルレメニアより爵位が上だった。その中でも筆頭と言えるのは、侯爵子息アスペレード・エンザスムだった。
彼はその立場上、これまで女生徒と接する機会すら少なかった。彼が学園で時間を過ごす異性は、婚約者だけだった。そんな貴族子息が、今では男爵令嬢の色香に相好を崩し、他の男子生徒と共に群れている。婚約者との付き合いもめっきり減ったと聞く。
アルレメニアは確かに色香に優れた令嬢だ。だがそれでも身分差を覆せるほどではない。これではまるで、おとぎ話に出てくる傾国の美女のようだった。
これほどの異常事態であるのに、生徒も教師もこれと言った動きを見せない。羨望や嫉妬の眼差しは注がれるものの、咎めようとする者がいない。この状況を不審に思っているのは、ディーベフィアただ一人のようだった。
自分以外がこの異常に気づいていない。学友に話しても教師に相談しても誰も問題として取り上げようとしない。このおかしな状況の中、ディーベフィアは完全に孤立していた。
しかし、彼女は挫けなかった。周囲が異常に包まれている中、自分だけがその影響下に無いことに、必ず理由があるはずと考えた。勉強熱心な彼女は、状況の観察と推測によってこの謎を解き明かそうとした。
そしてすぐに気づいた。他の生徒や教師と違う自分の特徴。それは常日頃から複数の護符を身に着けていることだ。
ディーベフィアは状態異常魔法を専攻しているため、もともとそれらに対して耐性を持っている。周囲からの魔力の干渉を阻むために、その耐性を上げる護符を身に着けている。そのおかげで周囲の魔力の影響を受けることはほとんどない。
実際に試したことはないが、今の自分なら上位神官から強力な睡眠の魔法をかけられても耐えられる自信があった。
ここまで状態異常への防御を固めている生徒は他にいない。それがディーベフィアただ一人が影響下にいない理由だとすれば、この事態の原因は明白だ。学園全体に何らかの状態異常の魔法がかけられているということだ。
まず最初に思いつくのは魅了の魔法だった。それなら男爵令嬢アルレメニアが男子生徒を侍らせていることに説明がつく。だがそれは現実的にはあり得ないことだった。
かつて学園において、魅了の魔法によって王子が誑かされるという不祥事が起きた。それ以来、この王国では魅了の魔法を厳格に禁止するようになった。
学園内には魅了魔法を感知する魔道具が無数に仕掛けられている。それに加えて教師陣たちが目を光らせている。それらの監視網をかいくぐって魅了の魔法を使い続けるなんて、およそ不可能なはずだ。
しかし魅了ではないとすれば、具体的に何が起きているかわからない。変化と言えば、礼儀作法が軽んじられるようになり、妙に穏やかな空気となったことと。男爵令嬢アルレメニアが不自然に人気を集めていること。それだけだ。
状態異常の魔法について日々研鑽を重ねているディーベフィアにも、誰がなんの意図でどんな状態異常をかけているのか見当もつかなかった。
ひとまず手近な学友に話を聞いてみた。気分が悪いとか、身体に異常があるという答えは返ってこなかった。むしろ最近はなんだか気分がいいとか、悩みが気にならなくなったと言ったポジティブな反応が返ってきた。
こうなれば、その効果を自分で体験するしかない。状態異常の勉強において、実体験は大事なことであり、ディーベフィアはそうしたことに慣れていた。
調査は放課後から開始することにした。
まず護符を一時的に無効化する魔法をかけた。夜になる頃には自動的に護符のその効力を戻すようにした。
そしてペンと手帳を持った。この2つは魔道具で、自動書記の機能がある。状態異常の種類によってはまともな記録ができなくなることもある。そんな時、頭の中で「記録したい」と思ったら、手が勝手に動いて書いてくれるというすぐれものだ。
それから学園寮のルームメイトにも声をかけておいた。
「これからちょっと状態異常の実験をするので、わたしが何かおかしくなっていたら魔法科の先生に言ってください」
「ええ、いつものですね。わかりました」
状態異常の実験の時には影響下にない生徒や教師に声をかけておくのがルールだ。そうは言ってもルームメイトも影響下にある可能性がある。これは形だけのものだ。
それらの準備を整え、護符を無効化すると、ディーベフィアは放課後の学園に踏み出した。
放課後の学園は静かだった。この時間、校舎内に生徒はほとんどいない。学内にいる大半の生徒は食堂のテラスでくつろいでいるか、図書館で勉強しているか。あるいは各種訓練場で魔法や剣の鍛錬に励んでいるだろう。
ひとまず人気のない校舎を散策してみたが、これといった異常は感じられなかった。
次は人のいる場所だ。まずは食堂のテラスで紅茶を頼み、しばらく時間を過ごすことにした。
食堂の脇、屋外に設けられたテラスには、いくつかの生徒たちのグループがあった。上品な静けさをよしとされる貴族の学園だが、テラスはそれなりに騒がしかった。ここ最近はいつもこんな感じだ。
向こうの席の男子生徒たちは街の酒場について語り合っていた。
「王都の東の端にある酒場に行ったことがあるか? 女給がかわいいんだ」
「あの制服は絶対狙ってるよな。嫌でも胸の大きさを意識してしまう」
「ちょっとくらい触っても大丈夫かな? 平民なんて金さえ握らせれば黙るだろう?」
「そういうことをしたければ娼館に行け。君が余計なことをしてあの店が貴族禁止になったら許さないぞ。酒を酌み交わしながら、豊かな胸を目で味わう。それが紳士のたしなみってもんだ」
あちらの席の女生徒たちは、どこかの家の令嬢に関するゴシップについて盛り上がっていた。
