第82話 24時間戦えますか?
夜が明け、朝日が黒い岩場を赤く染め始めた頃。
私は二人に昨夜の修行の成果を見せることにした。
冷たい朝霧が足元を這い、硫黄の匂いを含んだ風が頬を撫でる。
洞窟に戻ると、二人はそれぞれ体を起こしていた。
岩の上に置いた寝袋から立ち上がり、シャルが大きく伸びをする。
その動きに合わせて、鎧がかすかに軋む音が響く。
「あれ、ミュウちゃんなんか元気そうだね! ぐっすり眠れた?」
シャルの明るい声が、朝もやを切り裂く。
私は首を横に振る。喉には乾きを感じ、目の奥が重い。しかし、疲労感はない。
彼女の視線が私の杖に向かう。杖から漏れる微かな青い光を見て、シャルは何かを察したようだ。
その光は朝靄の中で、より幻想的に揺らめいていた。
「もしかして、魔法の練習でもしてたの?」
「……うん」
小さく頷き、私は実践してみせることにした。冷えた手のひらに、杖の感触が伝わる。
(精神回復魔法)
杖が柔らかな光を放つ。
私はその光の強さを慎重に制御し、まるで糸を紡ぐように細く引き延ばしながら、シャルに向けて放った。
彼女の体が青白く輝き、その光が朝靄と混ざり合う。
「うわっ、なんか眠気が取れた! でも……ちょっといつもと違う感じ?」
私の回復を受け慣れたシャルは普段より光が弱いことに気づいたのだろう。
リンも興味深そうにこちらを見ている。彼女の黒い瞳に、朝日が映り込んでいた。
「え、えっとね。次は……」
私は同じ魔法を、さらに弱い魔力で自分にかけてみせる。
杖の水晶が、より繊細な輝きを放つ。すると、シャルの表情が変化した。
「あれ!? ミュウちゃんの魔力、今ちょっと増えなかった?」
さすが、戦闘の中で私の状態をよく見ているだけある。
その観察眼の確かさに少し驚き、私は小さく頷いた。
「えっ!? そ、そんなことが……!?」
リンが驚きの声を上げる。彼女の着物の袖が朝風に揺れる。
「あ、あの……魔力の、流れを……制御して……」
どもりながら、なんとか説明しようとする。
喉が詰まりそうになるのを必死で耐えながら、空中でろくろを回すような手振りを交えて。
「使う量を、減らして……回復、の方が、上回るように……」
言葉を絞り出すたびにMPが大量に減っていく感覚。
でも今は、すぐに回復魔法で補充できる。杖が温かみを帯び、失われた魔力が静かに戻っていく。結果的にはプラスマイナスゼロ、くらいだ。
……でもやっぱり会話は苦手だ。手のひらに冷や汗を感じる。そこは変わりそうにない。
「つまり、実質的にMP切れがなくなったってこと?」
シャルが要約してくれて助かった。私は迷わず頷く。
「すごい……! それならもしかして、あたしたちの分も……!?」
「凄まじい成果ですね。一晩でそこまで……」
リンの感心したような声。
しかし、私の頭の中では、もう一つの可能性が渦巻いていた。
それは期待と不安が混ざり合った、得体の知れない予感。
(MPだけじゃない。もしかしたら、もっとすごい……というか、ヤバイことができるかもしれないんだよね)
昨夜の実験で、精神回復魔法には単なるMP回復以上の効果があることに気がついていた。
疲労や睡眠。そういったMPの回復を妨げる要素もまた、ついでに治るのだ。
他の回復魔法を組み合わせれば、より完璧に睡眠欲、食欲も満たせる。
(睡眠欲って……寝ずに満たしていいものなのかな。絶対、なんか危険な気がする……)
体に何か悪影響が出るんじゃないだろうか。心の中で、不安が渦を巻く。
そもそも人間は眠らないといけない生き物なはず。
それを魔法で無理やり覆すなんてできるのだろうか……? 杖を握る手に力が入る。
(水や食べ物だって、理論的には回復魔法でなんとかできちゃう。けど、それって……怖いよね……)
でも、だからこそ強力だ。人間にとって睡眠や食事は大きな弱点でもある。
それらを無視して戦い続けることができれば、その人は間違いなく無敵だ。
遠くで滝の音が轟き、その音が私の決意を後押しするかのように響く。
(修行の時だけなら、試してみる価値はある、かも)
私は深く息を吸い込む。朝の冷たい空気が肺に染みわたり、より一層目が覚める。
遠くでは滝の音が響き、足元の砂利がかすかに音を立てる。
硫黄の匂いが、この場所の非日常性を際立たせる。
「あ、あの……もう一つ」
