第83話 経年劣化の試練
修行(とその直後の爆睡)を終えた私たちは、朝露に濡れた草を踏みながら蒼龍殿へと向かっていた。
足元から湧き上がる冷たい湿り気が、まだ眠気の残る体を徐々に目覚めさせる。
遠く聳える青い岩山に、朝日が優しく降り注ぐ。
巨大な建造物の輪郭が、朝もやの向こうにぼんやりと浮かび上がっている。
ここまで来ると硫黄の匂いが失われ、空気が澄んでいて、吸い込むたびに肺の中まで洗われるような心地よさがあった。
前を歩くシャルの赤い髪が、風に揺れるたびにキラキラと光を反射する。
時折彼女が振り向くたび、笑顔と共に陽の光が目に飛び込んでくる。ちょっとドキッとする……。
その隣を歩くリンの足音は相変わらず静かだ。
彼女の刀の鞘が、時折カチャリと小さな音を立てる。
その律儀な足運びからは、以前のような緊張感は感じられない。修行の成果だろう。
道中はとても平和だった。
……私たちがこの辺りの魔物を狩り尽くしたからだ。
昨日までの激しい戦いが嘘のように、辺りには小鳥のさえずりだけが響いている。
「あ! あれかな? 蒼龍殿!」
シャルの声が山肌に反響し、エコーとなって返ってきた。
その声に驚いた鳥の群れが、パタパタと羽音を立てて飛び立つ。
彼女の指さす先には、まるで山そのものを削り出したかのような巨大な建造物。
岩肌から生えた苔が、建物の荘厳さを際立たせている。
青みがかった岩で造られた神殿は、大きな龍が天に昇るような形をしていた。
遠目に見ても、その造形の精緻さが伝わってくる。
「ここが、蒼龍殿……」
リンが小さくつぶやく。その声には、畏怖の色が混じっている。
彼女の吐く息が、朝の冷たい空気の中で白く霞む。
山肌から生えた巨木の枝が、神殿の一部を覆い隠している。
その緑と青の色のコントラストが、不思議な神々しさを醸し出していた。
木々の間を吹き抜ける風が、私たちの髪をそよがせる。
私たちが神殿の入り口に近づくと、冷たい風が吹き抜けていった。
その風は山の中腹から吹き降ろしてくるのか、どこか懐かしい土の匂いを運んでくる。
「おー、でーっかい門だねー!」
シャルの声が響く。黒く硬そうな石で作られた門は、優に10メートルはあるだろう。
近づくにつれてその存在感が増し、首を反らさないと上部が見えないほどだ。
その両脇には龍の彫刻が施されており、まるで私たちを見下ろしているかのよう。
龍の目は宝石のようなもので作られているらしく、朝日に照らされてわずかに輝いていた。
風化で表面は荒れているものの、その威厳は失われていなかった。
むしろ、長い年月を経た趣が、神殿の神秘性を高めているようにも見える。
門の前には石碑が立っていた。青みがかった石に、複雑な文様が刻まれている。
私にはさっぱりわからない文字が、びっしりと並んでいた。
近づくと、石から湧き出るような冷気を感じる。
「リン、読める?」
「ええ、少し待ってください」
リンは石碑に近づき、指でなぞりながら文字を追う。石の表面は、見た目以上に滑らかだ。
彼女の呼吸が落ち着き、集中している様子がわかる。
……耳元で虫が飛ぶ音がしたが、リンは一切気にする様子もない。
しばらくして、リンが顔を上げた。
「『龍の道を辿りし者に試練を与えん』……そう書いてあるわ」
「試練!? やっぱそうきたかー。でも、ぶっ通しで修行したあたしたちなら余裕でしょ!」
シャルが意気揚々と叫ぶ。私も同意見だった。
油断はできないが、少なくとも以前の私たちとは違う。
体の芯に、そう告げる確かな手応えがある。
シャルは大きな門に手を当てる。
ギィィ……という重い音を立てながら、扉がゆっくりと開いていく。
埃が舞い、私は思わず目を細める。開いた扉からは、古い石と湿った空気の匂いが漂ってきた。
「さーて、何があるやら……えっ?」
シャルの声が、少し拍子抜けしたように響く。
開いた扉の向こうには、薄暗い通路が伸びていた。
通路の両側には松明を置く台座があるが、すべて朽ち果てている。
残された灰の匂いが、かすかに鼻をくすぐる。
床には厚い埃が積もり、壁には蜘蛛の巣が張り巡らされていた。
私たちの足跡が、まるで誰も踏み入れたことのない床に刻まれていく。
「なんか……すごい放置されてない?」
「ええ……どう見ても、長年人が来ていない様子ですね。それこそ、100年単位で」
リンが通路を見渡しながら言う。確かに、至る所が経年劣化している。
壁から崩れ落ちた石ころが、あちこちに転がっているのが見える。
天井からは小さな光が差し込み、埃が漂う空気を照らしていた。
その光の筋が、まるで天から地へと降り注ぐ滝のようだ。
そんな私たちの足元で、カチャリ、と小さな音がする。
シャルが屈んで何かを拾い上げた。
