第86話 決戦の時
アズールハーバーの本丸、将軍の執務室。
窓から差し込む朝日に照らされ、床に敷かれた畳が翠色に輝いている。
線香の香りが漂う中、将軍の低い声が響いた。
「ふむ。黄龍の勾玉を手に入れたというのか」
私たち三人は正座して、これまでの経緯を報告していた。
膝が痺れ、足首が悲鳴を上げているぅ……。この正座という姿勢、なかなかきつい。
何度目かの深呼吸をして、姿勢を崩さないよう必死に耐える。
横目で見ると、シャルも珍しく姿勢を正していた。
いつもなら大の字で座りそうなのに、さっきリンに「将軍の前では正座です」と厳しく諭されたせいだろう。
「うん! 勾玉の力で、こんな感じで雷を操れるようになったんだよ!」
シャルが掌を広げ、そこに小さな電光を走らせる。
パチパチという音と共に、焦げたのような生々しい匂いが部屋に満ちた。
静電気で、私の髪の毛がわずかに浮き上がるのを感じる。
「シャ、シャルさん! 屋内ですよ、ここ!」
「あ、やばっ! ごめんごめん!」
リンの慌てた制止に、シャルは慌てて手を閉じる。しかし少し遅かった。
彼女の赤い髪の毛が、モジャモジャと逆立っている。
思わず吹き出しそうになり、急いで口元を押さえた。
意外にも将軍は、寛容な微笑みを浮かべていた。
その表情からは、むしろ安堵の色すら感じられる。
朝日に照らされた横顔に、深いしわが刻まれているのが見えた。
「よい。それだけの力を持ちながら、きちんと我々に報告に来てくれたことを嬉しく思う。
この黄龍の勾玉は、本来我らが管理せねばならなかった宝具。それを正当な形で取り戻せたことは、誇るべきことだ」
将軍の言葉に、リンの背筋がより一層伸びる。
彼女の黒髪が、畳の上でさらさらと繊細な音を奏でた。
「これで黄龍の勾玉は、老僧……ガンダールヴァの手には渡りませんでした」
その言葉に、将軍の表情が一瞬だけ翳る。
窓から差し込む光が、彼の顔に深い陰影を刻んだ。
「ガンダールヴァ、か。奴はすでに翠玉の鏡と赤割の剣を手に入れている。
だが、これで三神器の全てを集めることはできまい――」
その時、唐突に障子が勢いよく開く音が響き渡った。
慌ただしい足音と共に、一人の武士が飛び込んできた。
彼の足音で畳が軋み、緊迫した空気が部屋に満ちる。
「将軍様! 大変です!」
「なんだ。謁見中だぞ」
「申し訳ありません! ですが、これは緊急事態かと!」
武士の声には切迫感が滲んでいる。
私には彼の言葉はわからないが、リンの表情が変化するのを見て、ただ事ではないと悟る。
武士の荒い息遣いが聞こえ、甲冑の継ぎ目が、小刻みに震えている。
「『無明の谷』で、尋常ならざる霧の渦が発生しているとの報告が!
さらに、周辺の村で住民が次々と行方不明になっているとのことです!」
その言葉に、部屋の空気が凍りつく。
将軍が勢いよく立ち上がり、座布団が畳の上を滑る音が響いた。
「無明の谷……!?」
リンが息を呑む。彼女の声には、これまで聞いたことのない動揺が混じっている。
「無明の谷って……?」
シャルの問いに、将軍が重々しく答える。
その声は、これまでにない深刻さを帯びていた。
「この大陸に点在する霧の谷の中でも、最も古く、最も危険な場所――。昼なお暗い濃霧に覆われ、一度迷い込んだ者は二度と戻れないという死地だ」
将軍の言葉が、張り詰めた空気の中に響く。
私の背筋が総毛立つのを感じた。喉が乾き、手のひらに冷や汗が滲む。
「古来より、迷える魂が集まる場所として恐れられてきた。そこで異変が起きているというのか……」
将軍はしばし目を閉じ、沈思黙考する。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、確信めいた光が宿っている。
「間違いなく、これはガンダールヴァの仕業であろう。何らかの儀式の準備に違いない」
リンが音もなく立ち上がる。彼女の手が、無意識に刀の柄に伸びていった。
「では、即刻向かわせていただきます! このままでは、また犠牲者が……!」
「うむ。お前たちならできると信じている。だがくれぐれも無理はするな」
リンが真っ直ぐに将軍を見据え、静かに頭を下げる。
シャルも、久しぶりに真剣な表情を浮かべていた。彼女の掌から、小さな電光が漏れている。
私は杖を強く握り、立ち上がる。痺れていた足がジンジンとしびれるのを感じながら。
こうして私たちは、新たな霧の谷へと向かうことになった――。
■
「無明の谷」は、まさにその名の通りだった。
入り口に立った瞬間から、視界が乳白色の霧に塞がれる。
肌に触れる霧は生暖かく、まるで生き物のような不気味さを感じさせた。
目を凝らしても、数メートル先すら見通せない。
それなのに、どこからともなく視線を感じる。背筋がゾクゾクする……。
谷の入り口は巨大な岩の割れ目で、両側には苔むした崖が聳えている。
その上部は霧に隠れ、どこまで続いているのか見えない。
「うわ……これマジでヤバくない? 昼なのに、まるで深夜みたい。それに寒気がすごい~」
シャルの声が、霧に吸い込まれるように虚ろに響く。