「例の令嬢が今度は庭師に手を出したらしいわ」
「え? あの使用人3人と寝た令嬢が、今度は庭師に?」
「ええ。朝早く、二人で物置小屋から出てきたのをメイドが見たそうですわ」
「なんで庭師なんかと……庭師って、ガサツで土まみれなイメージがありますわ」
「植木には繊細な手入れが必要ですのよ? 庭師はあっちのほうも丁寧と言う話ですわ。それに力仕事だから、身体もすごくたくましいらしくて……」
「あらやだ、はしたない! ……でも興味深いですわね。その話、もう少し詳しくお聞かせくださいますか?」
どれもまともな貴族なら眉を顰めるような下卑た話だ。貴族の学び舎で大っぴらに話していいことではない。語る口調も貴族らしからぬくだけたものだ。
少し離れた席では男爵令嬢アルレメニアが、見目麗しい男子生徒を10人近く侍らせている。席が離れているから何を話しているかはわからないが、和やかな雰囲気が感じられた。一人の令嬢に10人の男が群がって和やかと言う状況は、ディーベフィアには理解の及ばないものがあった。
弛緩した、奇妙に穏やかな空気があった。
そんな会話に耳を傾けながら紅茶を味わっていると、ディーベフィアは自分の思考がぼやけるのを感じた。頭にもやがかかったような感覚。どうやら何らかの状態異常の魔法がかかったようだ。手が自動的に動き、手帳に状況を記録し始める。
状態異常の魔法について研鑽を積み、自分の状態を常に意識しているディーベフィアの感覚は鋭い。例えば筋力低下の魔法をかけられれば、自分の筋力が何割低下したかを正確に把握することができる。
それなのに、何の状態異常かわからない。何かがおかしくなっている。それは漠然と理解できる。それなのに特定ができない。身体の感覚から原因を割り出そうとするが、思考が乱れる。情報がまとまらない。
ひとまず気分を落ち着ける必要があった。自動書記は右手に任せ、左手でティーカップを手に取り紅茶を口にする。いつもは繊細な茶葉の香りを味わうものだが、今はなんだか物足りない。だから備え付けの角砂糖をたっぷり入れた。口にすると、甘みと香りが口の中に広がって幸せな気持ちになった。普段は茶葉の香りを楽しむために砂糖は入れないようにしていたから、甘い紅茶がこんなにおいしいものだとは知らなかった。
テラスの喧騒が耳に心地いい。奇妙に穏やかな気持ちになった。これまで頭を悩ませていた学園の異常についても、自分が大げさに考えているように思えてきた。確かに礼儀作法が軽んじられる状況になっている。でも代わりに学園を占めていたいつもの堅苦しい空気は無くなった。朗らかでのどかになった。それの何がいけないというのだろうか。
悪意による状態異常ではない。これは善良な誰かが、学園の生徒たちを労うためにかけた祝福なのではないか。穏やかなテラスの席で、ディーベフィアはそんな風に思った。
夜。寮の部屋にある机に向かい、ディーベフィアは戦慄していた。
身に着けた複数の護符は自動的に機能を取り戻し、今は状態異常の影響下にない。
手帳を見るとほとんど何も書かれていない。最初の方に感じた「頭がぼやける」「考えがまとまらない」といった感想しか記録されていない。麻痺の状態異常を受けても、記録しようという意思がある限り、自動書記は機能するはずだった。それがこれしか記録できていないというのは異常なことだった。
学園内をもっとあちこちめぐる予定だったのに、日が暮れるまでテラスでゆったりとしてしまった。日が暮れたので寮に帰ることにした。何の考えもないただの習慣的な行動だった。
今思い返すと、テラスにいた自分はあまりにも楽観的で考えが浅かった。異常の中にありながら、その異常を自覚できなかった。それどころか受け入れてさえいた。
ディーベフィアはこれまで状態異常の魔法の勉強をしてきた。実際に状態異常の魔法を受けて、その効果を体感してきた。だが、ここまで効果をつかめないのは初めてのことだった。
「ディーベフィア君。それは恣意的な状態異常の魔法によるものじゃない。『魔力だまり』によって精神が影響を受けているだけだ」
ディーベフィアはこの異常な状況について、自分だけではとても対処できないと判断した。そして魔法学科の状態異常担当の教授の部屋を訪れ、知っていることを全て話した。
すると上品に整えられた髭をたたえた初老の教授は、あっさりとこの状況の原因を『魔力だまり』だと断言した。
「『魔力だまり』って、魔力の流れが滞り、一か所に溜まるというあれですか?」
貴族はみな高い魔力を持っている。魔力は血筋に大きく依存すると言われ、その血を守るために貴族同士の婚姻が重要となる。
身の内から発生する魔力は使わなければ自然と体外へと漏れていく。そうした魔力はすぐに霧散してしまうものだが、その流れが時として滞り、魔力のあつまった状態となる。これが『魔力だまり』だ。
魔力を持つ貴族と教師で構成されたこの学園は、常に魔力が満ちている。学園は魔力流れがよくなる設計がされており、それを強化する魔道具が設置されてもいる。それでも完全には処理しきれず、学園の各所で『魔力だまり』が発生する。
「ああ、そうだ。なんの術式も加えられていない『魔力だまり』はたいした力を持たない。だが、魔力とは人の精神に影響を与えるものだ。今の学園では、たまたま礼儀作法を疎かにさせる『魔力だまり』が発生する状況にあるのだろう」
「この状況は偶発的に発生しているものだということですか?」
「ああそうだ。ここまで極端な状況は珍しいが、過去に例がないわけではない。こうした現象は短期間のものだ。時間が経てばやがて落ち着くことだろう。あまり気にすることはない」
