第98話 「魔界」の話
「はぁ……」
椅子に深く腰掛けながら、大きなため息をつく。
カフェの柔らかなソファが、疲れた体を優しく包み込んでくれる。
座面がふわりと沈み、緊張していた筋肉がほぐれていく。
店内には様々な香りが漂っていた。
紅茶の芳醇な香り、焼き菓子の甘い匂い。そして、高級な調度品から漂う木の香り。
壁の装飾からは、かすかに金属の冷たい輝きが目に入る。
「お疲れさま! あ、このケーキセット美味しそう! いちごのタルトにレモンパイに……!」
シャルは相変わらず元気だ。
メニューを手に、キラキラした目で品定めをしている。その声には疲れの欠片もない。
(シャルは相変わらず元気だなぁ……私なんて、もうへとへとで。今残り10%くらいかな……)
買い物とお喋りで、MPはほぼ底をついている。
そろそろ回復しておこうかな……と杖を手に取り、こっそりと精神回復魔法をかける。
温かな魔力が全身に染み渡っていく。
そのときふと窓の外を見ると、曇りガラス越しに見覚えのある後ろ姿が目に入った。
「……!」
カールした髭を蓄えた男性が、ゆっくりと歩いていく。
黒い服に身を包んだその姿は、以前の軽薄な印象とは違って、まるで上品な貴族のよう。
間違いなく、さっき例の貴族と話していた人物だ。
「あれ、カールじゃない?」
シャルも気づいたらしく、眉をひそめる。
以前、騙されかけた相手だ。シャルの眉間に皺が寄るのも当然だろう。
私はそっと席を立つ。新調したスカートのすそが、優雅に揺れる。
まだ慣れない生地の感触に、少しだけ気恥ずかしさを感じる。
「……話を、聞きたい」
「えー、あいつに? そういえば、あいつも石の密議のメンバーなんだっけ」
シャルは不満そうな表情を浮かべる。が、すぐに「まあいっか」と肩をすくめた。
テーブルに置かれたカップから、紅茶の湯気が立ち上る。
「リュークが言ってたこと、あたしもちょっと気になるし。ただ気をつけてね。あたしが先に行くから!」
私たちはカフェを出て、カールの後を追う。
彼は時折立ち止まっては後ろを確認し、まるで私たちを誘導するかのように歩を進めていく。
足音が石畳に響き、春の風が街角を巡る。
やがて、人通りの少ない路地に入っていった。
石畳に刻まれた溝から、かすかに水の流れる音が聞こえる。
両側の建物が日差しを遮り、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
路地の奥で、カールは立ち止まった。彼の髭が風に揺れ、カールした先が朝日に輝く。
「やあ、お久しぶり。随分と可愛らしい格好になったじゃないか、聖女様」
くるりと振り返ったカールは、相変わらずの軽薄な笑みを浮かべていた。
その様子は、まるで楽しい再会を喜ぶかのよう。そんな間柄じゃないんだけど。
「……」
私は黙って彼を見る。どういうつもりなんだろう。胸の中で警戒心が膨らむ。
「なんだねその目は。僕はもう石の密議でもない一般市民だぞ? ほら、怖い顔しないでくれよ」
「どうだか。直前で抜けたから捕まってないだけで、あんた犯罪者でしょ? あたしたちを騙そうとしてたくせに」
カールは苦笑いしながら、両手を上げた。彼の黒いコートから、高級な香水の匂いが漂う。
「まあまあ。今日は大事な話があってね。実は、さっきの聖女様の様子を見ていたんだ。
気づいてくれたようだから、こうして待ってたってわけさ」
カールの表情が、一転して真剣になる。
秋風が路地を抜け、彼の黒いコートをはためかせた。
陽射しが石壁に反射し、不思議な影を作り出す。
「つい最近、魔城とかいう魔物が出たと聞いた。石の密議がノルディアスを強くしようと思った『外敵』。
それが一体何なのか、聞きたいんだろう?」
路地裏に、重苦しい空気が流れる。
カールの声には、今までにない重みが込められていた。
軽薄な調子は消え、真摯な響きだけが残る。
「ソルドス・カストルムの正体について……そして、この世界が直面している本当の脅威について」
私は黙って頷いた。新しい服のスカートが、緊張のためか少し震えている。
風が裾を揺らし、かすかな布擦れの音が響く。