私の声に、二人が顔を上げる。風が吹き、シャルの赤い髪とリンの着物が舞う。
緊張で、杖を握る手から冷や汗が流れる。
「他の魔法を組み合わせれば……眠気とか、疲れも……完全に、取れるかも」
その言葉に、二人の表情が凍りつく。
朝もやの中で、時間が止まったかのような静けさが訪れる。
「ちょ、ちょっと待って! それってどういうこと!?」
シャルの声が響く。彼女の目は驚きで見開かれ、戸惑いの声色が強かった。
朝露に濡れた岩の上で、彼女の声が木霊する。首筋に流れる汗が冷たい……。
「つまり……24時間、寝ないでずっと戦える……かも」
私の言葉に、一瞬の静寂が訪れる。
遠くで鳥が鳴く声だけが、この場の重さを際立たせる。
「それは危険すぎます」
リンがきっぱりと言い切った。彼女の声には珍しく強い否定の色が混じっている。
「人間の体には、休息が必要です。睡眠を取らないことで、様々な障害が……」
「そうだよ! ミュウちゃん、体壊しちゃうんじゃない?」
シャルも心配そうな表情を浮かべる。
朝日を浴びた彼女の眉間に、深いしわが刻まれている。
彼女のそんな表情を初めて見た気がして、胸が締め付けられる。
(やっぱり……普通じゃないよね)
私も内心では怖かった。喉が乾き、手のひらが震える。
人間の体に、そんな無理を通していいはずがない。副作用だってきっと――。
「ですが……」
リンが言葉を継ぐ。彼女の目が、遠くの山に向けられる。
朝日を浴びた岩山の向こうに、薄い靄を通して山影が見えていた。
「ここは修練の場。古の戦士たちが、己の限界に挑んだ場所」
リンの言葉に、風が止む。彼女の黒髪が静かに揺れを止める。
「しかも、ミュウさんの回復魔法は、私が見てきた中で最高の技術です」
リンはそう言って、私の方に向き直る。その瞳には、なにか確かな光が宿っていた。
「修行の一環として、一度だけ試してみる価値は……あるかもしれません」
「リン、本気ー!? いくらなんでも……」
シャルが驚いて声を上げる。しかし、リンは静かに続ける。
「このままの実力では、あの老僧には勝てない。それは、シャルさんにもわかっているはずです」
「うぐ……」
その言葉に、シャルは言葉を詰まらせた。確かに、前回の戦いは圧倒的な敗北。
今のままでは、勝ち目はない。その事実が、朝の空気を重くする。
「もちろん、ミュウさんの魔法を過信するつもりはありません」
リンは私の方を見る。その目には、確かな信頼と、同時に慎重さが混ざっていた。
「効果と副作用を、細かく観察しながら。少しでも異常があれば、即座に中止する。そういう条件付きであれば……」
(リン……)
彼女の言葉に、胸が熱くなる。私の魔法を信じてくれているんだ。
「うーん……」
シャルが唸りながら、地面に腰を下ろす。
砂利がカラカラと音を立て、朝露が彼女の鎧を濡らす。
「確かに、このままじゃあの爺さんには勝てないよね。でも……」
彼女は私の方を見上げる。その目には、深い心配の色が浮かんでいる。
それはどちらかというとシャル自身よりも、私に向けられているものなのだと気付く。その優しさに、喉が詰まる。
「ミュウちゃんは、ホントに大丈夫? たぶん、副作用とか出たらあたしたちよりミュウちゃんが一番影響を受けちゃうよ?」
私は小さく息を吐く。正直、とても怖い。
人間の体の限界に挑戦するなんて、考えただけでも震える。でも――。
「だ、大丈夫。様子を、見ながら……」
必死に言葉を紡ぐ。喉が痛いけれど、今は伝えないといけない。
「少しでも、ヘン、だったら……やめるから」
シャルはしばらく黙っていたが、やがて大きくため息をついた。
「もう! しょうがないなぁ。あたしも付き合うよ」
「シャル……!」
「でも! ちょっとでもおかしかったら即中止だからね?」
彼女は立ち上がると、私の頭を優しく撫でる。
その仕草には、いつもの強さは無かった。
温かな手のひらが、私の不安を少しずつ溶かしていく。
「約束だよ? 無茶しないでね」
「……うん」
私は小さく頷く。周囲の空気が、少しずつ変わっていく。
決意と、不安と、そして期待が入り混じったような空気。
朝露の香りが、次第に硫黄の匂いに変わっていく。
朝日がより高く昇り、私たちの影を地面に長く伸ばし始めていた。
■
――それから、私たちの限界を越えた修行が始まった!