教授はそう結論付けた。
確かにそれでつじつまは合う。『魔力だまり』の影響でみな礼儀作法がおろそかになり、色気のある男爵令嬢に人気が集まるようになった。ディーベフィアがその影響を受けなかったのは、複数の護符を着けて魔力の影響を遮断していたからだ。
どんな状態異常の魔法か探ろうとして失敗したのも、そもそも状態異常の魔法ではなかったということなら説明がつく。
だがそれでも違和感がぬぐえない。納得がいかない。
考えをめぐらすディーベフィアに対し、教授は厳しい目を向けた。
「ディーベフィア君。君はいつも勉学に励んでいる熱心な生徒だ。しかし、これは研究するに値しない事象だ。君のような生徒が、こんなことで時間を浪費するのは感心しないな」
「ですが……」
「そんな余計なことにかまけているようでは、君への評価を考え直さなくてはならないかもしれん」
その言葉にディーベフィアはびくりと震えた。
彼女は立場の低い男爵令嬢だ。状態異常魔法でいい成績を残さなければ、その後の人生は暗いものとなるだろう。教授からの評価が得られなければ確実に将来に響く。
「……わかりました。わたしはどうやら先走り過ぎていたようです。余計なことにかまけずに、勉強に集中することにします」
「ああ、そうして欲しい。厳しいことを言ってしまったが、その熱心さは君の美徳だ。君には期待している。どうか頑張って欲しい」
「はい、ありがとうございます」
そう言って、教授の部屋を後にした。
ディーベフィアは納得したわけではない。しかし退くべきだと思った。なぜなら彼女は察してしまった。
教授はおそらく、この事態の首謀者とつながっている。
教授は状態異常魔法の権威だ。『魔力だまり』が原因で学園の風紀が乱れているのなら、効果的な対策を打てるはずだ。それなのに何も対策を講じようとはしていない。それどころか評価をちらつかせて調査を止めさせることさえした。
それはつまり、この状況を作り上げた首謀者とつながっているということになる。協力関係にあるのか、あるいは何か弱みを握られ脅されているのかもしれない。
いずれにせよ、学園内で助力を仰ぐのは難しい状況のようだった。
学園内に協力者を求めることは難しい。かと言って、外部に助けを求めるにはあまりに情報が足りていない。現状は学園の風紀が少し乱れているというだけでは、学園の恥を広めるだけになるだろう。確かな証拠をつかみ、異常事態であることを明確にしなくてはならなかった。
男爵令嬢には手に余る状況だとも思う。それでも気づいた以上は放置することもできない。ディーベフィアは秘密裏に調査を進めることにした。
誰かの恣意的な魔法によってできた状況だと仮定する。魔法自体を直接調べることは困難だ。影響下に身を置けばまともな調査ができない状態になる。かと言って、護符で外部の魔力を遮断した状態では十分な解析はできない。
そこでまずは周囲の状況を整理することにした。
まず影響範囲の確認だ。これは短時間、護符を無効化することによって体で調べた。
地道に調査を続けた結果、その範囲は学園内にとどまることが分かった。学園外であの『奇妙に穏やかな気持ち』に陥ることはなかった。
また、この状態異常は術式の範囲外に出ても効果が持続することがわかった。短時間ならすぐに正気を取り戻せるが、長期間影響下にあると効果の持続時間も長くなるようだった。
そして首謀者の狙いについて考察した。
学園内の風紀を乱して誰が得をするのだろう。例えば、学園の品位が落ちれば、他国からの評価も落ちることになる。敵対するどこかの国の陰謀だろうか。それならば教授が抱き込まれたこともうなずける。だが効果としてはいまいちだ。確かに学園内の風紀は乱れたが、周囲の諸国に知られるほど酷くはなっていない。とても国家的な策略とは思えない。
学園のあちこちで貴族に相応しくない会話が生じている。色香だけが取り柄の男爵令嬢が、10人もの高位貴族の子息を連れ歩いている。そんなバカげた状況で、いったい誰がどんな得をするというのか。
そこまで考えて、ディーベフィアはようやく気づいた。この状況で、誰が最も得をしているのか。どんな状態異常が作用しているのか。それらの説明がつく理由を、ようやく思いつくことができた。
「本日はお越しいただきありがとうございました」
「お招きありがとうございます」
ある日の放課後。屋外に設えられたテラスの一席。
開放的な場所だが、この席は少し特別なものだ。他の席からやや離れた位置にあり、防音の魔道具が設置してある。だが学生であろうと貴族である以上、ちょっとした密談が必要なこともある。そのために使われる席だった。事前の予約が必要で料金もそれなりに要するが、利用者は多い。
ディーベフィアはその席で一人の令嬢を招いていた。
男爵令嬢アルレメニア・カンタミナート。
これまで話す機会がなく、間近で会ったのは初めてだ。
ゆるくうねったブロンドの髪はやわらかで、長い睫毛の下でゆらめく紫の瞳はどこか妖しい。濃い紅の口紅で染められた唇は同い年とは思えない色気があった。
色香に加えて彼女からは男爵令嬢らしからぬ風格が感じられた。ここ二か月ばかり、高位貴族との付き合いがあるせいだろうか。ただそれは高位貴族の令嬢から感じる気品とは少し異なるものだった。実際に会ったことはないが、高級娼館の女主人はこんな感じではないか――ディーベフィアはそんな印象を抱いた。
ディーベフィアは、この色香ある令嬢こそがこの事態の首謀者にかかわる存在だと確信していた。
初めからアルレメニアはこの事態で一番目立つ場所にいた。だから何か手掛かりが得られるかと思い、ここ一週間ほどは彼女のことを観察した。そして彼女の移動経路に状態異常の効果が集中していることを発見した。
