第88話 三神器の共鳴
巨大な触手が、青白い光を帯びながらうねり襲いかかってくる。
その動きは蛇のようでいて、どこか人の手のようにも見える。
シャルの雷撃がそれを貫くが、雷はその表面を水のように滑り、傷一つ付かない。
半透明な体は、まるで霧のよう。
魂で作られているためか、剣も雷も通じない不定形な存在だった。
「うそでしょ！？ 全然効いてないじゃん！」
シャルの焦りの声が響く中、別の触手が彼女に襲いかかる。私の鼓動が早まる。
咄嗟の回避も、触手の速度が上回っていた。まるで蛇が獲物を捕らえるように。
「なっ！」
シャルの体が宙に巻き上げられる。小さな悲鳴と共に聞こえる骨の軋む音。
私は即座に回復魔法を放つが、怪我の治療以上の効果はない。
触手は執拗に彼女の体を締め付け続けていた。
「ぐうっ……！」
「シャルさん！」
リンが風を切って駆け寄り、刀で触手を両断する。
氷を切り裂くような鋭い音が響く。しかし切断された部分は泡立つように再生し、今度はリンに襲いかかった。
（回復を……！）
私は必死に魔法を放ち続ける。杖が熱を帯び、手のひらが火傷しそうなほど。
視界の端では、次々と魔力の光が瞬いている。
だが、それは焼け石に水だった。
ガンダールヴァの触手は、まるで生きた鞭のように素早く、そして力強い。
「愚かな……神器の力を手にした私に、お前たちの技など通じるものか！」
轟くような声。
それは人間の声ではなく、まるで無数の魂が一斉に叫んでいるよう。その声に、私の体が震える。
「くっ……このっ！」
リンの刀が光のように閃く。
制御された鬼人の力で、幾本もの触手を薙ぎ払う。
白く変化した髪が風を切り、空気が震える。
しかし切断された触手は泡沫のごとく再生し、その数を増やしていく。
うねり、蠢き、まるで意思を持ったように蛇行する触手の群れ。
それはもはや、人の力では抗いがたい存在だった。
「この力こそ、神をも超えるもの。己の無力を思い知れ！」
巨大な触手が、まるで天から降り注ぐ鞭のように振り下ろされる。
その衝撃で大地が揺れ、耳をつんざくような音と共に岩が砕け散る。
砂埃が舞い上がり、喉が痛くなる。
私は杖を強く握りしめ、回復の準備を整える。
しかし、私にできることは余りにも少ない。
ダメージは消せても、絡め取られた仲間を解放する術はない……！
「ぐっ！」
次に、リンの体が触手に絡め取られてしまう。
恐れていたことが現実となった。
制御された鬼人化の力をもってしても、その束縛からは逃れられない。彼女の苦痛の声が、胸を刺す。
シャルもリンも拘束され、私は為す術もなく立ち尽くすしかなかった。冷や汗が背筋を伝う。
（ま、まずい……どうすれば……！）
「これで貴様を守るものはもうないぞ。無力な癒し手の小娘め」
巨大な顔の、大きく開かれた目が私を見つめる。
蛇に睨まれたカエルとはこのことだろうか。
体が凍りつき、足が動かない。心臓が早鐘を打つ。
「くそっ……ミュウちゃん……！」
シャルの悲痛な叫び声。
ゆっくりと、触手の鋭い先端が近付いてくる。まるで死神の鎌のように。
――その時。
ガンダールヴァの胸部に埋め込まれた神器の存在が、私の目に飛び込んできた。
（あれは……）
翠玉の鏡と赤割の剣。その光は助けを求めるかのように明滅している。
神器自体が、ガンダールヴァの力に抗っているように見える。私の目を捉えて離さない。
（……そうか。そもそも、神器それ自体は悪しきものではないんだ。ただ、力を与えているだけ。
だとしたら、もしかして……！）
咄嗟の思いつきだった。私は杖を掲げ、神器に向けて回復魔法を放つ。
（物体回復魔法！）
青白い光が神器を包み込む。
