第89話 1000年の記憶(前編)
私が放った「心を癒やす魔法」の光が、老僧ガンダールヴァを包み込んだ。
光の粒子が彼の周りを漂い、まるで蛍が舞うように幻想的な光景を作り出す。
青白い光の中、私の意識が彼の記憶の中へと沈み込んでいく。
全身が水に沈むような感覚。意識が遠のき、やがて別の景色が広がり始めた。
心を共有し、過去を理解するための魔法。
今ならきっと、彼の真意を探れるはずだ……。
――視界が開けた時、そこは広大な草原だった。
新緑の匂いが鼻をくすぐり、風に揺れる草の音が耳に届く。
遠くには山々が連なり、空には白い雲が流れていた。
春の終わりを告げる風が、草原を優しく撫でていく。
私の目の前――いや、ガンダールヴァの目の前には、一人の男が立っていた。
白く長い髪をなびかせ、深い青の外套を纏っている。
外套の裾には金糸で複雑な魔法陣が刻まれ、風に揺れるたびに微かな光を放っていた。
(マーリン……!)
私の師匠は、記憶の中でもまったく変わらない姿をしていた。
しかし、その表情は私の知るものとは違っている。
口元には薄い笑みを浮かべながら、その眼差しは氷のように冷たかった。
どこか冷徹で、そして底知れない闇を感じさせる目が、目の前の男を見据えている。
マーリンの周りの空気が歪み、魔力の渦が微かに見えた。
「おや、君はたしか……ガンダールヴァだったかな」
マーリンの声は、まるで蛇が獲物を見るような冷ややかさを帯びていた。
その声に含まれる余裕が、ガンダールヴァの怒りを一層煽っているようだった。
「お前の魔法のせいで、多くの者が廃人となったのだぞ! その責任を取れ!」
若きガンダールヴァの声が荒々しく響く。
彼の体からは強い魔力が溢れ出し、周囲の草が魔力の波動で揺れる。
地面が僅かに震え、空気が重く沈んでいく。
まだ僧衣ではない、黒い外套が風になびく。
その下には東方の術師が好んで着る、緋色の戦装束が覗いていた。
腰には護身用の短剣を備え、全身から気高い威厳が漂っている。
当時の彼は「無双の術師」と呼ばれ、東方一帯で名を馳せた魔術師だったそうだ。
その姿からは気高さすら感じられる。額に刻まれた皺は、数多の戦いを経てきた証だった。
「ああ……あの過剰回復魔法のことかな。アレは副作用のようなものでね。
仕方がないことだ。魔法の研究には常に犠牲が伴うものさ」
マーリンの言葉に、ガンダールヴァの怒りが爆発する。
大地が轟き、魔力の波動が空気を震わせた。
草は根こそぎ吹き飛び、土埃が舞い上がる。
「副作用だと? そんな言い方で片付けられる問題か!」
ガンダールヴァの声が轟く。
その声には、深い憤りと共に、どこか悲しみのような感情も混ざっていた。
「街には回復中毒者が溢れ、回復を求めて狂っている。
彼らは家族を失い、仕事も失い、人としての尊厳さえ失った!
お前は一度でも、彼らの苦しみを見に行ったのか!」
若きガンダールヴァの声には、正義感が滲んでいた。
今の彼からは想像もつかない、真摯な怒りだ。
その目には、民を想う真摯な思いが宿っていた。
その手には細い杖が握られ、杖の先端の棘が不吉な輝きを放っている。
棘の一つ一つが、まるで毒蛇の牙のように鋭く光る。
「見に行くわけがないじゃないか。彼らは私の国民でも何でもないんだよ?」
マーリンの口と目元が、皮肉な笑みに歪む。
その表情に、私は強い違和感を覚えた。こんな表情を、師匠が浮かべるなんて……。
「そもそも言っておいたはずだ。あの魔法は濫用してはならないと。
使用回数も決めていた。なのに君は、それを無視したんだろう?」
マーリンの言葉に、ガンダールヴァの表情が強ばる。
汗が額を伝い落ちる。彼の手が、杖を握る力が強くなっているのがわかった。
その言葉には確かな重みがあった。真実を突かれ、言葉が詰まる。
マーリンの魔法を使いこなせると思い上がっていた自分への後悔が、彼の心を締め付ける。
しかし彼は、すぐに気を取り直したように杖を構える。
魔力が周囲に渦巻き、空気が重く沈んでいく。
「……確かに、私も罪深き存在だ。だからこそ、お前のような者を放置するわけにはいかない!
