第78話 燃える天守(前編)
城の中庭は、炎と黒煙に包まれていた。
朝まで美しかった景色は一変し、手入れの行き届いた植え込みは燃え、白い大理石の庭石は煤で黒く染まっていた。
噴水から流れる水が炎を赤く照り返し、その光が不吉な影を投げかける。
水滴が炎で蒸発する音が、シューッと絶え間なく響いていた。
熱気が顔に当たり、喉が乾く。煙で目が痛み、息苦しさを感じる。
鼻をつく焦げ臭さと、生臭い血の匂いが混ざり合う。
地面には衛兵たちが倒れ伏していた。黒装束の男たちも同じように数名が倒れている。
甲冑の擦れる音と、うめき声が混じり合う中、私はとっさにそちらに杖を向けた。
(大回復魔法!)
青白い光が傷ついた衛兵たちを包み込む。すると、彼らの傷が次々と癒えていき、立ち上がっていった。
衛兵たちは困惑した様子で周囲を見回している。
言語はわからないが、とにかく何かを言っているようだった。その目には恐怖の色が残っていた。
「ナイスミュウちゃん! それよりも、どうしてこんなことに……! 朝まではあんなに平和だったのに!」
シャルの声が震える。彼女の足元では、まだ若い衛兵が意識を失ったまま横たわっていた。
鎧には無数の傷跡があり、剣は折れ曲がっている。衛兵の顔は青白く、その呼吸は浅かった。
(誰が……こんなことを)
私は周囲を見渡す。しかし、黒煙で視界が遮られ、まともに状況を把握することができない。
目に入る煙が痛く、涙が滲む。
それでも、見えた怪我人のすべてに回復を施していく。
杖が温かみを帯び、その先端の水晶が青く輝く。
私の目が届く範囲で、この襲撃で死者を出したくない。
シャルの足元の彼も、血色が良くなっていくのが見えた。
「……!」
一方、怒りに身を任せ、リンは先へ先へと進もうとする。その表情には、まだ狂気の色が残っていた。
彼女の体からは、不穏なオーラが渦を巻くように漏れ出している。
「ちょっと待って!」
シャルがリンの腕を掴む。その手に、強い意志が込められている。
シャルの手の温もりを感じたのか、リンの足が止まる。
彼女の体から漏れる不穏な気配が、わずかに弱まった。
「リン、さっき両親の仇って言ってたけど……。いったい何があったの?」
シャルの声は、いつもの明るさを失っていた。代わりに、深い憂いの色が混じっている。
その声には、友達を思いやる優しさと、不安とが滲んでいた。
リンは一瞬、言葉に詰まる。その目に、何かが揺れ動くのが見えた。
昔の記憶に囚われたような、深い悲しみの色。炎に照らされた瞳が、わずかに潤んでいる。
「……父は、この国一番の剣術道場の師範だったんです」
彼女の声は、いつもの響きを失っている。震え、時折途切れながら。
その声には、懐かしさと痛みが混ざり合っていた。
「母は、その父を支え……私を育ててくれました」
リンの目が、遠くを見つめる。炎に照らされた瞳に、懐かしい思い出が映っているかのようだ。
彼女の表情が、一瞬だけ柔らかくなる。
「私は幼いころから父のもとで修行を重ね……剣の道を歩んできました。でも、あの日――」
かすかに温かかったその声が一変する。温かみは消え失せ、代わりに深い闇が覗く。
「黒装束の集団が、道場を襲った。父は応戦し、多くの敵を倒しました。それでも……敵の数が、あまりに多すぎた」
リンの体が震え始める。刀を握る手に、再び力が入る。
「黒装束たちは、まるで人形のようでした。痛みも恐れも感じていない様子で、狂ったように突撃を……。
そして、奴らを操っていたのは……」
リンの目が、再び赤みを帯び始める。その周囲の空気が、重く淀んでいく。