そして調べるうちにおかしなことに気づいた。アルレメニアの通った場所にほとんど必ず『魔力だまり』ができるのだ。アルレメニアは常に10人もの高位貴族を連れている。彼らはいずれも魔力が高く、『魔力だまり』が発生しやすい条件にある。それでも毎回のように『魔力だまり』が発生するのは異常なことだった。
だから、発想を変えた。この『魔力だまり』に見えるものこそが状態異常の術式だとすれば、つじつまが合う。アルレメニア自身を中心に状態異常の効果を及ぼしているのではない。術式を「設置している」のだ。
設置された術式は周囲に効果を及ぼし続ける。それによって学園全体に状態異常の影響を及ぼしているのではないか。
この推測でほぼ間違いないとは思った。だがそれを証明することはできなかった。護符で魔力を遮断した状態では術式の解析はできない。それに術式とおぼしき『魔力だまり』は時間が経てば霧散してしまう。ディーベフィアの手持ちの道具では保存も記録もできなかった。
真相を知るにはもはやアルレメニア本人を問いただすほかない。
そこで「あなたがお持ちの魔道具について確認したいことがある」という内容の手紙を出して、彼女を呼び出した。二人きりで会うのは危険に思えたので、人目はあるが防音結界で会話は聞かれないこの場所を選んだ。
学園の成績を調べた限り、アルレメニアはさほど魔法の扱いが上手くない。これまでの観察で呪文の詠唱をしている様子もなかったので、術式の設置はおそらく魔道具を使ってのものだと予想した。
だから魔道具の秘密を知っているという手紙を出した。その呼び出しに応えた時点でアルレメニアは疑わしい。だが状況証拠だけで犯人と決めつけても、彼女が口を割るとは思えなかった。
真相に至るには、賭けに出るしかない。
「それでは、ご用件についてお聞きいたしましょうか」
そう切り出すアルレメニアに対し、ディーベフィアは胸に手を当て問いかけた。
「あなたは『知力低下』の魔道具を使って、いったい何をするつもりなんですか?」
その言葉を受けて、アルレメニアは目を見開き口を大きく開いた。あからさまな驚愕の表情を見せた。だがそれも一瞬のこと。すぐに口元を押さえ顔を伏せてしまった。その頬からは冷汗が流れているのが見えた。
随分と慌てた様子だ。彼女は真相をいきなり言い当てられたこと以上に、それを顔に出してしまったことに驚いているようだった。
ディーベフィアは問いかけると同時に、シャツの下に隠した魔道具を使った。胸に手を当てたのはその発動のためだった。
魔道具『表情崩し』。この魔道具の効果を受けた者は、感情が表情に出るのを抑えられなくなる。相手に警戒されると通用しない低級な魔道具だが、今回は有効に働いた。
アルレメニアの反応から確信した。予想した通り、この事態は『知力低下』の魔道具によって引き起こされたものだったのだ。
なぜ生徒たちは場をわきまえない会話をするようになったのか。なぜ高位貴族の子息が色香に負けて男爵令嬢に侍るようになったのか。なぜ教師はそれを咎めないのか。
それら全てに説明がつく状態異常がある。それが『知力低下』だ。知力が低下し愚かになれば、生徒は礼儀作法を守ることができなくなり、高位貴族の子息は色欲に抗えなくなり、教師はそれを注意することもできなくなる。
ディーベフィアが自分の状態の把握すらままならなかったことこそが答えだった。知力の低下によって、状態異常の解析などできる状態ではなかったのだ。
知力が低下したと言っても、その効力はせいぜい1割から2割程度の低下にとどまるはずだ。それより落ちてしまっては、学園生活もままならなくなる。
しかしディーベフィアはこの真相の意味することを恐れた。学園に通う生徒たちは、誰もが幼いころから厳しく躾けられてきたはずだ。そんな貴族たちが礼節を守れなくなっている。貴族が歴史と共に積み上げてきた礼儀作法が、たかだか2割の知力低下で引きはがされてしまうのだ。
確信はなかった。できれば外れていて欲しいとも思っていた。しかしアルレメニアの反応からすれば、やはり予測は当たっていたのだろう。
やがて、彼女は顔を上げた。ディーベフィアはぞっとした。彼女が嫣然とした笑みを浮かべていたからだ。
「よくこの魔道具『平穏なる愚者』の効果にたどり着きましたね。そう簡単に気取られるものではないと聞いていましたが……大したものです」
アルレメニアは豊かな胸元からペンダントを取り出した。口元に微笑を浮かべた男の顔を模したペンダント。それが『平穏なる愚者』らしい。
「……あなたがこの事態の首謀者だと認めるのですか?」
「ここまで知られてしまっては、今さら隠しようもないのでしょう?」
アルレメニアが事態に関わっていることは確信していた。しかし彼女は色気以外に目立ったところのない男爵令嬢に過ぎない。誰かの指示で動いていると考えていた。
それなのに、自ら首謀者だと明かした。それも、お茶会の席で出したちょっと珍しい紅茶の銘柄を言い当てられた令嬢のように、余裕の態度を崩さずに。
ディーベフィアが鋭い目で睨むと、アルレメニアはふっと微笑んだ。
「あなたは誤解しているのです。この魔道具はそんなに危険な物ではありません」
「人の知力を無理やり低下させる魔道具が、安全だとでも言うつもりですか?」
「それは機能の半分に過ぎません。『平穏なる愚者』の効果は、『知力の低下』と『精神の鎮静化』なのです」
「精神の鎮静化、ですって……?」