「我々の敵は――魔界」
カールが口にした言葉に、思わず目を見開く。
風が路地を抜け、茶色く乾いた落ち葉が舞う。
石壁に囲まれた空間に、その言葉が不気味に響く。
「なにそれー?」
シャルが眉をひそめる。その声には明らかな不信感が混じっていた。
「子供の頃に聞いたおとぎ話じゃん。魔物がいっぱい住んでる別世界とかいう。寝る前に聞かされる怖い話でしょ?」
「ああ、そうさ」
カールはゆっくりと頷く。風に舞う落ち葉が、彼の磨き上げられた靴の周りで渦を巻く。
彼の黒いコートが、風に揺れてかすかな音を立てる。
「確かにおとぎ話だ。でも、全てが作り話というわけじゃない。
ソルドス・カストルムは、紛れもなく魔界からの来訪者だった。この世界とは異なる法則で動く、別の次元からの侵入者さ」
路地に流れる空気が、一瞬止まったかのよう。
遠くで鐘が鳴り、その音が石壁に反射して私たちを包み込む。
私の新しいスカートが、冷たい風に揺れる。
「いやいや……」
シャルが苦笑する。その表情には半分呆れ、半分困惑の色が浮かんでいる。彼女の赤い髪が風に翻る。
「この歳になって、お化けの話? あたしだって子供の頃は信じてたけどさぁ」
「だが、考えてみてほしい」
カールの声が低く響く。普段の軽薄さは消え、静かな迫力を帯びていた。
彼の影が、石畳の上で長く伸びている。
「あの魔城は、どこから来たのだろう? なぜ千年に一度なのか。そして――」
彼は一度言葉を切り、私たちの反応を確かめるように見つめる。
瞳には、今までに見たことのない真剣さが宿っていた。
「強大な魔物は、なぜ突如として現れては消えるのか。この世に『ドラゴンの卵』がないって知ってるかい?
専門家でも、ドラゴンは別の世界から来ていると考えている人間もいる」
「えっ、そうなの……?」
シャルの表情が、少しずつ変化していく。
半信半疑ながら、その言葉に耳を傾け始めていた。彼女の緑色の瞳が、不安げに揺れる。
……ドラゴン、か。
私の脳裏に浮かぶのはヴェグナトールの姿だ。
黒い鱗に反射する光、鋭く巨大な尾。城に叩きつけられるあの尻尾を今も思い出せる。
彼は偶然にも聖女アリアと絆を結んだドラゴンではあるが、それ以前は特に理由もなく人間を憎み、襲い続けていた。
それはもしかして、彼が魔界から来た、我々とはまったく違う生物だからなんだろうか……?
「石の密議は、そんな存在と戦うための軍事組織として始まった。だが、時が経つにつれて……」
カールはカールしたヒゲを弄びながら深いため息をつく。
路地の空気が冷たく、頬を撫でる。石壁からは、秋の冷気が染み出してくるようだ。
「堕落し、ただの権力打倒集団と成り果てた。我々は本来の目的を見失い、ただ力を求めるようになった。皮肉なものだろう?」
風に乗って、遠くから祝賀の音楽が聞こえてくる。
フルートの明るい音色と、人々の笑い声。街はまだ、魔城撃破の喜びに沸いているのだ。
私たちの立つ路地だけが、まるで異世界のように静かだった。
「でも、なんでそんな大事なこと、今まで黙ってたの?」
シャルが問いかける。その声には怒りよりも、不思議そうな色が濃い。彼女の足が、石畳をカツカツと軽く叩く。
「そもそも君ら、全然ノルディアスに帰ってなかったじゃん?」
「いや……まぁ……そうかも」
「それに誰が信じる? 魔界なんて……。お伽噺の世界を、誰が現実の脅威として受け止めるというんだ?」
カールは自嘲気味に笑う。その表情には諦めが滲んでいた。
風が彼のコートの裾を揺らし、落ち葉を巻き上げる。
「そもそも、どうやってそんなこと知ったの?」
「古い記録さ。千年前の記録……。図書館の奥深くに眠っていた、誰も見向きもしない古文書からね」
その言葉に、私は思わず息を呑む。
千年前。マーリンの生きていた時代。心臓が鼓動を早める。
「千年前、この世界は魔界との大戦争を経験したらしい。その記録は、ほとんどが失われている。
だが、僅かに残された記録から、私たちは真実を知ったのだ!」
力強く宣言するカール。私の胸の中で、様々な思いが渦巻く。
マーリンはこの戦いを経験した……?