それは錆びついた金属の歯車のようだ。表面は赤茶けており、古い鉄の匂いがした。
その歯車の側には、おそらく罠だったであろう装置が壊れて転がっていた。
複雑な機械の一部が、長い年月を経てバラバラになっている。
「あはは! これ完全に壊れてるー! 罠とか試練とか、全部ダメになってるんじゃない?」
「……私もそう思います。これだけ年月が経てば、機械仕掛けは劣化して当然ですからね」
「ヒスイドウは、まだギリギリ遺跡まで辿り着きやすかったしね。定期的に動いてて壊れなかったのかな」
私もそう思う。床に仕掛けられた罠らしき装置も、既に錆びついて動かなくなっている。
金属部分は朽ちて、まるで地面から生えた茸のように見える。
本来なら試練が待ち受けていたはずの通路は、今は誰でも通れる状態になっていた。
床を踏むと、厚く積もった埃が舞い上がる。なんか喉に悪そうだなぁ……。
「ちょっと拍子抜けだけど……じゃあ行こっか! 気をつけて歩けば大丈夫そうだよね!」
シャルの声に頷きながら、私たちは蒼龍殿の内部へと足を踏み入れた。
足音が響くたびに、天井から小さな石が落ちてくる。
朽ちかけた松明台の間を通り、奥へと続く通路を進んでいく。
リンの持つ松明の明かりが、私たちの前方をぼんやりと照らしていた。
私たちの足音が、静かに響いていった。
通路を進んでいくと、突如として空間が開けた。
冷たい空気が肌を撫で、耳に響いていた足音が遠くに消えていく。
目の前には広大な円形の空間が広がり、その壁面には無数の青い結晶が埋め込まれている。
結晶は拳大ほどの大きさで、一つ一つが不規則な形をしていた。
結晶から漏れ出る淡い光が、まるで海中にいるかのような幻想的な空間を作り出していた。
その光は呼吸するように明滅し、私たちの影を床に揺らめかせる。
「わぁ……きれい……」
シャルの声が、部屋中に響き渡る。その声に反応するように、結晶の輝きが少し強くなったような気がした。
音に反応して光が変化する様子は、まるで結晶そのものが生きているかのようだ。
天井を見上げると、そこにも結晶が散りばめられており、まるで星空のよう。
ここだけ、廃墟という印象は薄い。むしろ、まるで時が止まったかのような神秘的な雰囲気が漂っている。
「機械仕掛けの部屋……でしょうか」
リンが何かに気付いたように、部屋の中央に目を向ける。
そこには大きな台座があり、複雑な歯車や機械の一部が露出していた。
表面には細かな文様が刻まれ、かつての技術の粋を感じさせる。
シャルが台座に近づき、興味深そうに観察している。
その動作に合わせて、私たちの影が青く照らされた床に揺れる。
床には大理石のような模様が描かれており、結晶の光を反射して淡く輝いていた。
「これ、なんか面白そうな機械だけど……」
シャルが手を伸ばすと、カチャリ、と小さな音を立てて何かが動いた。
が、すぐに止まってしまう。歯車と歯車が擦れ合う音が、どこか切なく響く。
「完全に壊れてるねぇ。でも、この部屋の形からして、きっと何かすごい仕掛けがあるはず!」
私は台座に近づき、機械を観察する。確かに複雑な装置だ。
表面に触れると、年月を感じさせる冷たさが指先に伝わってくる。
しかし歯車は錆び付き、あちこちにヒビが入っている。
動力源らしき部分も、完全に朽ちていた。金属特有の古びた匂いが、鼻をつく。
この状態では……。
私は杖を握り、魔力を込める。
杖が温かみを帯び、先端の水晶が青く輝き始める。
その光が壁の結晶と共鳴するように、部屋全体が鼓動を打つような明滅を始めた。
「え? ミュウちゃん? あっドヤ顔してる!」
シャルが不思議そうな顔をする。
私は微笑み返しながら、機械に向かって杖を向けた。ドヤ顔はしてないよ。たぶん。
(中回復魔法)
青白い光が機械全体を包み込む。
錆びた歯車が輝きを取り戻し、ヒビの入った部分が元通りになっていく。
修復の過程で、金属が生まれ変わるような清らかな音色が響いた。
「おお!?」
シャルの驚きの声が響く。光が消えると、機械は見違えるように綺麗になっていた。
金属の表面が鈍く光り、歯車も滑らかな動きを見せている。
触れてみると、さっきまでの冷たさは消え、どこか生きているような温もりを感じる。
「凄い……生命力のない物にも、回復魔法が効くんですね」
「そうだよ! 装備も装置も治せるからね、ミュウちゃんは!」
(ドヤ顔してる……)
私の代わりにドヤ顔をしているシャルを見やりながら、私は滑らかに動く滑車を見ていた。
金属と金属が触れ合う音が、心地よい調べのように響く。
「よーし! じゃあ早速動かしてみよう!」
シャルが台座に手を置くと、今度は機械全体が滑らかに動き出した。
歯車が次々と噛み合い、まるで生き物のように蠢く様子は圧巻だ。
