第87話 激戦の谷
ガンダールヴァの不敵な笑みに、谷全体が歪むような感覚を覚えた。
空気が重く淀み、呼吸をするたびに生暖かい霧が肺に染み込んでくる。
「さあ、見るがいい。神器の真なる力を!」
老僧が両腕を広げると、祭壇に置かれた翠玉の鏡と赤割の剣が禍々しい光を放つ。
その輝きは次第に強さを増し、まるで太陽を直視するかのような眩さとなった。
緑がかった光が、周囲の空間を歪めていく。
「うっ……まぶしすぎ! 目が開けられないよ!」
シャルの声が虚空に響く。私も思わず腕で顔を覆う。目の奥が痛むような感覚。
突如、谷の地面が大きく揺れ始めた。
足元から伝わる振動に、バランスを崩しそうになる。
岩がぶつかり合う轟音が、まるで雷のように谷中に響き渡った。
目が慣れて視界が開けると、ガンダールヴァの周囲には得体の知れない存在が渦巻いていた。
霧と魂が混ざり合ったような、青白く輝く幻影。
鎧を着た髑髏のようなそれらが、私たちを取り囲むように徐々に広がっていく。
腐敗臭と金属の匂いが混ざったような異臭が鼻をつく。
「くっ……はぁっ!」
シャルが黄龍の勾玉の力を解放する。
彼女の大剣から迸る雷光が、霧を切り裂いて走る。
パチパチという音と共に、空気の焦げる匂いが漂う。
放電は幻影を貫いたように見えたが、霧のように消えては別の場所に再形成される。
まるで水に描いた絵のように、形を変えながら増殖していく。
「くっ、全然効いてないし! これじゃ本体にたどり着けない!」
「それでも……攻撃を続けるしかありません!」
リンも刀を抜き放ち、幻影に斬りかかる。
鋭い刃が空気を切る音が響くが、相手の姿は霧のように揺らめくだけで、実質的なダメージは与えられない。
(これは……幻? でも、その割には魔力を感じる……)
杖を通して感じ取れる波動。
幻影たちからは紛れもない魔力が放たれている。
(これは……人の魂から作り出されてる? このために魂を……?)
集められた魂たちの悲鳴が形となり、幻影として具現化している。
見れば見るほど、その姿は人の形に近づいていく。
苦しみに歪んだ表情が、霧の中でおぼろげに浮かび上がる。
「何をしようが無駄な抵抗だ……」
ガンダールヴァの声が虚ろに響き、赤割の剣が血のような光を放つ。
その瞬間、幻影たちが一斉に攻撃を仕掛けてきた。
霧で出来た幻影たちの腕が炎となって襲いかかる。
シャルとリンは必死に防戦するが、あまりに数が多すぎる。
幻影の群れは、まるで生きた霧のように形を変えながら迫ってくる。
「っ!」
シャルの腕に、幻影の炎が触れ、火傷を負わせる。
私は即座に回復魔法を放つ。杖から放たれた青い光が、彼女の傷を癒やしていく。
(やっぱり実体があるんだ……幻じゃない)
幻影とはいえ、確かな攻撃力を持っている。
治療が必要なほどの傷を負わせるということは、これは純粋な幻ではなく、実体化した魂なのだろう。
「見よ! これこそが神器によって高められた我が力! 魂を支配し、力として具現化する――」
ガンダールヴァの狂気めいた笑い声が響く中、さらに幻影の数が増えていく。
谷の壁を這い、空を舞い、地面から湧き出るように次々と現れる。
その数はもう優に百を超えているだろう。
青白い光の渦が、まるで生き物のように蠢いている。
シャルの雷撃が閃光と共に放たれ、リンの剣が風を切って唸る。
だが、倒しても倒しても新たな幻影が生まれる。まるで果てしない悪夢のように。
「このままでは、キリがありません……!」
リンの声が響く。その時、彼女の様子が変わり始めた。
呼吸が深く、ゆっくりとしたものになる。空気を震わせるような気迫が漂い始める。
姿勢が低くなり、刀の構えが一変した。
そして、彼女の漆黒の髪に、かすかに白いものが混じり始める。
その額には朱色の角状のオーラが浮かび上がる。
(また鬼人化……!?)