「ソルドス・カストルムは、魔界への『扉』を通ってやってきた。千年に一度、扉が開く。
そして魔物たちは、この世界に流れ込んでくる。古文書にはそう記されていた」
カールの言葉が、重く響く。石畳に積もった落ち葉が、風に舞い上がる。
「今回はたまたま、君たちのおかげで被害は最小限で済んだ。だが次は――。
もっと大きな扉が開く可能性がある。我々は常に警戒を怠ってはならないんだ」
「……ふーん」
シャルは腕を組み、空を見上げる。その表情からは、まだ半信半疑な様子が伺える。
「そっか。……えっ、マジなのこの話? カールの適当な作り話じゃなくて?」
「オイ! 私はそんなに暇じゃない! こんな大層な嘘をつく趣味はないぞ!」
「ええ……じゃあ、もしかしてこの世界『魔王』とかいるの? 絵本とかにたまーに出るよね」
「あ、いるぞ」
「!?」
カールは事もなげに答える。……えっ、そんなのいるの!?
「魔王は魔界の支配者だそうだ。いるということだけはわかっているが、資料は例によってほとんどない」
「へ、へぇ~、いるんだ……そっかぁ……」
シャルの声が勢いを失っていく。半信半疑だったのが疑い率がだいぶ高くなってそうだ……。
一方、私の頭の中で様々な考えが巡る。
(魔王……魔界……千年……)
全てが繋がっているような気がする。けれど、まだその全容は見えない。
私の師匠マーリンは千年前の人物。
その時代に、この世界は魔界との戦いを経験していた。
そして今、再び千年周期の時を迎えようとしている。その寸前に、私はマーリンと出会い、魔法を教わった。
……これは偶然なんかじゃない。
マーリンはこの騒動を知っていて、この時代にいるんだ。
「まあ、信じるか信じないかは君たち次第さ」
カールが肩をすくめる。彼のコートが風に揺れ、かすかな音を立てる。
「私にできるのは警告だけ。実は今でも裏で調査を続けているんだ。魔界に関する痕跡を探して」
彼の声には、真摯な響きがあった。いつの間にか真面目になったなぁ、この人。
「そうなんだ……」
シャルは複雑そうな表情を浮かべる。彼女の剣に触れていた手が、ゆっくりと離れていく。
「あのさ。こういう大事な話するなら、お茶でもしながらゆっくり話せばいいのに。
路地裏って、なんかヤバい話してる感じがしない?」
「そうだねぇ。でも、僕も町中でこんな話したくないんだよ。おかしいやつだと思われるだろ?」
カールは軽く会釈すると、路地の奥へと歩き始めた。
「また会おう。聖女様の新しい服、とても似合ってたよ」
彼の姿が影に溶けるように消えていく。
残されたのは、まだ温もりの残る日差しと、私たちの中に残された不安だけ。
「はぁ……なんだかすごい話を聞いちゃったね」
シャルが大きくため息をつく。その声には、複雑な感情が混ざっていた。
「魔界とか魔王とか……ちょっと話が大きくなりすぎてない? そんなんあたし無理なんだけど」
確かに、話が大きすぎる。私にも重すぎるかもしれない。でも――。
「……マーリンが、関わってそう」
「ん? ミュウちゃんの師匠? ああ、そっか! 千年前の人だもんね」
シャルの目が輝く。彼女なりに、事態を理解し始めたようだ。
「絶対知ってるよね、何か。結局その人を探さなきゃだめかー」
私は頷く。マーリンを追うことで魔界の情報が掴めるか、魔界を追うことでマーリンの情報が掴めるか……どっちが先になるかはわからない。
けど、この二つは密接に関わっている。そんな気がする。
「あ、でもその前に!」
突然、シャルが明るい声を上げる。その変わり様に、私は思わず首を傾げた。
「せっかく買い物途中だったんだし、もうちょっと付き合ってよ! 杖屋さんまだ行ってないし!」
「……っ!」
思わず後ずさる私。でも、シャルの手が私の手首を掴んでいた。
「大丈夫、MPはまだあるでしょ? さっき回復したの見てたし!」
(うっ……見られてた……)
シャルの元気な声に引っ張られるように、私たちは再び表通りへと戻っていく。
秋の陽射しが、温かく私たちを照らしていた。
世界の危機も、魔界の脅威も、今はまだ遠い未来の話。
目の前には、もっと差し迫った危機が――。
私のMPが、また底を尽こうとしているのだった。
「ねえねえ、このお店はどう? あ、あっちにも可愛い服屋さんがある!」
(助けて、誰かぁぁ……!)
……遠くでは、まだ祝賀の音楽が鳴り響いていた。
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