第79話 燃える天守(後編)
「おまえたちにも見えるか? この剣の輝きが」
燃える天守の中心で、老僧は赤く輝く剣を掲げた。
部屋の隅々まで這い寄る炎の熱気の中、刀身から漏れ出る光が不規則に脈動している。
刃から放たれる輝きは、まるで獣のように蠢き、見る者の心を惑わせようとしていた。
刃の周りには赤い靄が立ち込め、揺らめいている。
その光景は神々しさと不吉さが混ざり合い、私の心を不安にさせる。
部屋の空気が重く、まるで毒に満ちているかのようだ……。
「これぞ、三神器の一つ。赤割の剣」
老僧の声には陶酔が滲んでいた。
まるで恋人に愛を囁くような、そして同時に狂気じみた執着を感じさせる声音。
「古より伝わりし神器。翠玉の鏡、赤割の剣、そして黄龍の勾玉――。そのうち鏡と剣は我が手に」
その言葉に、将軍が痛みに歪んだ声を上げる。床に広がる血の匂いが、焦げ臭い匂いと混ざる。
「まさかっ……貴様が、翠玉の鏡を持ち出したのか……!」
「いかにも」
老僧は笑う。笠の下から覗く瞳が、獣のように黄金色に輝いていた。
その目には底知れぬ狂気が宿っている。
「この世を支配すると言われる三神器の力。あと一つで全てが手に入る――」
赤割の剣からの光が強まり、部屋全体が血に染まったかのように赤く染まっていく。
その輝きには人の心を惑わす力が宿り、見つめているだけで意識が遠のきそうになる。
しかし、それ以上の言葉を老僧が語ることはなかった。
「貴様あああぁぁッ!」
リンの叫びが天井まで響き渡る。
その声は人のものとは思えないほど野性的で、聞く者の背筋を凍らせた。
彼女の周囲の空気が歪み始め、目に見えない力が渦を巻いていく。
「ほう……その力は」
老僧はリンの変貌を興味深そうに見つめていた。
その表情には明らかな愉悦の色が浮かび、唇が薄く歪んでいる。
「私が植え付けた力が、ここまで育つとはな」
リンの体が強張る。筋肉が波打ち、関節が軋むような音を立てる。
彼女の瞳が徐々に赤く染まり、その色は深紅へと変化していく……。
「黙れッ! よくも……よくも両親を……!」
リンの声は震え、その言葉一つ一つに憎悪が滲んでいた。
床を踏みしめる足に力が入り、木材が軋む音が響く。
「ああ、あの夜のことか」
老僧の声が、まるで懐かしい思い出を語るかのように穏やかになる。
その声音には、人としての感情が完全に欠落していた。
「お前に植え付けた『鬼人化』。これは我が傀儡を強化するために編み出した力でな。その実験に、お前たち親子を使わせてもらったのだ」
老僧の言葉には後悔も憐れみもない。
まるで道端の小石を蹴るような、そんな何気なさでその悪業が語られる。
部屋の隅で燃える炎の音だけが、その言葉の重みを際立たせていた。
「ところが『鬼人化』に体が耐えられたのはお前のみ。
お前の親は耐えきれずに肉体が崩壊しおった。フン……鳶が鷹を生むとはこのことか」
「あ……あああああぁぁぁッ!」
リンの叫びは人としての声を超え、獣のような咆哮へと変わっていく。
彼女の周りの空気が激しく歪み、まるで血のような赤い靄が渦を巻く。
その姿は人としての輪郭を失い始め、額には密集した赤いオーラが角のように突き出していた。
まるで、まさに……「鬼」のように。
「リン!」
シャルの叫びが響く。しかし、もはやその声はリンの耳には届かない。
彼女の中の鬼人化の力が理性を食い尽くし、完全な暴走へと突き進んでいた。
(これは……まずい!)