私は思わず身構える。これまで何度も目にしてきた、理性を失ったリンの姿が脳裏をよぎる。
しかし、今回は違った。
確かに角は生え、目つきは鋭さを増している。
けれど、その瞳は冷静さを失っていない。
むしろ、これまで以上に明晰な光を宿していた。まるで月光のような、凛とした輝きを放っている。
「もう私は……力に飲まれたりはしない」
リンの声は、低く落ち着いていた。その立ち姿は、まるで剣と一体化したかのよう。
研ぎ澄まされた刀身のように、無駄のない緊張感が漂う。
彼女の周囲の空気が一変する。
鬼気は確かにその身に宿っているが、それは完全に制御され、純粋な力として昇華されているように見える。
着物の裾が、見えない風に揺れる。
「……馬鹿な。制御できるようになったというのか?」
ガンダールヴァが、そんなリンを興味深そうに眺める。
その表情には、わずかな焦りの色が浮かんでいるように見えた。
老僧の指先が、かすかに震えている。
「シャルさん! 霧を晴らしてください!」
「了解! ミュウちゃん、援護頼んだよ!」
シャルの掛け声と共に、彼女の周囲に雷光が渦巻き始める。
大剣が青白い光を放ち、彼女の赤髪が逆立つ。空気が軋むような音が響く。
「せいやぁっ!」
シャルの叫びと共に、雷が全方位に放たれる。
眩い光が闇を切り裂き、霧を押し広げていく。
まるで夜明けのように、谷に光が差し込んでいく。
その光の中を、制御された鬼人の姿で駆けるリン。
彼女の刀が、月のように輝きながら幻影たちを切り裂いていく。
かつての荒々しい剣術は影を潜め、研ぎ澄まされた一刀一刀が幻影を両断していく。
無駄のない動きは、まるで舞のよう。
白く変化した髪が風を切り、刀身が冷たい光を放つ。その姿は美しく、そして凛々しい。
(すごい……力を完全にコントロールできてる)
「もいっちょ!」
シャルの雷撃で霧が薄れ、視界が開けていく。
吸い込まれていた魂たちの一部がリンの刀で解放され、淡く青白い光となって四散していった。
その光は、まるで蛍のように儚く、そして美しい。
しかし、ガンダールヴァは全く動じる様子を見せない。
彼は錫杖を静かに構え直し、リンを見据える。
その目には、獲物を狙う猛禽のような鋭さが宿っている。
「覚悟ッ!」
リンが繰り出した一太刀を、錫杖で受け止める。
金属同士のぶつかり合う音が、耳を劈くように鋭く響き渡った。
衝突の振動で、私の体の中まで震えるのを感じる。
「ほう、なるほど。その刀筋、見事だ」
幾重もの輪が連なる錫杖は、見た目以上の強度を持っている。
私は杖を通して、その武器から放たれる異質な魔力を感じ取る。
ただの杖ではない――魔力を帯びた何らかの武具なのだろう。
「だが、その程度では――」
ガンダールヴァの錫杖が閃く。
まるで毒蛇の牙のように突き出され、リンは咄嗟に身を捻って避ける。
着物の袖が裂ける音が、かすかに聞こえた。
「リン……っ!」
「大丈夫です!」
リンの動きが一段と冴えわたる。
制御された鬼人の姿で、彼女の白く変化した髪が風を切る。
鬼人化の力を纏いながらも、剣術は決して荒々しくない。
ガンダールヴァの錫杖による打撃を水が流れるように受け流しながら、隙を突いて刃を振るう。
「そうりゃっ!」
シャルの放った雷撃が、青白い光を放ちながらガンダールヴァの横を掠める。
空気が裂ける音と共に、老僧は錫杖を回転させ、その衝撃を受け流した。
「ふん……これが黄龍の勾玉の力か。だが――」
翠玉の鏡が妖しい光を放ち、シャルの雷が幻影の壁に阻まれる。
まるで光を飲み込むように、雷が消えていく。
「この鏡があれば、遠距離からの攻撃など通じん!」
「ふーん。でも、あたしのことばっか気にかけてる場合かな?」
その瞬間、リンの剣が風を切ってガンダールヴァの懐に迫っていた。
彼は錫杖で受け止めるが、その腕が大きく揺らぐ。金属がきしむような音が響く。
「チッ」
ガンダールヴァの表情に、初めて焦りの色が浮かぶ。
額に浮かんだ汗が光り、呼吸が乱れ始めている。
その乱れは、私の耳にもはっきりと聞こえた。
シャルの雷撃を警戒しながら、リンの剣を受け止めるのは相当の負担なのだろう。
老僧の動きに、明らかな乱れが生じ始めている。
「いくよ! 必殺! サンダー……スピアーッ!」
シャルが新たな技を繰り出す。
彼女の大剣に纏わせた雷が、まるで生き物のように蛇行しながら飛んでくる。
空気が焼けるような匂いと共に、雷鳴が轟く。
ガンダールヴァは錫杖を振るい、雷を弾く。
だがその僅かな隙を突き、リンの剣が彼の肩を深く捉えた。
「ぐっ!」
初めて、彼から痛みの声が漏れる。
着衣の裂ける音と共に、鮮血が霧に散った。甘く生暖かい血の匂いが、鼻をつく。
ガンダールヴァは咄嗟に後退し、距離を取る。
その表情には明らかな苛立ちが浮かび、老獪な面構えが崩れ始めていた。
「よくも……!」
だが、リンの攻撃は止まらない。
制御された鬼人の力で、距離を取らせず追い詰めていく。まるで白い稲妻のように老僧に絡みつく!
