第77話 黒煙に揺れる詠唱
「やあぁっ!」
シャルの剣が、黒装束の男の胸を貫く。生温かい血飛沫が石畳に飛び散った。
男は後ろに倒れこみ、重たい布地が地面に落ちる音が響く。
「これで……えっ?」
倒れた男がゆっくりと立ち上がる。
胸から滴る血が石畳に落ち、小さな水たまりを作っているというのに、まるで何事もなかったかのように起き上がった。
(傷が……治ってる……?)
不気味な紫の光が傷口で輝き、肉が再生する様子が生々しく見える。
そして、それと同時に男の目が光った。その瞬間、彼の動きは獣のように荒々しくなる。
「うわっ! なんなのコイツら!?」
シャルが驚きの声を上げる。その声には、今までに聞いたことのない驚きと焦りが混じっていた。
(この紫の光……回復魔法? 私のとは明らかに違う。それに、この生暖かい空気……)
回復速度は私のものより遅い。だが、実戦において十分な脅威となる速さだ。
それより、治癒の過程に何か不自然なものを感じる……。
市場には黒装束の男たちが十数人。
彼らは屋台を粉砕し、商品を踏み潰しながら、将軍の城を目指していた。
破壊された露店からは果物の甘い香りと魚の生臭さが混ざり合い、異様な臭気となって漂う。
彼らの目は血走り、痛みも恐怖も感じていない様子。これも回復魔法の効果なのだろうか。
その姿は、まるで操り人形のようにぎこちなく、それでいて恐ろしいほどの怪力を秘めている。
私たちの周りには、逃げ遅れた市民たちがいる。
老人や子供、足を怪我して動けない人も。
彼らの恐怖に震える呼吸が、戦闘の合間に聞こえてくる。
「くそっ! これじゃ城まで行けないよ!」
シャルが歯を食いしばる。彼女の赤い髪が汗で張り付き、呼吸が荒くなっている。
「おぉー! ■■……! ぁあぁああア!!」
黒装束の一人が叫ぶ。その声は狂気を帯びており、まるで壊れた機械のようにガクガクと震えていた。
喉が裂けそうな叫び声が、市場に不協和音のように響く。
(みんなを逃がさないと……!)
「ミュウちゃん! あたしが引きつけるから、その間に市民の人たちを!」
私は頷き、市民たちの方へ向かう。
できるだけ多くの人を一度に回復できるよう、杖を構える。
杖の水晶に触れると、かすかな温もりが手のひらに伝わってくる。
(全体回復魔法!)
彼らの体に光が降りかかると、その傷が消えていく。歩けない老人も、今ばかりは走っていった。
その時、視界の端にリンの戦いぶりが映る。
「はっ!」
彼女の刀が、無駄な動きを一切排して敵を斬る。
美しい剣筋。しかし、その動きには普段の冷静さが欠けているようにも見えた。
刀を振るう手が、かすかに震えているのが見える。
彼女の呼吸も乱れ始めており、額には冷や汗が浮かんでいた。
「この光……この光は……!」
リンの声が震える。彼女の目が、敵が回復する度に放つ紫の光を追いかけている。
その瞳には、まるで過去の亡霊でも見ているかのような恐怖の色が浮かんでいた。
(リン……どうしたの?)
彼女の様子が明らかにおかしい。
いつもの凛とした佇まいが崩れ、動きにも迷いが見え始めていた。
「うわっ! ミュウちゃん、気をつけて!」
シャルの警告に、咄嗟に身を翻す。
黒装束の男の拳が、耳元を風切る音を立てて通り過ぎた。
「ひっ……」
杖を構え直し、咄嗟に男に向かって精神回復魔法を放つ。
優しい緑の光が男を包み込み、穏やかな風のような波動が広がる。
(これで正気に……!)