老僧は赤割の剣を構え、リンの姿を愉悦に満ちた目で見つめている。
剣から放たれる赤い靄と、リンの体から溢れ出す赤い気が呼応するように蠢き、部屋の空気を重く染めていく。
私は咄嗟にリンに向かって杖を向けた。水晶が青く輝き、緑の光が放たれる。
しかし――リンの姿は変わらない。精神への回復が効いていない。
「無駄だ」
老僧の冷たい声が響く。笠の下から覗く金色の瞳が、私を見据えていた。
「こやつの中にある力は私が植え付けたもの。童子ごときの癒やしでは、制御できはせん」
その言葉が、まるで氷の刃のように私の胸を貫く。
これまで、私の回復魔法が効かなかったことなんてなかったのに。
(……そんな)
私の魔法は彼女に届かない。
その事実が、私の心に深い無力感を刻み込んでいく。
――轟音と共に、リンが老僧へと突進した。
その音は、まるで雷が落ちたかのように部屋中を震わせる。
床が砕け、木屑が四方八方に飛び散る。
砕けた床材が宙を舞い、煙のように立ち昇っていく。
リンの速度は目で追えないほどで、残像だけが空気を引き裂いていく。まるで血のような赤い軌跡を残して。
鬼人化したリンの姿は、もはや人としての輪郭を失っていた。
黒髪は逆立ち、額から生えた角は深紅に輝いている。
その姿は、まさにモンスター……鬼そのものだった。
「はああぁぁぁッ!」
リンの刀が、一直線に老僧の首を狙う。
刃から放たれる殺気が、まるで実体を持ったかのように部屋の空気を震わせた。
しかし――
「甘い」
老僧は赤割の剣を軽く振るっただけで、その渾身の一撃を弾き返す。
金属がぶつかり合う音が、耳を劈くように響き渡った。
まるで蚊を払うような、そんな何気ない動作。それだけで、リンが弾かれてしまう。
その衝撃で、リンの体が大きく後ろへ吹き飛ばされる。
「グオォォッ!」
しかし、鬼人化の力で彼女の体は瞬時に体勢を立て直した。
床を蹴る音が鋭く響き、壁を伝って再び老僧に跳びかかる。
その動きは重力すら無視するかのように自在だ。
リンの動きは獣のように野性的で、同時に剣士としての技も失われていない。
刀を振るう手首の返しには、依然として美しい弧が描かれている。
人としての理性は失われても、体に染み付いた剣術だけは残っているようだった。
それでも、理性が失われたぶん攻撃は直線的になっている……。
「ほう、なかなかの化けっぷりだ」
老僧の声には明らかな愉悦が混じっている。
赤割の剣を小気味よく振るい、リンの攻撃を次々と受け流していく。
剣と刀がぶつかり合うたびに火花が散り、紅蓮の光が飛び散る。
その煌めきは血のように見え、部屋の壁に不気味な影絵を描いていく。
衝突の余波が、周囲の調度品を吹き飛ばしていく。
「もっと見せてみろ。私が与えたその力を――!」
老僧の声が響くと、赤割の剣が強く輝きを放つ。
その光は部屋の隅々まで届き、まるで血の海のような景色を作り出す。
その輝きに呼応するように、リンの体から漏れる赤い気も激しさを増していく。
「オォォォォッ!」
リンの叫びが響き渡る。その声は野獣の咆哮のようで、私の背筋を凍らせる。
天井から砂埃が落ちてくるほどの咆哮とともに、彼女の体から放たれる赤い気が渦を巻く。
そのオーラが、まるで生きた炎のように周囲の空気を震わせていく。
私の杖が、その魔力の余波に反応して震えた。
次の瞬間、リンの攻撃がさらに激しさを増す。
刀が空気を切り裂く音が連続して響き、その一撃一撃に破壊的な力が込められている。
まるで嵐のような連撃。しかし――
「所詮、私の力を借りただけの器。この程度か」
老僧の声が冷たく響く。その瞬間、赤割の剣の軌道が奇妙に波打つ。