すると突如、金属が軋むような、けたたましい悲鳴が響き渡った。
「なっ……何をする！ 貴様っ！」
ガンダールヴァの体が大きく歪み、うねる。神器が、彼の肉体から分離し始めたのだ。
まるで氷が溶けるように、神器を包んでいた肉塊が崩れ落ちていく。
触手の束が緩み、そこからリンとシャルが地面に転がり落ちた。
「そこだっ！」
リンが一陣の風のように身を翻し、赤割の剣に手を伸ばす。
「させるかッ！」
触手が彼女を捕らえようと襲いかかる。
しかし、シャルの雷撃がそれを阻んだ。空気が焼ける匂いと共に、青白い光が閃く。
「ナイスアシストって感じ？」
シャルの声に、私は小さく頷く。
そうして、神器は解放された。
リンの手に赤割の剣が握られ、その一閃で周囲の肉塊がすべて切り裂かれる。
刃を振るう音が、まるで風のように響く。
「グアアアアァッ――！」
ガンダールヴァの悲鳴が谷を震わせ、触手が暴れ回る。
先ほどまで効いていなかった斬撃も効いている様子だ。これが神器の力なのだろう。
その混乱の中、翠玉の鏡は地面へと落ち――そのまま滑るように、私に向かって飛んできた！
「っ！？」
鏡は私の目の前で、まるで生き物のように浮かび上がる。
その表面には、頼りない私の顔や震える手が映っている。
私は恐る恐る、それを手に取った。冷たく、重い。でも不思議と、温かみも感じる。
（！ まぶしっ――）
すると、翠玉の鏡。リンの赤割の剣。そしてシャルの黄龍の勾玉が、かすかな光を放ち始める。
まるで呼応するように、次第にその輝きを増していく。
三神器が、運命に導かれたように共鳴を始めた――。
三神器の共鳴が、無明の谷を淡い光で満たしていく。
まるでオーロラのような光の帯が、谷の壁を這い上がり、暗闇を押し返していく。
冷たい夜気が、不思議な温かみを帯び始めた。
「神、器、ヲ……返せえエッ！」
ガンダールヴァの叫びが、谷の壁に反響する。
しかしその声は次第に人間離れし、獣のような咆哮へと変貌を遂げていく。
その体からは異様な熱気が放たれ、周囲の空気が歪んで見える。
集められた魂が、まるで沸騰するように暴れ出す。
青白い光の渦となって、触手の束が増殖を始める。
その一本一本が、生き物のように蠢きうねっていく。
「見て！ あいつの体が余計キモくなってくー！ 触手もグニャグニャ増えてるし！」
シャルの声が震える。ガンダールヴァの巨体が、さらに膨れ上がっていく。
肉塊が盛り上がり、崩れ、再生を繰り返す。
人の形を留めていた顔が砕け散り、そこからは無数の牙を持つ巨大な口が露わになる。
まるで深海の底から這い上がってきた化け物のよう。
牙の一本一本が剣ほどもある大きさで、その隙間からは魂となった人々の悲鳴が絶え間なく漏れ続けていた。
触手は鎧のように硬質化し、その先端は禍々しい刃となって、私たちに向けられる。
巨大な体は月を覆い隠すほどの大きさにまで成長し、その影が谷全体を覆い尽くしていく。
「なんと醜き姿……だが、それでも私は……ッ！ 私の願いを……！」
（……願い？）
轟くような声と共に、地面が大きく揺れる。
崖から岩が崩れ落ち、砕け散る音が響く。足元が不安定になり、私は思わずよろめく。
（でも、今なら……なんとかできそうな気がする）
私は翠玉の鏡を強く握り締める。
冷たい感触を通じて、確かな手応えを感じていた。
鏡の中で、かすかな光が渦を巻いている。
「よくわかんないけど……大丈夫！ 神器はこっちにあるんだから！」
シャルの声に、私も小さく頷く。神器から意思が伝わってくる。
それぞれが持つ本来の力を、私たちに示そうとしているような感覚。
「参ります！」