歯車が回転する心地よい音が響き、床に埋め込まれた何本もの溝が青く輝き始める。
その光は脈打つように明滅しながら、部屋の外へと伸びていく。
「あっ! 床が……!」
床全体が動き出し、壁の一部が大きく開いていく。新しい通路だ。
結晶の光が、その道筋を示すように輝いている。
開いた通路からは、新鮮な空気が流れ込んでくる。
「なるほど……これ、迷宮の構造を変える装置なんだ!」
シャルが興奮気味に声を上げる。
彼女の声に呼応するように、結晶の輝きが強くなった。
音と光が呼応し、まるで部屋全体が息づいているかのよう。
見上げると天井の結晶が、まるで道標のように輝きの強さを変化させている。
そこにも何かの仕掛けがありそうだ。
「この迷宮、もしかして進むたびに形を変えていく……?」
「なるほど。これが蒼龍殿の仕掛けというわけですね」
私は杖を握りしめる。温かな感触が手のひらに伝わってくる。
この迷宮を進むには、壊れた機械を次々と修復していく必要がありそうだ。
それは私にしかできない。シャルとリンは、そんな私に向かってうなずいた。
空気が期待で震えているような感覚すら覚える。
「じゃあ、行ってみよう! ミュウちゃん、修理よろしくね!」
シャルの明るい声に、私も頷く。
壁の結晶が私たちの行く手を照らし、その光は深い青から明るい空色へと変化していく。
私たちは結晶の光に導かれるように、次々と現れる機械を修復しながら進んでいった。
歯車を回復するたび、遺跡の新たな通路が開かれていく。
まるで迷宮そのものが、私たちの前に道を示しているかのようだった。
金属の軋む音と、石の動く重厚な音が交互に響き渡る。
壁に埋め込まれた結晶の輝きが、徐々に強くなっていく。
その青い光は、まるで海の底から太陽を見上げているような錯覚を起こさせる。
結晶から発せられる光が作る影が、私たちの足元で波打つように揺れていた。
「うまく行ってるみたいだねー! ミュウちゃんの修理のおかげだよ!」
シャルの声が通路に響く。彼女の声に応えるように、天井の結晶が明滅する。
リンは無言で前を歩きながら、時折立ち止まっては壁に刻まれた模様を確認していた。
彼女の指先が、石の表面を優しく撫でる。
「どうやら、中央に近づいているようですね。壁の文様が複雑になってきました」
彼女の言う通り、壁の装飾は次第に精緻になっていく。
龍をモチーフにした彫刻が、まるで私たちを見守るように並んでいた。
さらに奥へと進むと、巨大な扉が私たちの前に現れた。
扉の表面には、青い鱗のような模様が刻まれている。
近づくと、冷たい空気が肌を撫でる。まるで扉の向こうから、大きな生き物の息遣いが聞こえてくるかのようだ。
「ここが中央広間……かな?」
シャルが扉に手を触れた瞬間、結晶の光が一斉に強まる。
まるで稲妻が走ったかのような青白い光が、扉から部屋中を駆け巡った。
その閃光に思わず目を細める。
扉がゆっくりと開いていく。
重たい軋みとともに、その向こうの光景が少しずつ明らかになっていく。
古い石の匂いと、金属の錆びた匂いが混ざり合って鼻をつく。
「うわぁ……!」
巨大な円形の広間が、私たちの目の前に広がっていた。
天井は遥か上方まで続き、そこに埋め込まれた結晶が星空のように輝いている。
その光は波打つように明滅し、幻想的な空間を作り出していた。
床には複雑な魔法陣のような模様が描かれ、それが掠れて消えていた。
足元に残された模様からは、かすかに魔力の残滓が感じられる。
広間の中央には、巨大な台座が鎮座している。そして、その上には――。
「なっ……!? なにこれー!?」
そこにあるのは……巨大な機械仕掛けのドラゴン、だった。
全長は優に20メートルはあるだろう。
金属製の鱗が幾重にも重なり、翼は薄く研ぎ澄まされた刃のよう。
頭部には赤く輝く宝石が埋め込まれ、その目からはかすかな魔力の気配が漏れている。
しかし、その姿はどこか哀しげだった。
長い年月の中で錆び付き、あちこちの関節は動かなくなっている。
翼は半ば崩れ落ち、尾の先端は完全に朽ちていた。
金属の表面は錆びで覆われ、かつての輝きを失っていた。
かつては壮麗だったであろうドラゴンは、今や朽ち果てた機械の残骸と化していた。
それでも、その威厳だけは失われていない。……動かないんだけどね。
「これは……試練の番人、とかでしょうか?」
リンの声が、広間に静かに響く。
その声が天井まで届くと、結晶の光が微かに揺らめいた。
ドラゴンは私たちを見下ろしたまま、微動だにしなかった。
ただ、その赤い目だけが、かすかな光を宿していた。
その光は、私たちに何かを訴えかけているかのようだった……。
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