「愚か者はつまらないことで争うものです。でも精神を鎮静化させることで、その争いは避けられます。立場の重さに苦しむ貴族から悩みを消し去り、穏やかに過ごさせる。これはそんな平和的で素晴らしい魔道具なのです」
確かに今の学園の状況は、知力が低下したというだけでは説明がつかない。礼儀作法を忘れ貴族らしからぬ会話に耽る生徒たち。それを教師が咎めないのは、鎮静化の効果によるものなのだろう。言われてみれば最近、口論を耳にすることはない。学園は穏やかだった。
アルレメニアが侍らせる10人の貴族子息が争う様子を見せないのも、精神を鎮静化させたと言うのなら説明がつく。
愚かになれば悩むことはない。争わなければ平穏に過ごせる。それだけ聞けば確かに素晴らしい魔道具と言えるかもしれない。そう考えながらも、ディーベフィアは背筋を冷たいものが走るのを感じた。この魔道具はおそらく、貴族の学園で使っていい類のものではないはずだと直感した。
だから、ディーベフィアはアルレメニアへの糾弾を続けた。
「あなたは状況がわかっているのですか? 例えそれがいい効果の魔道具であろうと、学園の風紀を乱したことは重罪です。わたしがしかるべきところに訴えれば、あなたは牢屋行きになります」
「あなたこそ状況をわかっていませんね。私には高位貴族のお友達がたくさんいます。たかが男爵令嬢一人の訴えなど、もみ消すことはたやすいですよ?」
ディーベフィアは思わず歯噛みした。それは予想していたことだった。
『平穏なる愚者』によって知力が低下した男子生徒。アルレメニアの色香なら、そんな彼らを篭絡するのはたやすいことだっただろう。
だが、なぜ普段から10人もの高位貴族を侍らせる必要があったのか。
それは示威行為だ。逆らえば高位貴族10人が敵に回ると示していたのだ。教授が及び腰だったのも無理はない。アルレメニアの作り上げた「勢力」は、学園の教授であっても逆らえるものではなかったのだ。
それでもディーベフィアは退くわけにはいかなかった。
「あなたの狙いは何ですか? もし王国に仇なすつもりなら、わたしは命に代えてでも止めなければなりません」
ディーベフィアは男爵令嬢にすぎない。それでも、王国の貴族の一員であることに変わりはない。国に害が及ぶなら、命を張ってでも阻む義務がある。
しかし、これはハッタリだ。高位貴族の子息を10人も敵に回して無事で済むわけがない。こちらが本気と見せかけて、アルレメニアに引いてくれることを願っている。
恐怖を理性で抑えつけ、緊張に身を引き締めるディーベフィアに対し、アルレメニアは深々とため息を吐いた。
「そんなことは考えていません。私が望むことはただひとつ。あの方と結ばれたいだけなのです」
そう言ってアルレメニアは離れた席に目を向けた。そこにはこちらを見守る者がいた。
プラチナブロンドの髪に緑の瞳の美青年。侯爵子息アスペレード・エンザスムだ。
ディーベフィアは息を呑んだ。アルレメニアの瞳には熱があった。その頬は朱に染まっていた。妖艶な色気は鳴りを潜め、彼を見つめる姿は恋する可憐な乙女そのものだった。
「そ、そんなバカな……! そんなことのためにっ……! 自分の恋をかなえるためだけに、学園全体に状態異常の魔法をばらまいたと言うのですか!?」
学園を混乱に陥れた元凶。10人もの高位貴族の子息を侍らせる悪女。それが男爵令嬢アルレメニアのはずだ。そんな令嬢が恋のためだけに生きているなど、到底信じられるはずがなかった。
恋を成就させる。ただそれだけのために学園の全生徒、全教師を状態異常に陥らせるなど、正気の沙汰とは思えなかった。
アルレメニアはディーベフィアに向き直った。その目は鋭く、どこまでも真剣だった。
「あなたも男爵令嬢なら、普通のやり方で侯爵子息と結ばれることなど無いと、よくおわかりでしょう?」
そう言われてディーベフィアは言葉に詰まる。校則上は学園の生徒は平等とされている。しかし貴族社会でそうであるように、この学園内でも身分差は絶対だ。男爵と侯爵ほどの身分の開きがあれば声をかけることすらままならない。既に婚約している侯爵子息に対して、男爵令嬢の片思いが届くことなど、現実的にはあり得ないことだ。
しかし、10人もの高位貴族を味方につけ、周囲がそれをとがめられないほど愚かになれば……その不可能は可能となってしまう。
「だからと言って、魔道具で愚かにして想い人を手に入れるなんて……あなたはそれでいいんですか?」
ディーベフィアにはまだ婚約者がいない。恋と呼べるほど男性に惹かれたこともない。それでも、こんなやり方は間違っていると思った。
しかしアルレメニアはまるで揺らがなかった。
「恋は人を愚かにすると言います。その順番を少し変えただけ。『愚かにすることで、恋に落ちさせる』。あの方と添い遂げるためなら、私はどんな手段でも採ります」
ディーベフィアは絶句した。この令嬢はまともではない。恋と言う名の狂気に身を浸している。
ディーベフィアは知識と理論で物事を切り開く学徒だ。しかしアルレメニアは、尋常な理屈では届かない場所にいるのだ。
「あの方と結ばれる以外のことは望んでいません。学園の風紀が乱れるのは申し訳ないとは思いますが、それで大きな問題は起きていないでしょう?」
風紀が乱れるのは問題だ。知力が下がれば成績だって全体的に下がることだろう。だが、誰かが明確な損害を被ったということはない。
アルレメニアの願いが本当にそれだけならば、ディーベフィアが自分の将来を棒に振ってまで止める理由は、無い。
「もうしばらくすれば決着がつきます。そうすれば『平穏なる愚者』の使用をやめることをお約束しましょう。私のことを信じろとはいいません。でもどうか、しばらく見守ってくださいませんか? あなたの人生を終わらせるようなことを、どうか私にさせないでください」