「――お、あ。ウアアアァァアアア!」
しかし、男の目の狂気は消えない。それどころか、頭を抱えて、さらに激しく暴れ始めた。
その叫び声には、苦痛と陶酔が入り混じっているように聞こえる。
(ダメか……普通の回復じゃ効果がない)
シャルの剣が閃き、再び男を切り倒す。今度は首を狙ったおかげか、男は完全に動きを止めた。
地面に倒れる音と共に、黒い装束が血に染まっていく。
「回復魔法みたいな光だけど、ミュウちゃんのとは全然違うよね。
なんていうか……アレは癒やしじゃなくて、もっと別のものというか」
シャルは倒れた男を見つめながら眉をひそめる。その横で、リンの刀が大きく揺れた。
「あの夜と……同じ光……まさか……」
彼女の声が震えている。その目は何か遠くを見ているようで、手にした刀がカタカタと鳴る。
刀身に反射する陽光が、不規則に揺れている。
「リンちゃん? 大丈夫?」
「奴が……まさか……!」
リンの体から不穏な気配が漏れ始める。
鬼人化の力が、制御を振り切ろうとするかのように彼女の中で暴れ出す。
その気配に反応するように、周囲の空気が重く、どんよりとしてきた。
「おい、城に火の手が!」
誰かの叫び声が響く。皆の視線が城の方向に向かう。
黒い煙が立ち昇り、オレンジ色の炎が見える。
その不吉な光が、市場の空に長い影を落としていた。
風に乗って、焦げた木材の匂いが漂ってくる。
「……!」
リンの体が強張る。刀を握る手に力が入り、その震えは制御不能なほどに激しくなっていた。
彼女の呼吸が荒く、不規則になっていく。
「リン! ちょっと落ち着いて!」
シャルが彼女に駆け寄ろうとした、その時――
轟音が市場を揺るがした。城の方角から爆発音が響き渡り、地面が揺れる。
硝煙の匂いが風に乗って漂ってくる。
空気が震え、耳鳴りがするほどの衝撃波が押し寄せる。
その混乱の中、リンの体から漏れる不穏な気配が、さらに強くなっていく。
彼女の周りの空気が歪み、今にも力の制御が失われようとしていた。
――その時。
黒煙の立ち込める人混みを縫うように、一人の老僧が現れた。
深い笠で顔を隠し、破れかけた薄汚れた衣をまとった老人。
その姿は、混乱の渦中にあってあまりにも場違いに見えた。
錫杖を持つ手はカサカサと乾き、血の気が失せているように見える。
「あ……」
リンの声が震える。刀を握る手に力が入り、爪が掌に食い込むほど。
その手から、じくりと血が滲んでいるのが見えた。
老僧は錫杖を鳴らしながらゆっくりと歩みを進める。
カランカランという澄んだ音が、不吉な足音のように響く。
市場を荒らし回る黒装束の男たちの間を、まるで散歩でもしているかのように悠然と進んでいく。
(なに、この人……?)
私は老僧から異様な気配を感じ取っていた。
その歩みには重みがあり、周囲の空気までもが淀んでいく。
まるで時間が歪むような不思議な感覚。近くにいた小鳥たちが、慌てて飛び去っていく。
「貴様ァッ!」
リンの叫び声が響く。
彼女の体から漏れ出ていた不穏な気配が、一気に爆発する。
理性を失ったような血走った目で、彼女は老僧に向かって突進した。
刀を振り上げ、その刃に夕陽が反射して不吉な光を放つ。
「リン!?」
シャルが驚いた声を上げる。
しかし、リンの体は既に老僧の真横まで迫っていた。彼女の足音が、石畳を激しく叩く。
「はああぁッ!」
リンの刀が閃く。空気を切り裂く鋭い音が響く。しかし――
「む」
老僧がほんの僅かに首を傾げただけで刃をかわす。
その動きは風のように自然で、それでいて不気味なほど的確だった。
笠の下から、かすかに縮れた白い長髪が覗く。
「お前は……」
老僧の笠の下から、低い声が漏れる。
その声には、人とは思えない響きが含まれていた。
「両親の仇……ッ!」
リンは再び刀を振るう。しかし、その一撃も空を切った。
彼女の動きが次第に荒々しくなり、呼吸も乱れていく。
汗が飛び散り、その一滴一滴が夕陽に照らされて血のように赤く輝く。
(これは……鬼人化が暴走してる!?)
リンの瞳が赤く光り、全身を血のようなオーラが包む。
その姿は人としての理性を失いかけているように見え、空気までもが重く淀んでいく。
老僧はそんなリンの攻撃をいとも簡単に躱し続ける。
刃を避け、あるいは錫杖で軽く弾き返す。錫杖の輪が触れ合う度に、澄んだ音が響く。
そして、何かを呟いた。
「――魔導王の名において命ずる」
私は耳を疑った。それは古代の魔法の詠唱。私が使っているものと同じ。
不気味な響きが辺りに満ちていく――!