すべての罪を、ここで清算する!」
ガンダールヴァが杖を振るう。空気が歪み、魔力の波動が渦を巻く。
まるで竜巻のような魔力の柱が立ち上がり、空を覆っていく。
複数の魔法陣が空中に展開され、その光が辺りを不気味に照らす。
陣が重なり合い、さらに強大な力を生み出していく。
しかしマーリンは、ただ静かに目を細めるだけだった。
その姿は、まるで子供の手品を見るような余裕に満ちている。
「おやおや……本気かい? 教えを請うたのは君じゃなかったっけ?」
彼の周りに魔力が集まり始める。
渦を巻く魔力は、まるで生き物のように蠢いていた。地面が軋み、空気が震える。
「まぁいいか。じゃあ教えてあげるとしよう。私がなぜ魔導王と呼ばれているのかを」
その瞬間、視界が閃光に包まれる。まるで太陽が目の前で爆発したかのような光。
轟音と共に魔力が暴れ狂い、大地が裂け、空が割れる。
雷鳴のような音が響き渡り、地面が大きく陥没していく。
(これが……マーリンの本当の力……?)
圧倒的な魔力の前に、ガンダールヴァの術は粉砕されていく。
魔法陣が次々と砕け散り、光の粒子となって消えていく。
彼の誇る防壁も、束ねた魔力の矢も、全てが無に帰していった。
まるでガラスが砕けるように、彼の魔法は跡形もなく消滅する。
マーリンの姿は、まるで魔神のように私には感じられた。
その姿は圧倒的な存在感を放ち、近寄ることすら許されない威圧感に満ちていた。
私の知る優しい師匠の姿はどこにもない……。戦いは、あっという間に決着がついた。
無双の術師と呼ばれた男は、地に伏していた。
その周りには、魔力の余波で焦げた地面が広がっている。
「わかってはいたけど、やる必要もなかったな。それじゃあね、私は忙しいんだ。
霧の谷とかいうところに、不老不死の泉があるらしくてね……」
マーリンはそれだけを残し、背を向ける。
その背中は、どこまでも高く感じられた。まるで届くことのできない壁のように。
しかし去り際、彼は小さくつぶやいた。その声は、風にかき消されそうなほど小さかった。
「……回復か。うーん、一応改良案を考えておこうかな」
その言葉が、倒れたガンダールヴァの耳に届いたのか定かではない。
ただ彼は、地面に顔を伏せたまま、唇を噛みしめていた。
その手は地面を掴み、爪が土に食い込んでいる。
その悔しさと屈辱が、まるで私自身のことのように伝わってくる。
この敗北が、彼の運命を大きく変えることになるのだと、私にはわかっていた。
そして、それは東方の地にとっても、大きな転換点となる出来事だった。
やがてその記憶は、霞のように薄れていく。色彩が失われ、音が遠ざかっていく。
次の記憶が、私の意識を飲み込もうとしていた――闇の中で、新たな光景が形を成し始める。
■
記憶が変わり、そこは深い霧に包まれた渓谷だった。
空気は冷たく、湿り気を含んでいる。
足元からは白い霧が立ち上り、視界を遮っている。
岩肌を伝う水の音が、迷宮のように入り組んだ渓谷に反響していた。
滴る水が作る音が、まるで時を刻む時計のように響く。
マーリンとの戦いから幾日が経ったのだろう。
若きガンダールヴァは、傷だらけの体を引きずりながら歩いていた。血の跡が、岩肌に点々と残されている。
彼の姿は惨めだった。かつての威厳は影を潜め、まるで野犬のように這うようにして進んでいく。
高価な外套は引き裂かれ、泥に塗れている。
その手には、杖の代わりに一本の枝を握っていた。
「はぁ……はぁ……この先に……ヤツの言う不老不死の泉、が……」
彼の声は掠れ、乾いていた。唇は切れ、喉は渇き、体は限界を迎えていた。
息を吐くたびに、血の味が口の中に広がる。それでも、彼は前に進み続けた。
マーリンへの復讐を誓い、力を求めて。そして、民を救うための術を探して。
その執念だけが、彼の体を動かしていた。
その時、霧の向こうから光が漏れ始めた。
青白く、幻想的な輝き。まるで月光を集めたような、神秘的な光だった。
霧を通して見えるそれは、まるで天啓のように美しい。
ガンダールヴァは、這うようにしてその光源へと向かう。
鋭い岩を掴み、血を流しながら、体を引きずって進んでいく。
そこには、小さな泉があった。
