第90話 1000年の記憶(後編)
――記憶は次第に暗く、そして残虐なものへと変わっていく。
視界が歪み、色彩が濁っていくようだった。
最初は小さな実験だった。
マーリンに教わった回復魔法を繰り返し使うことで、人々はより頻繁に治療を求めるようになる。
そうすれば研究対象も増えると考えたのだ。
ガンダールヴァは山間の僧院を建て、治療を施す場所として開放した。
白壁の建物は清らかに見えたが、その内部では既に狂気が芽生え始めていた。
多くの人々が訪れ、彼の回復魔法に感謝を述べる。
僧院の廊下には常に人が溢れ、その喧噪が絶えることはなかった。
「ありがとうございます、老師様! 腕の痛みが嘘のように消えました!」
「痛みから解放されて、本当に嬉しいです。もう眠れない夜はないのですね」
最初のうち、彼はそれらの言葉に罪悪感を覚えていた。
廊下に響く感謝の声に、心が締め付けられる。
彼の本当の目的は、彼らを利用すること。
そんな彼らに感謝されることに、痛みを覚える心もあったのだ。
しかし次第に、僧院は狂気の実験場と化していく。
白壁は血に染まり、清浄な空気は悲鳴で濁っていった。
「おかしいですよ、老師様! もう一度、あの魔法を! 体が……体が火照って……!」
「痛みはないのに、なぜ治療を……? どうして、私は……」
「黙れ! お前には分からんのだ! この悦びが、この高揚が!」
回復中毒に陥った者たちは、もはや正気を失っていた。
痛みもないのに治療を求め、魔法の効果に歓喜の声を上げる。
彼らの目は血走り、唾液を垂らしながら回復を求めて這いつくばる。
ガンダールヴァはその様子を高みから観察する。まるで実験動物を見るかのように。
彼の目には冷たい光が宿り、口元には薄い笑みが浮かんでいた。
(面白い……これほどまでに人を堕落させられるとは。
マーリンよ、お前の魔法がこのように使えるとはな)
彼は間もなく人を見下し、狂った人たちを動物やモノと見なし、なんとも思わなくなる。
その心に、もはや慈悲は残っていなかった。
ただ「力」を得るための実験台として人々を見るようになっていた。
歳月は流れ、彼の実験はさらに過激になっていく。
僧院の地下には、人々の悲鳴が響き渡る迷宮が作られていた。
回復魔法の効果を高めるため、意図的に重傷を負わせる。
鋭い刃で皮膚を裂き、毒で内臓を焼き、骨を砕く。
死に至らない程度の苦痛を与え続け、その反応を観察する。
人々の悲鳴は、彼の耳には心地よい音楽のように聞こえ始めていた。
地下室に響く叫び声が、彼の狂気を癒やすように感じられる。
「くるしい! たすけて! もう、こんな治療はいやだ!」
「ふむ……この程度では足りんな。もっと深い傷を……筋肉に傷を与え肥大化させれば……」
そして、ついには人体実験へと発展する。
不老不死の力を他者に付与できないか、魂の力を引き出せないか。
生きた人間の体を解体し、魂の在処を探る。
多くの命が失われ、多くの魂が破壊された。
実験台から垂れる血が、地下室の床を染め上げていく。
しかし、彼はもはやそれを悪とは感じなかった。
(死のない私こそが、彼らより上位の存在なのだ。
彼らは所詮、蟻のような存在。実験台として使うことに、何の躊躇いがあろうか)
時には、ガンダールヴァ弟子を目指す者たちも現れた。
野心に目を輝かせ、力を求める若者たち。
彼らに教えを授けることもあったが、それも結局は実験の一環でしかなかった。
「老師様、私にも力を……! あなたの高みに近づきたいのです!」
「よかろう。だが、代償は高いぞ。お前の体と魂を、私に捧げられるか?」
力を求める者たちに、彼は歪んだ魔法――または「鬼人化」を伝授する。
その魔法は使えば使うほど、使用者の精神と肉体を蝕んでいく。
血管が浮き出し、皮膚が裂け、理性が崩壊していく。
弟子たちは次々と狂気に陥り、あるいは命を落とす。
肉体が崩れ、魂が砕け散る様を、ガンダールヴァは冷ややかに観察する。
それを見た彼は、やはり薄く笑みを浮かべるだけだった。
(愚かな者どもよ。私の力を求めるなら、それ相応の覚悟が必要であろうが。所詮、定命の者はその程度の器でしかないのだ)
彼の心は完全に歪んでいた。
かつて人々を救おうとした高潔な魔術師の面影はなく、ただ力に執着する狂人と化していた。
地下室の暗がりで、彼の目だけが不気味な光を放っている。
自身の不死を呪いながらも、他者の命は玩具のように扱う。
その矛盾に気付くことすらなくなっていた。
永遠の時は、彼の理性を完全に腐らせていった。
記憶の中で、無数の悲鳴が響き渡る。
苦しみに歪んだ表情、哀願する声、断末魔の叫び。
血潮の匂いが漂い、錆びた金属の匂いが鼻をつく。
それらは全て、ガンダールヴァの「研究」の成果として、虚空に消えていった。
地下室の闇に、無数の魂が吸い込まれていく。
「さらなる力を……。この呪いを解くための、真なる力を……。
ここにいる者たちの魂など、何の価値もないのだから!」
彼の探求に終わりはなかった。むしろ、実験そのものを楽しむようになっていた。
人々の苦悩は、彼にとって心地よい暇つぶしとなっていた。
その笑みは歪み、目は血走り、狂気の色を帯びていく。
永遠の時を持て余した魂は、このように腐り、変貌を遂げていったのだ。