「争いの波紋消し、花実を結べ。毒を以て忘却の彼方へ――。全体過剰回復魔法」
「グオォォォおぉッ!」
黒装束の男たちが一斉に大きな呻き声を上げる。
彼らの目の赤い光が強まり、血管が浮き出るほどに狂暴化していく。
その声には、苦痛と歓喜が入り混じっているように聞こえた。
「……ッ、アァァァアアァアア!」
老僧の言葉は彼らの異常性を増幅させる呪文だったのか。
苦しげに喘ぐ声と同時に、歓喜の叫びのようなものも混じり、その不気味な声が市場中に響き渡る。
リンもまた、その声に反応するように全身を震わせる。
彼女の中の鬼人化の力が制御を完全に失い、赤いオーラが渦を巻くように激しくなっていく。
「リン!」
シャルがリンに駆け寄ろうとする。しかし、狂暴化した黒装束の男たちが行く手を阻む。
空気を切り裂くような叫び声と共に、まるで壁のように立ちはだかった。
老僧はそんな混乱の中を悠然と歩いていく。
いくつもの輪が連なった錫杖が、鈴のような不吉な余韻を残して消えていく。
城に向かって。黒煙の立ち上る城に向かって歩いていく老僧の後ろ姿。
「くっ……やばい、行かれる!」
シャルの剣が、黒装束の男たちを薙ぎ払う。
その刃に宿った魔力が青白く輝き、夕暮れの空気を切り裂いていく。
倒れる男たちの黒い装束が、風に揺れる。
「うあああああッ!」
一方、リンは老僧の姿を追いかけようとするが、同じく黒装束たちに阻まれ、まともに動けない。
代わりに彼女は嵐のように刀を振るい、黒装束たちを斬り伏せていく。
鋭い刃が空気を切る音と、倒れる体が地面を打つ鈍い音が混ざり合う。
彼女の理性が徐々に薄れていくのが見て取れた。
瞳の赤みが増し、呼吸は荒く不規則になっていく。
「精神回復魔法!」
私は咄嗟にリンに向かって魔法を放つ。
温かな緑の光が、彼女の暴走を抑え込もうとする。優しい風のように彼女を包む。
リンの体が一瞬震え、その場に膝をつく。石畳に倒れる音が、重く響く。
「はぁ……はぁ……逃がした……また、逃がしてしまった……!」
彼女の声には、深い懊悩と後悔が滲んでいた。その声は掠れ、震えている。
額から流れる汗が、石畳に落ちていく。
城からは、さらに大きな爆発音が響く。ただ事ではない様子だ。
黒装束の男たちはまだ残っているが、先程の老僧の回復魔法は悪影響をもたらしたらしい。
ただでさえ無かった理性がより失われ、もはやまともに集団で動くこともできない。
彼らの動きは不規則で、時に自分の仲間にまで牙を剥いている。
シャルは混乱の中、着実に黒装束の男たちを無力化していく。
そこに、重装備の衛兵たちが到着した。こちらの大陸風の甲冑が擦れる音と、足音が響く。
「■■■、■■■! |■■■■■■■■■■■■《暴れるならば斬り捨てるぞ》!」
「おお……アアアアアアッ!」
衛兵たちによって黒装束が取り押さえられていく。鎧と武器が触れ合う金属音が、市場に響き渡る。
いかに理性も痛みもなかったとしても、数で劣る彼らは少しずつ鎮圧されていく。
「城へ……行かな、ければ……」
そのときリンがよろよろと立ち上がり、城に向かっていく。
その目にはまだ狂気の色が残り、足取りも定まらない。
「リン! ちょっと待って!」
シャルがリンを追う。私もそれを追いながら、老僧の詠唱を思い返していた。
(あの詠唱……間違いない。私が師匠から教わった古代魔法と同じもの)
市場に、不穏な静けさが戻る。
倒れた黒装束の男たちと、破壊された露店。傾いた看板や散らばった商品。
そして、遠くで燃え盛る城。夕暮れの空が、その炎に照らされて不気味な色に染まっていく。
私たちは、これから何が起ころうとしているのかも知らないまま、城へと走った。
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