第80話 目覚めと出立
……私は寝ているような起きているような、その中間の感覚に包まれていた。
目を開けようとしても、まぶたが鉛のように重い。
耳だけがかすかに働いていて、遠くの海から届く波音のように、時折話し声が漂ってくる。
「……そろそろ目覚めても……」
「……焦らないで。ミュウちゃんは……」
シャルの声。いつもの賑やかさはなく、心配そうに囁くような声色だ。
その隣で、もう一人の声。リンの落ち着いた声音が聞こえる。
私は意識を取り戻そうと、全身に力を込める。
すると、まるで砂袋を全身に乗せられているような重さを感じた。指先がかすかに震える。
少しずつ、周囲の様子が感じ取れるようになってくる。
甘く苦い生薬の香りが鼻をくすぐり、どこからか鈴の澄んだ音色が聞こえてくる。
差し込む陽の光は、閉じたまぶたを優しく照らしている。
肌に触れる布は清潔な麻の香りがした。
「あっ! 瞼が動いた!」
シャルの声が、急に大きくなる。
耳元で彼女の息遣いを感じる。温かい吐息が頬をなで、髪が揺れる気配がする。
「シャルさん、声が大きすぎます……」
「あ、ごめんごめん……! でも、ほら見て! 指も動いたよ!」
シャルの興奮気味な声と、それを諭すようなリンの落ち着いた声。
……なんか気まずいその掛け合いを聞きながら、私はゆっくりと目を開ける。
視界がぼんやりとしている。
天井に張られた白い和紙を通して、柔らかな光が揺らめいていた。
古い梁の影が、まるで水面のように揺れて見える。
「ミュウちゃん! 目、覚ましたんだね!」
シャルの姿がゆっくりと焦点を結ぶ。
彼女の赤い髪が、揺れる光の中で燃えるように輝いている。
その向こうには、黒い着物姿のリンの静かな佇まい。
私が目を開けたことを確認すると、シャルは抑えきれないように私に抱きついてきた。
彼女の体温が、私の冷えた体を暖める。でも苦しい!
「ぐうっ……」
「うぅ……ミュウちゃん! もう心配で心配で! 三日も目を覚まさなかったんだから!」
(み、三日も……?)
シャルの体から、微かな汗の匂いと、彼女特有の温かな香りがする。
柔らかな髪が頬をくすぐり、大きな胸に押しつぶされそうになって、私は弱々しくもがく。
それと、背中に鈍い痛みを感じる。
そこを刀で怪我したという記憶が、少しずつ鮮明になってくる。
「シャ、シャルさん! 傷が開いてしまいます!」
リンが心配そうに制止すると、シャルは慌てて体を起こした。彼女の頬には涙が光っている。
「リン、見てよ! ちゃんと起きたんだよ~!」
「は、はい。本当に、よかったです……」
リンの表情には、確かな安堵の色が浮かんでいる。
しかし、その奥には暗い影が潜んでいた。着物の袖が、かすかに震えているのが目に入る。
私は起き上がろうとするが、体が思うように動かない。
シャルが素早く私の背中を支えてくれる。その手の温もりが、心地よい。
「待って! まだ動いちゃだめだよ。もうちょっと休んでからにしよう?」
私は優しく仰向けに戻され、ゆっくりと周囲を見回す。
広すぎず狭すぎない医務室。床には青々とした新しい畳が敷かれ、隅には重厚な欅の箪笥。
壁には朱色の護符が何枚も貼られている。
枕元には、水の入った青磁の椀と、血の跡が染みついた使用済みの包帯があった。
「ずっとあたしとリンで交代で看病してたんだよ。でも、リンったらここ最近全然休んでなくて」
シャルの言葉に、リンの表情が更に暗く曇る。
彼女は私から目を逸らし、畳の目を見つめたまま動かない。
「……申し訳ありません。私のせいで、ミュウさんは……」
「もう、そんな暗い顔やめなよ! だって、ミュウちゃんだってリンを助けたくて頑張ったんでしょ?」
シャルの声には、リンを励ます明るさが込められている。私もできるだけ明るくうなずいた。
(リンは、ずっと自分を責めていたんだ……)
それも無理はない。彼女は鬼人化によって暴走し、仇である老僧も取り逃がした。