そう言って、アルレメニアは立ち去った。そして侯爵子息アスペレードの席に行くと、その隣に座った。
いつもの高位貴族の子息たちが集まってくる。その席はたちまちいっぱいになった。
アルレメニアはまるで何事もなかったかのように、自分を信奉する男子生徒たちと談笑している。
ディーベフィアはその光景をただ見ていることしかできなかった。
テラスでの話し合いの後。ディーベフィアはただアルレメニアの動向を監視することしかできなかった。
言葉の通り、彼女が特別な動きを見せることはなかった。魔道具『平穏なる愚者』で状態異常の魔法をばらまきながら、10人もの高位貴族を引き連れるだけだ。
アルレメニアの魔道具『平穏なる愚者』が及ぶのは学園内だけだ。術式をいちいち設置する手間を要する以上、外までカバーすることはできない。それなら学外から助けを求めるという手はある。だがそれにはいくつか問題があった。
まず、証拠がない。ディーベフィアの推測をアルレメニアが認めた。ただそれだけで物的な証拠は何もないのだ。
魔道具解析の専門家を呼んで調査してもらえば真相を明かすことができるかもしれない。だがそんな動きを見せれば、アルレメニアの侍らせる高位貴族が阻むことだろう。学園の外に出る必要はない。彼らの一人がたった一通の手紙を出すだけで、男爵令嬢ディーベフィアの息の根を止めることができるのだ。
確かに学園の風紀は乱れている。学園のそこかしこで聞こえてくる猥談は目に余るものがある。
それでも目立った諍いはなかった。これまであった清廉ではあっても堅苦しい空気は無くなり、弛緩したゆるやかでおだやかな空気が占めていた。
ディーベフィアはただ状況の記録に務めた。アルレメニアとの会談で覚えた危機感の理由を探った。
知力の低下で礼法を忘れた生徒たち。精神の鎮静化によって争いの起きない状況。それがどこに行きつくのか。調査しながらそのことについて考え続けた。
そして、結論が出た。やはり魔道具『平穏なる愚者』は危険な魔道具だ。やはり、アルレメニアを止めなくてはならない。
そんな結論を出したとき、彼女から手紙が届いた。
「次の夜会で決着をつけます。それまでどうか、手出しはしないでください」
手紙にはそんなことが書かれていた。学園が状態異常の影響下に置かれてからおよそ三か月。アルレメニアも、この不自然な状況が長続きするとは考えていなかったのかもしれない。夏の長期休暇の前に終わらせるつもりなのだ。
彼女が本当に決着をつけ、『平穏なる愚者』の使用をやめてくれるのならばいい。もしそうでないなら、なんとしてでも止めなくてはならない。ディーベフィアはそう決意を固め、一週間後の夜会を待った。
「伯爵令嬢フェアパトナ! 君が男爵令嬢アルレメニアにした数々の嫌がらせは全て分かっている! 君のような令嬢は私の婚約者に相応しくない! 私はこの男爵令嬢アルレメニアとの間に真実の愛を見つけた! 残念だが、君との婚約は破棄させてもらう!」
侯爵子息アスペレードの鋭い声が夜会に響いた。
学園で催された夜会の席で、突如婚約破棄が宣言された。突然の出来事に生徒たちは混乱して右往左往している。
生徒たちの喧噪から距離を置き、ディーベフィアは壁に背をあずけ、その様子を眺めていた。
まるで舞台劇のようだと思った。
恋に溺れた高位貴族の子息が婚約破棄を宣言する。本来ならば高位貴族の子息がこんな行いをするはずがない。夜会での婚約破棄を宣言などあまりにも非常識なことだ。侯爵子息アスペレードは礼儀を重んじる俊英だ。知力低下の状態異常で愚かになっていなければ、こんなことはできなかっただろう。
婚約破棄の宣言を告げられた伯爵令嬢フェアパトナは滑らかな金色の髪に涼やかな蒼の瞳を持つ美しい令嬢だ。学業の成績も高く、侯爵家に嫁ぐに相応しい才媛だった。だが今の彼女は悲しみと憎しみに顔をゆがめている。それは高位貴族の令嬢が公の場でしていい表情ではなかった。
本来の彼女なら、これほどの理不尽を突きつけられても令嬢としての体面を保っていただろう。だが今は無理だ。彼女は愚かになっているからだ。
それだけではない。フェアパトナはアスペレードに指摘された通り、アルレメニアに対して幼稚な嫌がらせをしていた。取り巻きを使って教科書を汚したり、大事なペンを隠したり、あるいはハンカチをこっそり奪って泥まみれにしたりしていた。アルレメニアの周囲を観察していたディーベフィアはそのいくつかを目にしたことがある。
本来のフェアパトナならそんな手段など採らなかっただろう。婚約者にまとわりつく男爵令嬢ごとき、家の力を少しちらつかせるだけで容易く排除できたはずだ。愚かさはそんな当たり前の選択肢をフェアパトナから奪っていた。
男爵令嬢アルレメニアは愛する人によりそい、その顔をじっと見つめている。紫を基調とした華やかなドレスは、彼女の豊満な胸と悩ましいボディラインをより艶やかに見せていた。しかし今の彼女は夢見る少女の顔をしている。今、実際に、彼女は夢をかなえようとしている。
登場人物全てが愚かでなければ成り立たない、現実には起こり得ない婚約破棄の舞台。
だが今、この学園でなら成立する。なぜなら魔道具『平穏なる愚者』で、学園の生徒たちは愚かになっているからだ。
アルレメニアが「もうすぐ決着がつく」と言っていた理由がわかった。彼女はこの舞台を成立させることを計画していたのだ。
