第93話 「城」の魔物
白い息が、霧の中に溶けていく。
肌を刺すような寒気が漂っている。
「これは……」
シャルの声が、粘つくような空気の中に響く。
私たちの目の前には、巨大な城が姿を現していた。
異形の建造物だった。
青白い石で築かれた壁は半透明で、まるで朝もやが固まったかのよう。
その形状は安定せず、視界の端でゆらめいては変容を繰り返す。
尖塔は空へと伸び、その先端は霧の中に溶けていく。
無数の窓は、まるで城自体が呼吸をしているかのように、ゆっくりと位置を変えていた。
(なんか騙し絵みたい。見ているだけで目が痛い……)
冷気が肌を刺す。私たちの乗る白雪が鼻を鳴らし、不安げに首を振る。
蹄が地面を掻く音が、霧の壁に包まれた静寂の中で不気味な反響を生む。
「このままじゃ何も見えないな……よし、ちょっと晴らしてみよう!」
シャルが剣を掲げる。放たれる光が霧の中で輝き、金色の稲妻が走る。
雷鳴が轟き、一瞬辺りが昼のように明るくなる。しかし、霧は雷に触れても動かない。
むしろ、雷の光を貪り食うように渦を巻き、より濃密さを増していくようにさえ見えた。
「むぅ……こりゃ少なくとも普通の霧じゃないねぇ」
シャルの言葉に、私は小さく頷く。
これは強大な魔力を帯びた霧。その濃度は、普通の魔物が作り出せるレベルをはるかに超えている。
そのとき、城壁に穿たれた窓から青白い光が漏れ出した。
その幽かな輝きの中に、人の影が揺らめく。
「あっ! 見た!? 窓に人影が! きっと村人たちだよ!」
「……!」
シャルの声が高く跳ねる。
私も同じものを見ていた。確かにあれは人の輪郭。捕らわれた村人たちかも……。
白雪が大きく首を振り、蹄を踏み鳴らす。前に進もうとはしない。
私は馬の首筋に手を当て、その震えを感じ取る。
馬は人間より敏感に危険を察知する。
それほどまでに怯えるということは、この先には相応の脅威が待ち受けているのだろう。
「ここで降りよっか。これ以上ギルドの馬を危険な目に遭わせるわけにはいかないもんね」
シャルの提案に頷き、私たちは馬から降りる。
……私は自力では無理だったので、シャルに抱き上げてもらった。
長靴が地面に触れる音が、霧にかき消されていく。
シャルは白雪の手綱を近くの枯れ木に結びつけ、少し離れた場所で待機するよう指示した。
賢い馬は、私たちの意図を理解したように小さく鳴いた。その声には不安が滲んでいる。
「よし、行こう。気をつけてね、ミュウちゃん」
「うん……」
シャルの声に頷き、私たちは城へと足を進める。
足元は霧で視界が遮られ、一歩一歩を慎重に進まねばならない。
地面からは生暖かい湿気が立ち昇り、まるで大きな生き物の息吹のようだった。
突然、シャルが立ち止まった。その背中の筋肉が強張るのが見える。
「来たね」
霧の中から、すらりとした人型の魔物が浮かび上がる。
その姿は氷で作られた人形を思わせた。
全身が青白く半透明で、月光を通したような淡い輝きを放っている。
女性的な体つきをしているが、顔には目がない。ただ暗い空洞が穿たれているだけだ。
長い髪のように見えるものも、実は霧が渦を巻いて作られた幻影でしかなかった。
これは霧の精、ミストレイス。人の魂を奪うと言われる魔物だ。
「ふん、こんなのあっという間だよ!」
シャルは大剣を閃かせた。
刀身に黄龍の勾玉の力が宿り、青白い電光が闇を切り裂く。その輝きに、思わず目を細める。
ミストレイスが襲いかかってくる。
しかし、シャルはそれを露を払うように一刀両断。
魔物は霧となって、夜気に溶けていった。
「さ、次は何匹で来るの? かかってきなさーい!」
シャルの挑発に呼応するように、新たな魔物の群れが出現する。
今度は十体を超える数が、円を描くように私たちを取り囲んでいく。
その姿は月光を透かしたステンドグラスのように美しく、そして不気味だった。
「ミュウちゃん、離れないでね!」
「……っ!」
私は頷き返し、杖を強く握り締める。
シャルが疾走する。その姿は稲妻のように鮮やかだ。
剣が空を切り、雷鳴が轟く。魔物たちは光の粒子となって、次々と夜空へ消えていく。
東方大陸での修行を経た彼女の剣術は、以前とは比べものにならないほど洗練されていた。無駄な動きは微塵もない。
(すごい……まるで剣と一体になってるみたい)
私は彼女の近くに位置取りつつ、周囲への警戒を怠らない。
新手の敵が現れれば即座にシャルに知らせられる位置を保つ。
とはいえ、彼女の剣さばきの前では、私のサポートなど必要ないようにも思えた。
ミストレイスの群れは、まるで朝露が蒸発するように次々と消滅していく。
最後の一体が霧と化すと、辺りに再び深い静寂が広がった。
「ふぅ。これくらいの相手じゃ、もはやあたしのウォーミングアップにもならないね!」
シャルが軽く肩を回す。その表情からは、戦いの緊張感が微塵も感じられない。
それでも一応、体力回復の魔法をかけて疲労を取り除く。
万が一に備えて全開の状態を保っておきたい。
そうしていると――背筋が凍るような悪寒が、私を襲った。
突如、空気が震え始める。
それは誰かの呟きのようでもあり、風のうなりのようでもある。
(この感じ……敵!)