その上、私がこんな状態になってしまったのだから……。
話をしようとして、喉の渇きに気づく。
砂を飲み込んだような感覚に、思わず咳き込む。
シャルが素早く青磁の椀を差し出してくれた。水面が、かすかに揺れている。
「はい、ミュウちゃん。まずは水を飲もうね」
「……あ、ありがとう……」
シャルに言われるまま水を飲むと、少しずつ体の感覚が鮮明になってくる。
喉を潤す冷たい水とともに、記憶も徐々に戻ってくる。
老僧との戦い、リンの暴走、そして私が放った限界を超えた精神回復魔法。
それらの記憶が、まるで水面に映る影絵のように、頭の中を巡り始めた。
「ミュウちゃん、あのジジイのこととか、将軍のことも気になるよね?」
シャルの問いかけに、私は小さく頷く。
確かに、あの戦いの後、何が起きたのだろう。そして、将軍はどうなったのだろう……。
(……でもまずは……この傷を治さないと)
私は静かに、枕元に立てかけられた杖に手を伸ばす。
先端の水晶が朝日を受けて淡く輝いていた。私の急な動きに、シャルとリンが息を呑む気配を感じる。
(小回復魔法)
杖から温かな魔力が手のひらに伝わる。
柔らかな光が私の体を包み込み、背中の傷が癒えていく。
まるで春の日差しを全身で浴びているような心地よい暖かさ。
傷が塞がっていく感覚に、緊張していた体が徐々に和らいでいく。
「あっ、そっか! ミュウちゃんなら自分の傷も治せるんだ! やっぱりすごいねぇ」
シャルが声を上げ、私の頭をぐしぐしと撫でてくる。
彼女の手から伝わる温もりに、思わず目を細める。
魔法の光が消えると、体の痛みも完全に消え去っていた。
ゆっくりと体を起こすと、畳の清々しい香りが鼻をくすぐる。
「良かった……でも、まだ無理は禁物ですよ」
リンが心配そうに寄り添ってくる。彼女の足音は静かで、その表情にはまだ暗い影が残っている。
「しかし……驚きました。あれほどの傷を一瞬で……それも、自分に対してすら発動できるなんて」
「ね! ミュウちゃんはホントすごいの! リンも驚いたでしょ?」
シャルの明るい声が部屋中に響く。リンは小さく頷くものの、その表情はすぐに曇った。着物の袖が、かすかに震えている。
「でも、私のせいで……」
「……リン」
私は静かに、意志を込めた声で彼女の名を呼んだ。
普段の私からは想像もつかない、しっかりとした声音。
リンが驚いたように顔を上げる。その瞳には、戸惑いの色が浮かんでいた。
陽の光に照らされ、彼女の黒い瞳が琥珀色に輝く。
「あなたは……悪くない」
たったそれだけの言葉を紡ぐのに、相当のMPを消費する。
それでも、今は言わなければならないと感じた。喉が乾く感覚がある。
「そうだよ! 全部あの爺さんが悪いんだよ。リンを操ったのはあいつでしょ?」
シャルの力強い言葉に、リンは俯く。
彼女の肩が小刻みに震え、着物の襟元が揺れる。
「ですが……私は皆さんも、将軍様すらも守れず……!」
リンの声が震える。その時――
「リン殿」
穏やかな声が、部屋に響き渡る。振り返ると、将軍の姿があった。
彼は木の杖をつきながら、静かに部屋に入ってくる。
着物の下からは包帯が覗いているが、表情は慈愛に満ちている。
足音と共に、床板が軋む音が響く。
「将軍様! そのような御体で、ここまで……!」
リンが慌てて立ち上がる。疲労のせいか、足元が僅かに危うい。
シャルが即座に彼女の腕を支えた。二人の呼吸が、一瞬重なる。
「心配には及ばぬ。これしきの傷、老いぼれには相応しいものよ」
将軍は穏やかな笑みを浮かべる。
その表情には、リンを責める色は微塵も含まれていない。
(中回復魔法)
私は躊躇うことなく魔法を放つ。
青白い光が将軍を包み込み、彼の硬くなっていた足取りが、嘘のように軽やかになる。
「む……? 不思議な。突然、痛みが消えたぞ」
「あ、それミュウちゃんの魔法だよ! これで大丈夫だよ将軍!」
「ええ……老いぼれに相応しいとか格好つけた直後に……」