錫杖と刀が激しくぶつかり合い、金属音が谷の壁を打ち、反響する。
青白い火花が散り、私の網膜に残像を残していく。
戦いというより、極限まで研ぎ澄まされた武術の応酬だった。
リンの剣筋は水流のように美しく、ガンダールヴァの錫杖さばきも蛇のように巧妙だ。
しかし、次第に形勢は傾いていく。空気の流れが、はっきりと変化するのを感じた。
(リンの方が、動きが速い……!)
素人の私にも分かる。リンの剣は、一撃一撃が研ぎ澄まされている。
対してガンダールヴァは、僅かずつ疲労の色を見せ始めていた。
彼の呼吸は荒く、足運びにも乱れが生じている。
シャルの雷が閃き、さらに間合いを狭める。
空気が震え、髪の毛が逆立つような感覚が私の体を包む。
「馬鹿な……! こんな小娘共に、この私が押されているとでも……!?」
ガンダールヴァが祭壇に視線を向ける。
その目が、獣じみた狂気の色を帯び始めていた。
瞳孔が開き、血走った目が月明かりに濡れたように光る。
「ならば――!」
彼は錫杖を突き上げ、低く唸るような詠唱を始める。
すると、翠玉の鏡と赤割の剣が強い輝きを放ち始めた。
「魔導王の名のもとに命ずる。神の器よ、我に宿りてその力を振るえ――!」
老僧の声が反響し、谷全体が振動を始める。
足元の地面が揺れ、小石が転がり落ちる音が聞こえる。
「やばっ! なんか来るよ!」
シャルの警告の声が響く。私も、背筋が凍るような魔力の高まりを感じ取っていた。
杖を通して伝わる波動が、まるで氷のように冷たい。
集められた魂たちが、まるで竜巻のように渦を巻き始める。
青白い光の渦は次第に血のような赤さを帯び、その中心でガンダールヴァが、狂ったように笑う。
その笑い声は、あまりにも異質で不気味だった。まるで人とは別の存在のような響きを持っている。
「我が渇望を止めさせはせん……! 私は、必ず……この願いを成就させるのだ!」
禍々しい赤い光が、谷全体を包み込んでいく。
その光に触れると、まるで肌が焼けるような錯覚を覚える。
「ミュウさん! 危険です、下がって!」
「くそっ、なんなのアイツ! 化け物みたいな魔力!」
シャルとリンが後退する中、私は杖を強く握り締める。
これは、想像を絶する何かが始まろうとしているのだと直感的に理解できた。
背中を冷や汗が流れていく。
谷が、生き血のように赤く染まっていく。
赤い光の渦が、ガンダールヴァの体を包み込んでいく。
その姿が歪み、膨れ上がり始める。
布地が裂ける音、骨が軋むような音が不協和音となって響き渡る。
「神器よ……! 我に力を与えよ!」
彼の声が轟く中、その姿は見る見るうちに変貌を遂げていく。
まず、老僧の体が縦に裂け、中から無数の触手が這い出してきた。
それらは不気味に青白く輝いている。まるで光の根のように蠢き、うねる。
次に、その触手の束が絡み合い、巨大な体を形作っていく。
その大きさは、ゆうに家ほど……あるいは、城ほどもあった。
(なんて……不気味な)
完成した怪物は、人の形を全く留めていなかった。
無数の触手の上に、巨大な人面が浮かび上がっている。
しかしそれは人の顔とは似て非なるもので、
目は三つ、口は左右に裂け、その中からは幾重にも牙が生えていた。
翠玉の鏡と赤割の剣は、怪物の胸部に埋め込まれていた。
おぞましい肉塊の中で、神器だけが煌々と光を放っている。
触手の一本一本から魂が漏れ出し、すすり泣くような音を立てている。
その悲鳴は谷全体に響き渡り、私の耳を責め立てる。
「ついに……ついに手に入れたぞ! あとは勾玉さえ手に入れば、この姿も完璧なものとなる……!」
「完璧って? 今でも完璧にキモいんだけど!」
轟くような声。それは人間の声ではなく、まるで無数の魂が一斉に叫んでいるかのようだった。
シャルの軽口も意に介さず、巨大な体が、私たちの前に立ちはだかる。
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