かばんの中で翠玉の鏡が鼓動を打つように脈打ち、正面の空間が大きく歪んだ。
まるで熱で揺らめく空気のように、城の石壁がうねりはじめる。
その動きに合わせ、耳の奥で低い振動が響く。
そこから、巨大な目が城壁に姿を現した。
黄金の虹彩は月光を吸い込むように輝き、その中心には縦に裂けた漆黒の瞳孔。
それは私たちを獲物を品定めするように見下ろし、ゆっくりと細められた。
視線に触れただけで、全身の血が凍るような悪寒が走る。
城壁の石目が歪み、まるで建物全体が笑っているかのような表情を作り出していく。
その様は、悪夢から抜け出したような不条理さを帯びていた。
「あはは、あはははは……!」
笑い声が響き渡る。しかし、それは人の声とは全く異質な音色。
まるで、霧そのものが震えているかのような、耳の奥まで染み込むような響き。
「……おやおや、新しい獲物ちゃんかしら? その鏡は……」
かばんの中から翡翠色の光が漏れ出し、周囲の霧を押し返していく。
翠玉の鏡が反応を示している。
光は私の手のひらに温かみを伝え、魔力の波動が全身を包み込む。
その光の筋に照らし出され、城の内部が浮かび上がった。
青白く輝く通路は迷宮のように入り組み、数えきれないほどの部屋が連なっている。
そこかしこに、村人たちが閉じ込められていた。
彼らは立ったまま、意識はあるようだが、瞳から光が失われている。
まるで魂を抜かれた人形のようだ。息遣いさえも感じられない。
「なるほど、浄化の力を持つ者ね……。でも、それだけの光じゃ足りないわ!」
巨大な目から、月光を凝縮したような青白い光線が放たれる。
その光は空気を切り裂き、耳を劈くような音を立てる。
「ミュウちゃん!」
シャルの腕が私の腰に回り、強く抱きしめながら横に跳躍。
光線が大地を抉り、巨大な溝を刻む。焦げた土の匂いが鼻をつく。
「上等じゃん。やってやろう!」
「おやおや、戦うつもり? こっちにはたくさんの村人がいるのに?」
「……!」
辺りは再び霧の帳に包まれ、村人たちの姿は見えなくなる。
だが、彼らが危険に晒されていることは、否応なく理解できた。
魔物の言葉には、人質を盾にする余裕が滲んでいる。
さすがにシャルも動けずにいた。
彼女の腕の筋肉が強張り、歯を食いしばる音が聞こえる。
「村人の命が惜しければ手出しはしないことねぇ。あなたたち強そうだし、このまま帰ってもらえない?」
その声には打算的な愉悦が混ざっていた。
まるで蟻地獄に落ちた虫を眺めるような、高みからの視線。
「ぐっ……このっ!」
(浄化の力は通じそうだけど……人質がいるのが厄介だなぁ)
翠玉の鏡の光は確かにこの存在を脅かしている。
それを察知したのか、城の中の村人たちが次々と窓辺に集められ始めた。
彼らの虚ろな表情が、月明かりに照らし出される。
これは今の私たちだけでは対処できない。
少なくとも、城内に潜入して人質を救出する別働隊が必要だろう。
「シャル……一旦、退こう」
珍しく私から声をかける。
シャルは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに意図を理解したようだ。
「そうだね。あの城のバケモノ、倒せないわけじゃなさそうだけど、村人が助けられない……。人数増やして、もう一回来よう」
シャルの判断は冷静で的確だった。私たちには勝算がある。
でも、無辜の命を危険にさらすわけにはいかない。
「あら、賢明な判断ね。でも、その間にたくさんの魂を集められるから、私としては嬉しいわ」
目の周りの城壁が波打ち、形容しがたい笑みを形作る。
それは人の表情とはかけ離れた、歪んだ形相だった。冷たい汗が背筋を伝う。
私たちは巨大な目を警戒しながら、白雪の待つ場所まで後退する。
急いで手綱を解き、背に飛び乗った。
「待っててね。今度は必ず助けに来るから!」
シャルの声が闇に響く。白雪は手綱を引かれるまでもなく、全力で城から離れていく。蹄の音が霧に吸い込まれていった。
(翠玉の鏡は効く。シャルの雷も、私の回復も万全。
問題は人質だけ……。仲間を集めて、一気に……)
背後では、城そのものと一体化した魔物の笑い声が虚空に木霊していた。
しかし、その声に恐怖は感じない。
むしろ、勝算の見えた戦いへの期待感が胸の内に芽生え始めていた……。
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