いつもの元気な声が、どこか遠くから聞こえてくるように感じられた。
彼女の鮮やかな赤髪も、霧の向こうではぼんやりとした輪郭にしか見えない。
「気をつけてください。この霧には強い魔力が混ざっています」
リンの警告に、私も静かに頷く。
この霧は、決して自然なものではない。杖を通じて歪な魔力の波動が伝わってくる。
まるで呪いのように、体の芯まで染み込んでくるような感覚だ。
シュルシュルと足元で草が揺れる音。
生温かい風が、じっとりと湿った首筋を這うように通り過ぎる。
鼻をつく腐敗臭に、思わず顔をしかめる。
「うわっ……!?」
そのとき、シャルが突然声を上げた。
彼女の腰に下げられた黄龍の勾玉が、琥珀色の光を放ち始めている。
その光は霧を薄く押し広げ、幻想的な空間を作り出していた。
「なんか反応してるよ! ほら、この方向! 光の筋が伸びてる!」
シャルが霧の中を指差す。勾玉から放たれる光は、確かにその方向へと帯状に伸びていた。
光の中で霧が渦を巻き、まるで道標のように見える。
「他の神器を感知しているのでしょう……。となると、ガンダールヴァは間違いなくこの中に……!」
リンの言葉に、私たちは頷いた。が、その時――
「誰か、いませんか……どうか、助けて……」
かすかな声が、霧の中から漏れ聞こえる。
霧の中に、人影らしきものが揺らめいていた。
その姿は、まるでろうそくの炎のようにゆらゆらと揺れている。
「あっ! 誰かいるよ!」
「待ってください、シャルさん!」
シャルが駆け出そうとするのを、リンが制する。
彼女の声には、普段にない緊迫感が滲んでいた。
「あれは……人ではありません。人の魂です」
「え!? 魂!?」
リンの言葉に、私も目を凝らす。すると――
(本当だ……)
人の形をしているようで、どこか違和感のある影。
全身が薄く発光し、足元は地面に触れていない。
そして、その魂は一つではなかった。
よく見ると無数の魂が、まるで深い川の流れのように、谷の奥へと吸い込まれていく。
その流れは、次第に速さを増していった。
「間違いなくガンダールヴァの仕業です。魂を集めているのです……」
「うぇぇ~……魂なんて見たことなかった。こんな感じなんだね」
(こんな感じではないと思うけど……)
人の魂は、本来目に見えるものではない。
これは何らかの魔術で半ば実体化させられた状態なのだろう。
それにしても、この数の魂を集めて一体何を……。
私の耳に、次第に悲鳴や叫び声が届き始めた。
苦しみにまみれた声、助けを求める声、怒りの声。
その声は徐々に大きくなり、まるで耳の中で渦を巻くように響く。
(苦しそう……でも、魂に回復魔法って効くのかな……)
胸が締め付けられる感覚。私は思わず杖を強く握り締めた。
私たちは魂の流れとシャルの勾玉の導きに従い、さらに谷の奥へと進んでいく。
足元は滑りやすく、苔むした岩や腐った木の根が歩みを妨げる。
時折、足を踏み外しそうになり、冷や汗が背中を伝う。
霧は徐々に濃度を増し、ついには手を伸ばしても指先が見えないほどになった。
息苦しさを感じ、服が湿気を吸って重くなっていく。
霧の中から漂う腐敗臭が、次第に強くなってきた。
その時、シャルの勾玉が突如として強い光を放った。
光は霧を押し分け、幻想的な光柱となって前方を照らし出す。
「光が強くなってる! 他の神器がすっごく近いみたい!」
その言葉と同時に、目の前の霧が激しく渦を巻き始めた。
まるで巨大な竜巻のように、霧が中心に向かって吸い込まれていく。
耳をつんざくような風切り音と共に、視界が開けていく。
「見えた! あそこです!」
霧の向こうに、一つの人影が浮かび上がる。
黒い祭壇のような台の前に佇み、両手を大きく広げている。
その姿は前回よりも一回り大きく、禍々しい魔力を纏っていた。
祭壇の上には、翠玉の鏡と赤割の剣が置かれ、不気味な紅色の光を放っている。
魂たちはその光に吸い込まれるように、次々と祭壇へと流れ込んでいった。
その様は、まるで生贄のようにも見える。
「――ガンダールヴァ!」
リンの声が鋭く響く。笠を被った老僧は、ゆっくりとこちらを振り向いた。
その表情には、余裕に満ちた笑みが浮かんでいる。
瞳の奥には、狂気めいた光が宿っていた。
「よく来たな。私に黄龍の勾玉を献上しに来たか」
「んなワケないでしょーが!」
ガンダールヴァの声は、まるで霧そのもののように虚ろに響いた。
その姿からは前回以上の魔力が感じられ、ただ近くにいるだけで息苦しさを覚える。
「これで全ては揃った。我が野望の完成に立ち会えることを、誇りに思うがよい」
ガンダールヴァの言葉と共に、霧の渦が激しさを増す。
集められた魂たちの叫び声が、谷全体に木霊する。
その悲鳴は次第に大きくなり、まるで嵐のような轟音となっていった。
シャルが大剣を抜き放ち、リンが刀の柄に手をかける。
それぞれの武器が、霧の中でかすかな光を放つ。
私も杖を両手で握り締める。水晶から温かな魔力が伝わってくる。
決戦の時が、始まろうとしていた――。
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