彼女の体から漏れ出す気配が、徐々に不穏なものへと変わっていく。
「さっきの、あの老僧……! 奴が、奴が全てを!」
彼女の声が高くなり、制御を失いかける。
シャルが慌ててリンの肩に手を置く。その指が、リンの震える体を優しく包み込む。
「落ち着いて、リン!」
シャルの声には、深い親愛が込められていた。その温もりに、リンの震えが少しずつ収まっていく。
彼女の荒い息遣いが、徐々に落ち着きを取り戻していった。
「……すみません。それで、気づいた時には私は気を失っていました。そして、目覚めた時……」
リンの声が掠れる。その目に、涙が浮かんでいた。
彼女の声は、次第に小さくなっていく。
「両親は……そこにはいなかった。ただ、私の中に見知らぬ力が宿っていて――」
「それが、こないだから使ってる……『鬼人化』ってやつ?」
シャルの問いかけに、リンは小さく頷く。汗で濡れた前髪が、その目元を隠すように揺れる。
「恐らく、あの老僧に……植え付けられたものです」
リンはそう言って、自分の手のひらを見つめた。その手には、今も刀を握りしめた跡が残っている。
(両親が襲われた、とは言ってたけど……そんなことがあったなんて)
私は、リンの心の痛みを感じ取っていた。
恐ろしい力を与えられ、それと共に生きていかなければならない彼女の苦悩が、胸に突き刺さる。
自分の意思とは関係なく、与えられた力に苦しむ。それはどれだけの苦痛なのだろう。
シャルもまた、リンの肩に置いた手に、そっと力を込めた。
炎の音が、静寂を破る。煙たい空気の中、私たちは立ち尽くしていた。
しかし、その時――
「グオォォォォ……!」
突如として、うめき声が響き渡る。倒れていた黒装束の男たちが、再び動き始めた。
その声には、苦痛と歓喜が混ざり合っていた。
不気味な紫の光が、彼らの体を包み込んでいく。
「くっ……また再生してる! 気をつけて!」
シャルの声に反応し、周りの衛兵たちが後退していく。
甲冑の擦れる音が、不安げに木の廊下に響く。
その金属音は、まるで震える歯のように不規則だった。
黒装束の男たちが、まるで操り人形のようによろめきながら立ち上がる。
その姿は生き返った死体そのもので、肢体の動きには明らかな異常があった。
関節を逆に曲げているものもいれば、首を90度以上傾けたまま歩くものもいる。
傷口からは不自然な紫の光が漏れ、肉が蠢くように再生していく。
その様子は、まるで体表を生きた虫が這い回るかのようだった。
「ウオォォォ……! ■■■……■■■……!」
黒装束の一人が叫ぶ。その声は狂気に満ちていた。
意味不明な言葉を発するその声は、この大陸の響きを持っていた。
「あの夜も、同じように人々を操って……! 奴のやり口は、あのときと同じです!」
リンの声が震える。黒煙の向こうから、また数名の黒装束が現れた。
彼らの歩みは不規則で読み辛く、時折体を大きくくねらせながら進んでくる。まるで蛇のようだ。
「将軍様の居室は上層階……! そこに向かっています!」
焦りとともにリンが叫ぶ。駆けていく彼女を追いながら、私は倒れた黒装束たちの状態を観察していた。
彼らは、まるで深い陶酔に浸ったように朦朧としている。
瞳は焦点が合わず、時折身体を痙攣させる。
その表情には、何かを切望するような、そして同時に苦悶の色が浮かんでいた。
唇は紫色に変色し、体からは生暖かい蒸気のようなものが立ち上っている。
「■■■……■■■■……■■■、■■■……!」
一人が呟く。その声はまるで熱に浮かされたようだった。
彼らの瞳には、常軌を逸した渇望の色が浮かんでいる。
(これって……回復に依存してる? そんなことって……?)