公の場で婚約破棄を宣言すれば、侯爵子息であろうとも後には退けない。アルレメニアは彼のそばにいられるようになる。こんな不祥事を起こしてアスペレードがその立場を保てるかはわからない。たとえ彼が爵位を失うことになろうとも、アルレメニアは幸せなのだろう。彼女の願いは、彼と添い遂げることだけなのだ。
次に考えるべきことは、彼女が『平穏なる愚者』の使用を本当にやめるかということだ。もし今後も使い続けるようなら、なんとしても止めなくてはならない。ディーベフィアは早くもこの夜会の後のことへと思考を巡らせていた。
ディーベフィアは自分だけは状況の外にいると考えていた。自分だけは分かっているつもりでいた。
だから、次に起こったことを、予想できていなかった。
『氷の矢!』
だしぬけに攻撃魔法が放たれた。伯爵令嬢フェアパトナだ。彼女がこともあろうに夜会の会場内で攻撃魔法を放ったのだ。
そして、何本もの氷の矢が、アルレメニアの身体を貫いた。
アルレメニアの身体が崩れ落ちる。会場は静まり返った。時が凍り付いたように誰も動かない。
その静寂を破ったのはディーベフィアだった。
「アルレメニア!」
叫び、彼女の元へ駆けていく。
ちょっとした怒り程度なら『精神の鎮静化』によって鎮められたことだろう。だがそれにも限度がある。夜会で婚約破棄を宣言された恥辱による怒りが、婚約者を奪われたことによる悲しみが、『精神の鎮静化』程度で抑えきれるはずがなかった
感情の暴走は、一度堰を切ってしまえば止まらない。愚かさは自らを律する能力を奪うからだ。それが伯爵令嬢フェアパトナを、攻撃魔法の行使と言う凶行に走らせたのだ。
これがディーベフィアの危惧していた『平穏なる愚者』の危険性だ。
わかっているつもりだった。伯爵令嬢フェアパトナが多少の暴力に訴えることくらいは考えていた。それでもいきなり攻撃魔法を使うとまでは予想できなかった。ディーベフィアは心の中で、自分の甘さを罵倒した。
動いたのはディーベフィアだけだった。会場の誰も動かない。知力の低下で判断力もまた低下して、この異常事態にとっさに対応できない。愚かさは人の動きを鈍らせるのだ。
アルレメニアの下にたどり着く。仰向けに倒れた彼女の身体には、無惨にも何本もの氷の矢が突き立っていた。
すぐさま回復魔法をかけるが、それは無駄なことだった
氷の矢が何本も彼女の身体に深く突き刺さっている。回復魔法がさほど得意でなく、魔力が高いわけでもないディーベフィアでは、傷口をふさぐことすらままならない。
何よりまずいのは、氷の矢の一本が胸の中心近くに突き刺さっていることだ。見た限り、心臓に直撃はしていない。だが付近の動脈を傷つけている可能性が高い。傷口が凍っており出血は少ないが、それは血の流れが阻害されているということでもある。冷気は心臓の動きも鈍らせるだろう。血が正しく流れなければ、人は生きてはいられない。
アルレメニアはごほっとせき込み、血を吐いた。氷の矢は腹部にも突き刺さっていた。
「誰か、手伝ってください! 回復魔法をかけてください! お願いします!」
ディーベフィアの声にようやく回復魔法を得意とする生徒たちが集まった。皆で一斉に回復魔法をかける。青ざめていたアルレメニアの顔にわずかに赤みがさした。止まっていた息を弱々しく吹き返した。
だがそれだけだ。時間稼ぎにしかならない。もう並の回復魔法でどうにかできる状態ではない。
何か手はないかと周囲を見回す。遠巻きに見ている生徒たちは怯えるばかりだ。
回復魔法をかけてくれている生徒たちは、本来は優秀な魔法の使い手だ。だが今の彼らはただ必死なだけで、自分たちの魔法が無為に終わる可能性に気づく様子すらない。
周りの誰もが愚かだった。アルレメニアをもう救うことはできない――その絶望を正しく理解しているのは、この場においてディーベフィアだけだった。
「ア……アスペレード様……!」
苦痛に顔をゆがめ血を吐きながら、アルレメニアは愛する人を呼んだ。彼の方へ弱々しく手を伸ばそうとしている。
それなのに、アスペレードは動くことすらしない。悲しみと苦しみに顔を歪ませ、彼女を見つめるばかりだった。
状態異常のせいだと理解している。それでもディーベフィアは、その愚かしさが許せなかった。
「なにを突っ立ってるんですか!? 手ぐらい握ってあげてくださいよっ!」
ディーベフィアの叱咤の声に、ようやくアスペレードは動いた。アルレメニアの下に駆け寄るとしゃがみこみ、彼女の手をぎゅっと握った。
苦痛に歪んでいたアルレメニアの顔が、ふっとゆるんだ。
「アスペレード様……あなたのことを愛しています……」
その言葉を最後に。男爵令嬢アルレメニアは、息を引き取った。
あの夜会の夜の後。ディーベフィアは『平穏なる愚者』に関して記録した全てを王家に報告した。そしてその危険性を訴えた。
王家は当初は学園の不祥事をおおやけにはせずに事態を収める意向だった。しかしディーベフィアの粘り強い嘆願により、ようやく重い腰を上げた。
調査によって、魔道具『平穏なる愚者』を作った国が判明した。
北の小国シーパトリカだった。国土は狭く国力も低いが、魔道具の技術でそれなりに名の知れた国だった。
そして『平穏なる愚者』の本来の使い方もわかった。これは貴族が領民を効率よく治めることを目的とした魔道具だった。
民衆は愚かな方が治めやすいと言われている。それなら魔道具によって領民を愚かにしてしまえば、効率的な統治ができるのではないか――そんな発想から『平穏なる愚者』は作られた。
しかしまだ未完成の魔道具だった。『知力低下』と『精神の鎮静化』の効果は十分なものだったが、術者が定期的に対象とする場所をまわらなければならず、広い領地をカバーするのは困難だった。