岩壁から染み出るように水が湧き、浅い水たまりを作っている。
水面から立ち上る霧が、幻想的な空間を作り出していた。
周囲の岩には、古代の文字が刻まれているようだった。
水面には満月が映り、その姿は歪むことなく、まるで水晶のように美しく輝いていた。
水は透明で、底には白い砂が敷き詰められている。
「これが……不老不死の泉……!」
ガンダールヴァは渇いた喉で笑う。
その笑みには、救いを見出した者の喜びと、狂気が混じっていた。
躊躇うことなく、彼は泉に手を伸ばす。
冷たい水が、彼の喉を潤した。水は甘く、まるで蜜のような味がした。
その瞬間、彼の体が光に包まれる。傷が癒え、疲労が消え、体が若返っていく。
そして、不死の力が彼の体を満たしていった。
古傷も消え、髪は艶を取り戻し、肌は若々しい輝きを放つ。
「は……はははっ! これだ! これさえあれば!」
歓喜に打ち震えながら、ガンダールヴァは立ち上がる。
その姿は見違えるように若々しく、力に満ちていた。
体の中を魔力が渦巻き、これまでにない力を感じる。
――しかし、それは悪夢の始まりでしかなかった。
最初の100年。
彼は自身の不死を誇り、力を蓄えることに没頭した。
新たな魔法を研究し、知識を得て、着実に力をつけていく。
古代の遺跡を探り、禁断の書物を読み漁り、危険な実験を繰り返した。
マーリンへの復讐を誓い、さらなる高みを目指した。
その100年には憂いはなく、ただ高揚と義憤だけがあった。
次の100年。
不死の体を活かし、さらなる実験に身を投じた。
命を厭わず修行を続け、やがて魔法だけでなく武術の力も磨き続ける。
刀剣の技も、格闘術も、彼の知識は留まることを知らなかった。
そして、それから。
記憶の中のガンダールヴァは、窓の外を見つめていた。
季節が移ろい、人々が生まれ、老い、死んでいく。
桜は散り、紅葉は色づき、雪は積もっては消えていく。
彼が癒やした者たちは老人となり、彼が教えた若者たちは死んでいく。
最初は弔いの言葉を述べていたが、やがてそれすらも虚しくなっていった。
「もう何度目だろうな……」
ガンダールヴァは、思いついたように自害を試みる。
首を吊り、毒を飲み、断崖から身を投げる。しかし、その度に体は再生した。
傷は塞がり、毒は無効化され、砕けた骨は元通りとなる。
まるで時が巻き戻るように、彼の体は完璧な状態へと戻っていく。
死の一瞬の解放感さえ、彼には許されなかった。
300年が過ぎ、400年が過ぎ。
彼は次第に人との関わりを避けるようになっていった。
親しくなれば必ず相手は老い、死んでいく。
永遠の時を生きる者には、それが耐え難い苦痛となっていた。
愛する者を見送る度に、心は少しずつ死んでいく。
「師よ、弟子よ、友よ……。皆、死に、消えていく」
窓辺に立ち、月を見上げながら彼は呟く。
その声には深い疲労が滲んでいた。月だけが、彼の永遠の伴侶のように輝いている。
愛した者のため、再び不老不死の泉を探しもした。
山を越え、谷を渡り、命がけで探索を続けた。
だが、それは決して見つからなかった。
運命はガンダールヴァを嘲笑うように、二度と泉には導かなかった。
「くそ! なぜだ! なぜ見つからん!? あの泉はどこに消えたのだ!」
――やがて彼は僧衣を纏い、人々の前から姿を消した。
そうして、「無双の術師」は消え、「老僧」が生まれる。
歳を重ねた姿を装うことで、人々の疑いを避けようとした。
しかし、それでも彼の魂は安らぎを得ることはなかった。
むしろ、永遠の孤独は彼の心をより深く蝕んでいった。
生きることへの厭わしさは増す一方で、しかし死ぬことすらできない。
永遠の牢獄に閉じ込められたように、彼は生き続けることを強いられた。
その苦悩は、やがて「力」への渇望へと変わっていく。
より強大な力があれば、この呪いを解くことができるのではないかと。
それは、やがて「三神器」への執着となっていく。
記憶は次第に薄れ、新たな光景が形作られ始める。
これから先の記憶には、さらに重い闇が待ち受けているようだった――。
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