だが、おそらく間違いない。私はあの紫の光を放つ回復魔法の正体が見え始めていた。
この回復魔法は傷を癒やすと同時に、相手に快楽――そして薬物のような依存性を残していくのだ。
その快楽はおそらく、かなり強烈なのだろう。
何度も浴びれば、彼らのように理性が吹き飛ぶほどに。
その虜となった人間は、この回復魔法を強く求めるようになる。
だから、傷を負うことをまったく厭わない。
むしろ喜々として敵へと突っ込み、そして治してもらうことで快楽を得ている。
そうしてやがて回復依存は彼らを支配し、狂気に落とすのだ――。
(……なんて、ことを……!)
私の体が震える。
マーリンの癒やしの魔法が、こんな形で歪められているなんて。
胸が締め付けられるような感覚と共に、怒りが込み上げてくる。
(誰かを助けるための回復魔法を、こんな……!)
「ミュウちゃん、上に行かなきゃ! 将軍様が危ないよ!」
シャルの声に、私は我に返る。彼女の剣が、立ち塞がる黒装束たちを薙ぎ払っていく。
刃が肉を切り裂く音と、黒装束たちの狂気じみた笑い声が混ざり合う。
リンもまた、冷静さを取り戻したように見える。
彼女の刀さばきには無駄がなく、確実に敵の数を減らしていく。
刀が空気を切る音が、規則正しく響いていた。
(……そうだ。私が冷静さを失っちゃだめだ)
炎と煙で息苦しいが、それでも私は深呼吸した。喉に痛みを感じる。
杖を強く握り直し、私は階段を駆け上がっていく。
途中、黒装束たちの痕跡が至る所に残されていた。
折れた武具、壁に付着した血の跡。そして、まるで野獣のような爪痕。
石の壁には、深い引っ掻き傷が刻まれている。その傷跡から、彼らが通った道筋は一目瞭然だった。
時折、廊下に散らばった黒装束の切れ端から、生暖かい風が吹き抜けていく。
上層階に近づくにつれ、異様な気配が強くなっていく。
空気が重く、淀んでいるような感覚。
まるで目に見えない毒が、辺りに充満しているかのようだ。
そして、将軍の居室の前に到着した時――
「グハッ……!」
扉の向こうから、苦痛に満ちた声が響く。それは間違いなく、将軍の声だった。
「ついに、手に入れたぞ」
老僧の声が聞こえる。その声には、底知れない闇が潜んでいた。不気味な重みを持つ声。
「赤割の剣……これで、三神器のうち二つが揃った」
私の耳には、その言葉が異国の響きを持って届く。しかし不思議なことに、意味はしっかりと理解できた。
彼も翻訳魔法を使っているのだろう。……この国の人間ではないのだろうか?
「■■……■■■■■……!」
将軍の声が途切れる。おそらく、重傷を負っているのだろう。
床に血が滴る音が、かすかに聞こえる。
「将軍様!」
リンが扉を蹴り開けた。薄い壁のような戸が外れ、大きな音を立てて倒れる。
そこには――
赤く染まった絨毯の上に、将軍が倒れていた。
胸から腹にかけて、深い傷が刻まれている。
その傍らには笠を被った老僧の姿。
彼の周りの空気が、まるで生きているかのように揺らめいていた。
老僧の手には、赤く輝く一振りの剣が握られている。
その刀身から放たれる光が、部屋中を不気味に照らしていた。
……刀身が抜かれている姿を見るのは初めてだが、間違いない。
あれが三神器の一つ、「赤割の剣」だろう。
「ほう。ここまで来たか。見事なものよ」
老僧がゆっくりと振り返る。その笠の下から、私たちを見つめる冷たい眼光が感じられた。
その目は黄金色で、瞳孔が縦に細長く裂けている。人のものとは思えない眼だった。
シャルが剣を構え、私は杖を握りしめる。白い水晶が、かすかに光を放つ。
そして、リンの体から漏れる気配が、限界を超えようとしていた。
彼女の周りの空気が歪み、まるで血のような赤い霧が立ち昇り始める――。
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