北の小国シーパトリカは『平穏なる愚者』を完成させるため、実地で試験を試みることにした。その一環として低位貴族に対し、試作品を格安で売り渡していた。アルレメニアのカンタミナート男爵家は、そうした経緯で『平穏なる愚者』を手に入れた。
知力が低下し、精神を鎮静化される。それは確かに平穏をもたらすだろう。苦境でも不満を口にしない領民は、領主にとってさぞ扱いやすいことだろう。
しかしそれは危険な可能性をはらんでいた。
愚かにすることで不満を認識させない。精神の鎮静化によって怒りを鎮める。そうやって作られた平穏の中で、表に出ない不満は降り積もる。
いずれ限界を迎え、偽りの平穏は破られる。愚かさゆえに怒りを抑制できない。解放された不満は、人を暴走させる。あの夜会で、伯爵令嬢フェアパトナが攻撃魔法を放ってしまったように。
あれと同じことが、もっと大規模に発生する可能性がある。そうなれば大惨事だ。何人犠牲者が出るかわからない。
それに治める側の領主にも影響がある。良識ある領主が正しく領地を治めるなら問題ないのかもしれない。だが、理不尽を強いてもろくに文句を言ってこない従順な領民に対し、聖人君子でいられる領主がどれだけいるだろう。多くの領主が圧政を敷くようになるだろう。そして領民を牛馬のように扱う無慈悲な悪徳領主が出来上がる。
あの夜会での経験を経て、そうしたことを予期したディーベフィアは、なんとしても『平穏なる愚者』が広まるのを止めようと決意した。だから王家に対してその危険性を訴え続けたのだ。
王国は小国シーパトリカに対して正式に抗議した。大国からの干渉を前に、小国シーパトリカは『平穏なる愚者』の生産を停止する条文に調印した。そして開発関係者を死罪とすることでことを収めた。
『平穏なる愚者』はほとんどの国で禁制品となった。
あの夜会から5年が過ぎた。
アルレメニアは邪悪な魔道具を使って学園を混乱に陥れ、侯爵子息を手に入れようとした稀代の悪女として王国中に知られることとなった。
アルレメニアのカンタミナート男爵家は、その罪を問われ取りつぶしとなった。
状態異常担当の教授は、アルレメニアに脅されて事態を静観した。保身のためにディーベフィアの調査をけん制した。自分を守ることばかり考え、魔道具『平穏なる愚者』の秘めた危険性に気づかなかった。
事件後、教授は「私はアルレメニアの従える高位貴族たちから圧力を受け何もできなかった。仕方なかった」と言って、自らの無実を訴えた。教授自身は法に触れる行いはしていなかったため罪に問われることはなかった。
だが、生徒の暴走に気づきながら何もしなかった者に、学園が居場所を与えるはずもない。受け持っていた授業を全て取り上げられ冷遇された。教授はやがて学園を去った。
侯爵子息アスペレードと伯爵令嬢フェアパトナの婚約は解消となった。
伯爵令嬢フェアパトナには重い罪は科せられなかった。彼女は魔道具の影響下で正常な判断ができない状態にあり、また殺めた相手の爵位が低かった。それも悪女と名高い男爵令嬢ということで、罪は軽いと判断された。
それでもフェアパトナは自らの犯した罪を悔やんだ。貴族としての幸せを捨て、自ら修道院に入り、神に全てを捧げる道を選んだ。
アルレメニアの想い人、侯爵子息アスペレードは特に罪に問われることはなかった。彼は悪女アルレメニアの被害者として扱われた。
アスペレードは未だ次の婚約者を決めていない。彼がアルレメニアのことをどう思っていたのか。そのことについて語ることは生涯なかったという。
ディーベフィアは危険な魔道具を知らせた功績を認められ、魔法省の文官となった。
そんな彼女の下に、ある日、記者が取材に訪れた。その記者は王国中で蔑まれている稀代の悪女アルレメニアについて、その足跡をまとめているとのことだった。そして同じ学園で過ごしあの夜会の惨劇にも深くかかわったディーベフィアにぜひとも話を聞きたいと訪ねてきたのだ。
記者はアルレメニアについてどう思うかと尋ねてきた。アルレメニアの悪評を高める言葉を求めていたようだが、ディーベフィアの回答はその期待にそぐわないものだった。
「確かに彼女は間違ったことをしました。命を落としたことも、自業自得だと思っています。でも、世間で言われるほどの悪女だったとは思いません。身の丈に合わない望みを抱いたときに、危険な魔道具が近くにあった……それがいけなかったんです。あんな悲劇を繰り返さないよう備えることが、魔法省の重要な仕事だと考えています。
彼女は、ただ……想い人と添い遂げたかっただけの、憐れな少女でした」
そう言って、ディーベフィアは目元をぬぐった。
終わり
婚約破棄の場面で登場人物は愚かな行動をとりがちです。
お話を作る時、その理由づけにはいつも頭を悩まされます。
そこで、周囲を愚かにする魔道具があればうまいぐいあいに説明がつくのではないかと思いつきました。
それが成り立つように設定やキャラを詰めて言ったらこういう話になりました。
アイディアを思いついた当初はもっとコメディっぽい話になる想定でしたが、悲しい話になりました。
お話づくりは相変わらずままなりません。
2025/5/1
誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!
また、事件後の教授の処遇について書き加えました。
2025/5/2
読み返して気になった細かな個所をあちこち修正しました。
2025/5/3
魔道具の効果持続についての記述を書き加えました。
2025/5/4、6/28
誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!