1日目。12時間ほど戦っては別の魔物を探すのを繰り返す。
硫黄の匂いにもだいぶ慣れた中、地面からの生暖かい蒸気が私たちの体を包み込む。
「ねむっ……あ、眠気が消えた!」
夕暮れ時、シャルが大きな欠伸をした瞬間に放った回復魔法。
青白い光が彼女を包み込み、その目が驚くほど覚醒する。
瞳孔が開き、まるで別人のように活力に満ちた表情へと変わる。
「すごっ、全然眠くないんだけど! これちょっとヤバくない!?」
「……」
私も内心ビクビクしていた。人間の体に良くないことをしている気がして仕方がない。
でも、副作用らしい副作用は今のところ出ていなかった。
「ふんっ! せやぁっ!」
リンの刀が閃く。
鋼の輝きが、夕陽に照らされて鮮やかな光を放つ。彼女の動きはむしろ冴え始めていた。
彼女の中で、鬼人化に頼らない戦い方が少しずつ板についてきている。
汗の滴が、刀の軌道を追うように空を描く。
「はぁ、お腹減った~。そろそろ動物とか狩らないとね」
「あ、回復……」
「うわっ、お腹減らなくなった! でもなんか怖い!」
シャルが青ざめつつ叫ぶ。彼女の声が岩肌に反響する。わかるよ。私も怖い……。
2日目。30時間ほど経過した頃。陽が高く昇り、岩場に影が落ちなくなってきた。
「そういえば、筋肉痛とかない気がする」
「あ……それも、その……」
「それも治してるの!? 怖いって!」
とはいえ、ちゃんと筋肉が成長するような形で治している。
つまりこの修行中についた筋力などはそのまま反映されているはずだ。
シャルの腕の筋肉が、以前より引き締まってきているのが見て取れる。
3日目。57時間ほど経過。空気が重く、昼なお暗い。
シャルの剣がより正確になり、リンの動きが更に洗練されていく。
寝不足どころか、上達が止まらない。二人の動きが作り出す風が、私の髪を揺らす。
「あたし、今までこんなに剣の練習したことなかったかも」
「ですね。普通なら疲れて手が動かなくなってるところ……」
「もう人間の領域を超えてないこれ?」
シャルの剣筋が大きく変化し、リンの足さばきはより軽やかになっていた。
彼女たちの動きが砂埃を巻き上げ、それが風に舞う。
私も黙々と回復し続けながら、二人の様子を観察する。杖から放たれる光が、次第に二人の動きと同調していく。
正直、ここまで順調すぎて不安になってくる。でも、確実に三人とも強くなっているのを感じた。
4日目。103時間ほど経過……。
夜が明けようとする頃、シャルとリンの息はピッタリと合っていた。どんな魔物が来てもすぐに対処できるようになっている。
私の回復のタイミングも、二人の動きに完璧に同調している。
朝露が彼女たちの武器を濡らし、その一滴一滴が光の粒となって空中に舞う。
「よーし、あとちょっと!」
「シャルさん、次はあっちの魔物を!」
「了解! ミュウちゃん、回復頼んだ!」
「……!」
最初に会ったときはあんなに苦戦していたエラ付きのトカゲ。
今や二人は、まるで舞うように容易くそれらを倒していく。
剣や鎧の破損も回復魔法で直しているので、武器の切れ味が落ちることもない。
二人の刃が輝きを増していくような不思議な光景だ。
……そうして気付けば、大量にいたはずの辺り一帯の魔物は、全部仕留めてしまったようだ。
もはや待っても探しても、魔物が見当たらない。辺りには静寂だけが漂う。
「あれ……もしかして、終わり?」
「……ですね。魔物とはいえ、やりすぎてしまったでしょうか……」
「ふぅ……でもなんか、すごい充実感!」
シャルが剣を振り、鞘に収める。その音が、達成感を物語るように澄んで響く。
この修行で、三人ともかなりの力を身に着けた……と言って間違いないだろう。
「す、すごい……我ながらかなりの進歩を感じます」
「いやぁ、ミュウちゃんの魔法すごいね。全然副作用とか出なかったし」
「本当です。私も不安でしたが……これほど完璧な回復魔法は見たことがありません」
二人の言葉に、少し照れくさくなる。杖が温かみを帯びる。
私たちはもう一度あたりの気配を探り、魔物がないことを確認した。
それから、大胆に広場でキャンプを開始する。
朝露が光る草地に、疲れを知らない体を横たえる。
「はい、これにて修行はいったん終了! もうしばらくは絶対やらないからね!」
「同感です。いくら副作用が出なかったとはいえ、やりすぎは禁物かと」
「……うん」
三人で固く誓い合う。
人間の限界に挑戦するのはいいけれど、それを日常的に破るのは違う気がする。
……それに、こんな不安な思いをするくらいなら、普通に寝たほうがいい。
体は元気でも、心が疲れていた。……もしかしたら、これも治せるのかもしれないけど……。
「よーし、じゃあ12時間くらい爆睡しよ!」
「シャルさん、まだ蒼龍殿まで辿り着いてはいないんですよ」
「いいや寝る! 眠くないけど絶対寝る! お腹も減ってないけどなんか食べる!」
シャルの断固たる宣言。彼女はトカゲの魔物を手際よく捌き、焚き火で焼き始めた。
肉が焼ける香ばしい匂いが、人間らしい時間の流れを取り戻してくれるような気がした……。
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