時は彼の心を腐らせ、理性を蝕み、人としての心を完全に失わせていった。
記憶は次第に現代へと近づいていく。そして――
■
記憶が現在へと戻り、私の意識も現実に引き戻される。
まるで深い水から浮上するような感覚。
眼前には、老いた姿で跪くガンダールヴァがいる。
彼の周りには、翠玉の鏡の浄化の光が淡く揺らめいていた。
光は緑がかった銀色で、まるでオーロラのように波打っている。
「私は……そうか……かつては、確かに人間だったのだな」
ガンダールヴァの声が、静かに響く。その声には、もはや狂気の色はない。
代わりに千年の疲労が重く沈んでいた。僧衣は風にそよぎ、その姿はどこか儚げに見える。
「私は死ねないことを恐れていた。その恐れから逃れるために、狂気に身を浸した」
「えっ、あんた……本当は死にたかったの? そんなに、生きるのが辛かったとか?」
シャルの問いに、ガンダールヴァは小さく頷いた。
その髪が、夜明けの光を受けて銀色に輝く。
深いしわの刻まれた顔には、もはや敵意の色はない。
「千年もの時を生きれば、誰もが狂う。私もまた、狂っていった。
そして気づけば、人の命など何とも思わなくなっていた。
永遠の時間に耐えられず、他者の命で自らを慰めようとしたのだ」
彼は両手を広げ、空を仰ぐ。
その仕草には深い後悔の色が見える。夜明け前の風が、彼の僧衣を揺らす。
「そうして多くの命を奪い、魂を壊してきた。その罪は、決して消えはしない」
私は黙ってその言葉を聞いていた。
彼の魂の中で蠢いていた闇が、今、私の魔法によって照らし出されている。
光は彼の周りで渦を巻き、浄化の力が満ちていく。
「ミュウよ。お前は私の魂を見た。私の犯した罪を知った。そして、この呪いを解く力を持っているな……?」
ガンダールヴァが私を見つめる。その目には、もはや殺意も狂気もない。
ただ、深い諦めと、わずかな希望だけが宿っていた。
「私に、死を与えてくれ」
その言葉に、私は逡巡し――小さく頷く。杖を握る手に、決意の力が宿る。
(魂魄浄化魔法)
翠玉の鏡が輝きを増し、浄化の光が彼を包み込む。
その光が、彼の不死の力を少しずつ溶かしていく。空気が震え、魔力が渦を巻く。
まるで氷が溶けるように、千年の重みが彼の体から消えていく。
その魔力も霧散し始める。光の中で、彼の体が次第に透明になっていく。
「リン」
シャルが静かに呼びかける。その声には、いつもの陽気さはない。
リンは一歩前に出て、赤割の剣を構えた。
その刀身が、夜明けの光を受けて深い紅色に染まる。
鞘から抜かれる刀の音が、澄んだ空気を切り裂く。
「ガンダールヴァ。覚悟はいいか」
リンの声は凛としていた。その姿は気高く、まるで正義の化身のよう。
彼女の体からは、もはや復讐心や怒りは感じられない。
ただ、純粋な剣士としての気迫だけが漲っている。
「ああ」
ガンダールヴァは静かに目を閉じる。その表情には、奇妙な安らぎが浮かんでいた。
千年の重みから解放される清々しさすら感じられる。
「私の最期が、お前の手によるというのは、因果なものだ。お前の両親を殺めた報いとして、受け入れよう」
リンは一瞬、体を硬くする。しかし、すぐに気持ちを落ち着かせ、刀を構え直した。
その手に迷いはない。朝日が、彼女の姿を金色に染め上げる。
「――さらば」
リンの声が静かに響く。そして――
一瞬の閃光。刀が空を切り、風が鳴る。
その一閃は、まるで稲妻のように鋭く、美しかった。
ガンダールヴァの首が、ゆっくりと傾ぐ。
その表情には、安らぎの色が浮かんでいた。
血が地面を染める前に、彼の体は光の粒子となって消えていった。
千年の重みを抱えた魂は、ついに解放される。
光は風に乗って、朝焼けの空へと溶けていった。
夜明けの光が、無明の谷を黄金色に染めていく。新たな朝の訪れを告げるように。
谷に咲く花々が、その光を受けて輝きを放つ。
「……これで、終わったね」
シャルの言葉が、静かに響く。私とリンは無言で頷く。
朝の風が、私たちの髪をそっと撫でていく。
全てが終わったのだ。リンの復讐も、大陸の危機も。
「さて」
リンが赤割の剣を鞘に収めながら、私たちに向き直る。
その表情には、晴れやかな色が浮かんでいた。刀を収める音が、清々しく響く。
「改めて、ありがとうございました。お二人がいなければこの世は乱れ、私も復讐を遂げることはできなかったでしょう」
「どういたしまして。って言うのも変だけどね! さて、とりあえず次はどうしよっか?」
シャルが腕を組んで考え込む。その仕草は、いつもの彼女に戻っていた。
「そうだ! どっか温泉にでも行かない? あたし、疲れたー!」
そんなシャルの言葉に、リンが小さく笑う。彼女の表情は、かつてないほど柔らかかった。
「私も、暫くはゆっくりしたいですね。それに……」
リンは空を見上げた。その横顔には、清々しさが浮かんでいる。朝日が彼女の横顔を優しく照らしていた。
「いえ、なんでもありません」
「そうなの? 変なリン!」
シャルの感想に、リンは苦笑する。その笑顔に、私も思わず頬が緩む。
夜明けの光の中、私たちは無明の谷を後にした。
澄んだ空気が、新鮮に感じられる。
旅の終わりと、新たな旅の始まりを感じていた――。
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