まるで生きた蛇のように蠢き、リンの刀を絡め取って弾き返す。
「見せてやろう。神器の本当の使い方を」
老僧が、剣を振るう。その一撃は、まるで天空から降り注ぐ業火のようだった。
剣から放たれる光が、部屋の空気を焼き尽くしていく。
「消えよ」
剣が描く無数の軌跡が、斬撃の雨となって降り注ぐ。まるで血の雨のような光景。
その一撃一撃に、リンの体が押し戻されていく。
「グアァァ……ッ!」
最後の一撃で、リンの体が大きく弾き飛ばされた。壁に叩きつけられる衝撃音が、部屋中を揺らす。
リンの体が、深々と壁に埋まっていく。衝撃で壁材が砕け、粉塵が舞い上がった。
その音で天井が軋み、焼けた木材の匂いと共に、煙が渦を巻いて立ち上る。
「リン!」
シャルが駆け寄る。彼女の叫びには、深い悲痛さが込められていた。
壁に埋まったリンの体が、人形のようにゆっくりと地面に崩れ落ちる。
彼女の周りを包んでいた赤い気が、蝋燭の火が消えるように次第に薄れていく。
……そんな。
鬼人化の力でも、太刀打ちできないなんて……。
彼は満足げに頷くと、ゆっくりと窓際へと歩み寄った。
その足音が、静寂を破る不吉な音を立てる。
「お前たちとの戯れもこれまでだな」
彼は窓の外を見やる。
そこには、既に黒装束の男たちが用意した脱出用の縄が垂れていた。
「……っ」
シャルはそんな老僧を憎々しげに睨んでいたが、一方で攻撃をしようとはしなかった。
私も同様だ。この人に勝てるとは思えなかった。少なくとも、今はまだ。
「残るは一つ。あれさえ手に入れば、私は……」
老僧の姿が、夕暮れの空に消えていく。赤割の剣の輝きも、共に闇に溶けていった。
部屋に残されたのは、重傷の将軍と、倒れ伏したリン。
そして、なすすべもなく立ち尽くす私とシャルだけだった。
■
煙の立ち込める部屋に、シャルの声が響き渡る。
「リン……しっかりして!」
生焼けの木材の匂いと、砕けた石材の粉塵が鼻をつく。空気が重く、息苦しい。
壊れた調度品の破片が、床一面に散らばっている。
リンの体が、ゆっくりと動き始める。
瓦礫を押しのけ、よろめくように立ち上がる音が聞こえた。
「グ……ォォ……」
低いうなり声を上げながら、彼女が体を起こす。
その瞳は血のように赤く、理性の光を完全に失ったままだ。
肌には無数の傷が刻まれ、布地の和服は血と埃で汚れていた。
「うわっ、危ない!」
シャルが咄嗟に後方に跳躍する。次の瞬間、リンの刀が空気を切り裂いていた。
刃を振るう音が、一拍置いて聞こえる。
理性を失った彼女は、もはや敵も味方も区別がつかないようだ。
その目には、ただ目の前にいる者を倒すという一点の狂気だけが宿っている。
「リン、あたしだよ! シャル! 分かるでしょ!?」
シャルの必死の声も虚しく、リンの耳には届かない様子だった。
彼女の体からは再び赤い気が立ち昇り、周囲の空気を歪めていく。
その気配は炎のように熱を帯び、近づくだけでも肌が焼けそうになる。
(このままじゃリンも、シャルも……!)
私の目には、リンの体を巡る魔力の流れが見えていた。
暴走した鬼人化の力が、彼女の体を内側から焼き尽くそうとしている。
このままでは、彼女の命さえ危うい。
「オォォォッ!」
リンの叫びと共に、彼女の刀が一閃する。
その一撃をシャルが剣で受け止める。衝撃で床が軋むほどの力がこもっていた。
「うっ……! リン、お願い! 目を覚まして!」
金属がぶつかり合う音が鋭く響く。
シャルの剣に、リンの刀が牙を剥くように噛み付いていく。
火花が散り、その閃光と周囲の火が二人の表情を浮かび上がらせる。
私は必死に杖を握りしめる。水晶から伝わる温もりが、わずかな安心感をくれる。
(もう一度、精神回復魔法……!)