リンが赤割の剣を構える。その刀身が、まるで夕陽のような赤い輝きを放つ。
空気が震え、周囲の温度が一気に上がったように感じる。
シャルが黄龍の勾玉の力を解放すると、まるで龍が吠えるような轟音と共に、彼女の大剣が青白い雷光に包まれる。
そして私の手の中で、翠玉の鏡が深い青の光を放った。
魂を映し、浄化する鏡。その神聖な力が、私の中に流れ込んでくる……。
「はあっ！」
シャルの雷が、巨大な円を描くように放たれる。
その威力は、今までの比ではない。
青白い光が夜を切り裂き、空気を焼く匂いと共に触手を両断。ガンダールヴァの巨体を貫いていく。
その隙を突いて、リンが疾風のように跳躍する。
赤割の剣が、まるで灼熱の陽炎のような軌跡を残して振るわれる。
硬質化した触手も、その一撃の前では紙のように切り裂かれていく。
斬撃の度に、赤い光の波動が広がる。
「グオォォォッ！」
ガンダールヴァが苦痛の咆哮を上げる。
その巨体から、次々と青白い光を放つ魂がこぼれ出す。
解き放たれた魂たちは、まるで光の粒子のように夜空に舞い上がっていく。
「今だよ、ミュウちゃん！」
私は翠玉の鏡を掲げる。杖から魔力を注ぎ込み、魂たちを鏡の中へ。
「――魂魄浄化魔法！」
鏡が青い光を放ち、魂たちを包み込んでいく。
その光は温かく、まるで優しい水流のよう。
魂たちの悲鳴が、次第に安らかな声へと変わっていく。
光の粒子が、静かに天へと昇っていくのが見えた。
「な、何をする……私の、私の力がッ！」
ガンダールヴァの体が、養分を失った植物のように萎んでいく。
しなびていく触手、崩れ落ちる肉塊。魂を失い、その巨体は支えを失っていった。
三神器の力が交差し、最後の一撃となる。
シャルの雷が青白い蛇のように大地を這い、ガンダールヴァの足場を破壊する。
リンの剣が夕陽のように閃き、その巨体を真っ二つに。
そして私の鏡が、残された魂を解放する光を放つ。
「ぐあああああッ！」
轟音と共に、巨体が崩れ落ちる。
砂埃が舞い上がり、一瞬視界が真っ白になる。
耳鳴りがするほどの衝撃が、谷全体を震わせた。
……やがて土埃が風と共に晴れると、そこにはボロボロの着物を纏った老僧の姿があった。
もはや魔力も感じられず、邪悪な魂の気配も消えている。
彼はすっかり力を失い、ただの老人となっていた。しかし、その異様な気配はまだ消えていない。
「よっしゃー！ 勝った……っぽい！？」
「終わった……のですか……？」
リンの小さな問いかけに、私は静かに頷く。
三神器の輝きが、夜明けの光のようにゆっくりと収まっていく。
無明の谷に、東の空から朝日が差し込み始めていた。
光が闇を押し返し、新しい朝の訪れを告げている。
「ぐ、ぬ、う……おの、れ……」
ガンダールヴァは呻きながら、よろよろと起き上がろうとする。
私は、その眼前に杖を突きつけた。水晶から、かすかな光が漏れる。
「貴、様……」
……私は、彼のしたことは許せない。
回復魔法を悪用し、多くの人を踏みつけ、殺し、ただ力を求めた。マーリンへの復讐のために。
（……でも……本当にこの人の目的は、マーリンだけなのかな）
だってマーリンはもういないはずの人物だ。
そのためにわざわざあそこまでやるのだろうか。
私は彼の本心が知りたかった。そのためには……彼の心に触れなければ。
杖を強く握り、魔力を集中させる。水晶が温かみを帯びていく。
「――心を癒やす魔法」
杖の先から、光が放たれる。
それは、夜明けの光のように柔らかく、温かかった。
面白い、続きが気になると思ったら、ぜひブックマーク登録、評価をお願いします！
評価は下部の星マークで行えます！ ☆☆☆☆☆を★★★★★にして応援お願いします。