気まずい空気が流れる。なんかごめんね将軍……。
でも、怪我は治った方がいい。それは間違いない。
「オホン……ミュウ殿。目覚めたとの知らせを受け、安堵していたところだ。
多くの衛兵の命を救ってくれたと聞く。感謝する」
将軍は私に向かって深々と頭を下げた。その仕草に、思わず体が強張る。
「あの混乱の中、よく傷ついた者たちを癒やしてくれた。そなたの力なくば、死傷者は倍増していただろう」
「あ、あの、その……」
「それと、もう一つ。重要な話がある」
将軍はゆっくりと顔を上げ、私たちを見据えた。
その目には、深い決意の色が宿っている。朝日に照らされた彼の影が、畳の上に長く伸びる。
「これより言うことは、極めて重要な任務となる」
部屋の空気が、一瞬で引き締まった。風に揺れる鈴の音さえ、その緊張を切り裂くことができない。
「老僧は、既に二つの神器を手に入れてしまった。残る『黄龍の勾玉』も、必ずや狙うはず」
将軍の声は低く、しかし確かな重みを持っている。その言葉が、部屋の空気を震わせる。
「そして、その勾玉についての手がかりが、蒼龍殿にあると我々は見ている」
「蒼龍殿……って、あたしたちが持って帰ってきたヒスイドウの地図に書いてあったやつだよね?」
シャルの呟きに、私の記憶が蘇る。風鈴が再び鳴り、その透明な音色が静寂を破る。
「かつての文明の遺跡……。今では存在すら忘れられた場所ですね」
リンが補足する。その声は、先ほどより落ち着きを取り戻していた。
風が障子を揺らし、影が波打つように動く。
「ヒスイドウと同じく、『霧の谷』の一つ、ムゲンキョウにある遺跡です」
「その通りだ。だが、ムゲンキョウはヒスイドウ以上に危険な場所として知られている」
将軍の言葉に、私は思わず眉を寄せる。
あの幻覚の谷以上に危険なんて……。腹の底に、不安と期待が入り混じった重みが渦巻く。
風で影が揺れ、陽光が部屋の中で波打つように踊る。
畳の香りが、緊張感を和らげるように漂っている。
「三人とも。激しい戦いの直後に、このような任務を言い渡すのは心苦しい」
将軍は杖を握る手に力を込める。
その皺だらけの手に、長年の重責が刻まれているように見えた。
「しかし、もはや我々に猶予はない。奴が最後の神器を手にする前に――」
「行きます」
リンの声が、静かに、しかし力強く響き渡る。
彼女は床から立ち上がり、将軍の前に跪く。着物が畳の上で、かすかな音を立てる。
「これは私の使命です。あの男を止めるためにも……!」
「あたしも行くよ! リンはもうパーティーの仲間だもん。ねぇ、ミュウちゃん?」
シャルが私の肩を叩く。その手の温もりに、私は小さく、しかし確かに頷いた。
将軍は私たち三人の顔をじっと見つめる。
朝日が彼の横顔を照らし、影を長く伸ばす。
「では、正式な任務として言い渡そう」
将軍は一呼吸置き、重みのある声で続ける。
「汝ら三名に、ムゲンキョウ、および蒼龍殿の探索を命ず。そこにある手がかりを見つけ出し、かの老僧の野望を打ち砕くのだ」
「御意!」
「はーい!」
「……!」
三者三様の返事が、部屋に響く。将軍は満足げに頷いた。
「準備が整い次第、出立するように。全ての手配は整えさせよう」
そう言い残し、将軍は静かに部屋を後にする。
彼の足音が、廊下の向こうへと消えていった。
風鈴が再び鳴り、涼やかな音が漂う。私たちは顔を見合わせ、小さく頷き合う。
しかし、私の心の中では答えのない疑問が渦を巻いていた。
(どうして彼は、私と同じ古代魔法を……)
答えは、きっと彼との戦いの中にしかないだろう。
……今のままでは勝てないかもしれない。
私も、二人のためにもっと強くならなければ。
朝日が部屋を明るく照らし、新たな旅立ちを予感させるような輝きを放っていた。
水晶の杖が、その光を受けて静かに煌めいている。
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