杖から放たれた優しい緑の光がリンを包み込む。
しかし効果はなく、彼女の体は一瞬震えただけで、その狂気は少しも収まる気配を見せない。
(駄目なの……? 私の回復じゃ、本当に……)
リンの刀がさらに激しくシャルを追い詰めていく。
圧倒的な力量の差に、シャルの足が少しずつ後ずさっていく。
床に刻まれた傷跡が、その激しさを物語っていた。
「リン……くっ……! もうやめよう! 敵はいなくなったんだよ!」
シャルの叫びに、リンの動きが一瞬止まる。その瞳に、かすかな迷いが宿ったように見えた。
しかし次の瞬間、より強い力でシャルを押しのけた。
狂気が理性の芽を押しつぶしたかのように。
「グアァァッ!」
「がはっ……!」
シャルの体が宙を舞い、壁に激突する。衝撃で息が詰まる音が聞こえた。
彼女の手から剣が離れ、遠くまで転がっていく。金属が床を打つ音が、虚しく響いた。
……今や、部屋の中心にはリンと私だけ。
獣と化した彼女が、獲物を見つけた目で私を見据えていた。
(……リン)
私は決意を固める。喉が乾き、自分の心臓の鼓動が耳に響くほど。額に冷や汗が伝う。
シャルの剣では止められなかった。私の回復魔法も通じない。なら――。
私は杖を握ったまま、ゆっくりとリンに近づいていく。
足が震えそうになるのを、必死に抑えながら。
床に散らばった瓦礫を踏む音が、異様に大きく感じられる。
リンの赤く輝く瞳が、獣のように私を捉えた。その刀が、ゆっくりと上がっていく。
刃から漏れる殺気が、まるで実体を持ったかのように私の肌を刺す。
「ミュウちゃん……っ! 危ない、逃げて……!」
シャルの必死の叫びが響く。
しかし私の足は止まらない。むしろ、その一歩一歩に強い意志を込めて前に進む。
リンの体から漏れ出る赤い気が、私の肌を炎のように焼く。
息をするだけでも喉が焼けるような感覚。その熱はきっと、彼女自身すらも灼こうとしていた。
「オォォォッ!」
リンの刀が振り下ろされる。その一撃を、私は避けようとしなかった。
代わりに、全力で駆け寄り――リンの腰元に抱きついた。
「……っ!」
代わりに次の瞬間、刀が私の背中に深く突き刺さる。
「あっ! ぐっ……!」
「ミュウちゃん!」
鋭い痛みと共に、温かな液体が背を伝っていく。
金属が肉を貫く感触と、服が裂ける音。しかし今は、それどころではない。
私は杖を握る手に、残された全ての魔力を集中させる。
水晶が青く輝き、その光が次第に深い緑へと変わっていく。
「お願い……! リン!」
再び発動した精神回復魔法が、私とリンの体を包み込んでいく。
これまでの何倍もの魔力を注ぎ込んだその術は、まるで翠の光の繭のように二人を覆っていく。
その光は温かく、春の陽だまりのように優しい。周囲の惨状が視界から消える。
「グ……アァ……!」
リンの体が痙攣し、その腕が私を強く押しのけようとする。
刀を握る手に力が入り、さらに深く私の体を貫こうとしていた。
背中の傷が広がる痛みに、目の前が白く明滅する。
「あっ……う、あぁっ……!」
しかし、私は決して腕を離さない。むしろ、より強くリンの体を抱きしめる。
彼女の体の中で暴れる鬼人化の力と、私の回復魔法が激しくぶつかり合う。
まるで、彼女の心を巡る主導権を争うように。
その衝突が、私たちの周りの空気を震わせていく。
「ウァァァァッ……!」
リンの叫び声が変わっていく。獣のような咆哮から、人としての悲鳴へ。
その声に、人としての感情が少しずつ戻ってくるのを感じる。
彼女の体から漏れていた赤い気が、春の雪が解けるように徐々に薄れていく。
額の角が砕け散り、その破片が床に落ちる音が聞こえた。
赤く染まっていた瞳が、本来の穏やかな色を取り戻していく。
「み、ミュウ……さん……?」
リンの声が、かすかに聞こえた。それは確かに、彼女自身の声。
その声には混乱と、そして深い後悔の色が滲んでいた。
刀を握っていた手から力が抜け、武器が鈍い音を立てて床に落ちる。
金属が石を打つ音が、まるで終わりを告げる鐘のように響いた。
「よかっ……た……」
私の視界が、少しずつ暗くなっていく。
背中の傷からの出血と、大量の魔力消費。
そして全身を貫く鈍い痛み。体から力が抜けていくのを感じる。
それでも、不思議と恐怖は感じなかった。
「ミュウさん!? 私、私……!」
リンが私を支えようとする腕の中で、私はゆっくりと目を閉じた。
その腕の中に、かつての暖かみが戻っているのを感じる。
背中を貫く痛みより、リンが無事だったという安堵の方が大きかった。
意識が遠のく直前、私は小さく微笑んでいた。
(治せた……。治せたんだ、私は……)
そう思いながら、私は深い闇の中へと沈んでいった。
遠くで誰かが叫ぶ声が聞こえる。
でも、それはもう遠い世界の出来事のように感じられた……。
面白い、続きが気になると思ったら、ぜひブックマーク登録、評価をお願いします!
評価は下部の星マークで行えます! ☆☆☆☆☆を★★★★★にして応援お願いします。




