第73話 ヒスイドウ
霧に包まれた渓谷の入り口に立ち、私たちは息を呑んだ。
冷たく湿った空気が肌を撫で、鼻先をくすぐる。
「うわー……! これがヒスイドウ……!?」
……ここに辿り着くまで色々あった。
シャルが買い物をしすぎたり、宿の部屋があんまり取れなかったり、見たことのないモンスターがいたり……。
とにかく、私たちはなんとか「霧の谷」候補の一つ、ヒスイドウに辿り着いたのだった。
私たちの目の前には、濃い霧に覆われた荒々しい山と、その狭間の谷が広がっていた。
霧は生き物のように蠢き、時折風に揺れては不気味な形を作る。
その中から、巨大な岩や奇怪な形の木々がおぼろげに姿を現す。
霧の動きに合わせて、かすかに水の滴る音が聞こえる。
時折太陽が霧を照らす。すると、まさしく翡翠のような緑色の岩壁が垣間見える。
それは渓谷という形を持った一つの大きな宝石のようだった。
「すっごー……まるで別世界みたい」
シャルの声には、恐れと興奮が混じっている。
確かに、ここは私たちの知る世界とは全く異なる場所のように感じられた。
霧の向こうからは、かすかに鳥の鳴き声のような音が聞こえる。
しかし、それが本当に鳥なのかどうかは定かではない。その声は、どこか不自然な響きを持っていた。
「さあ、行きましょう」
リンが一歩前に踏み出す。
その姿は凛としているが、彼女の手が小刻みに震えているのが見えた。
足元の小石が、その一歩で転がる音がする。
私たちはゆっくりと霧の中へと足を踏み入れた。
途端に、周囲の景色が一変する。
濃い霧が視界を遮り、数メートル先さえよく見えない。
足元の地面も、霧に覆われてよく見えない。
慎重に一歩一歩進んでいく。足を踏み出すたびに、湿った地面が靴底にくっつく感触がする。
「うわっ!」
シャルが突然叫び声を上げた。振り返ると、彼女が尻もちをついている。
「だ……大、丈夫?」
「う、うん……ちょっと躓いちゃって。なんか、足元がふわふわして変な感じ」
確かに、地面の感触が奇妙だ。まるで柔らかい苔の上を歩いているような感覚。
しかし、目を凝らしてもそんなものは見当たらない。ただの砂と石があるばかりだ。
足を踏み出すたびに、湿った土の匂いが鼻をつく。
「二人とも、気をつけてくださいね。この霧には、人を惑わす力があるそうです」
リンの警告に、私たちは頷く。しかし、その直後――
「えっとー……あれ? どっちから来たんだっけ?」
シャルの声に、私たちは凍りつく。
来た道を振り返るが、そこにあるのは一面の霧だけ。
どの方向を向いても、景色は変わらない。
霧の中で、方向感覚が完全に失われていく感覚に襲われる。
「まずい……方向感覚が……」
リンの声が震える。彼女の目に、恐怖の色が浮かび始めている。
これはまずい。このまま迷えば、二度と出られなくなるかもしれない。
私は杖を握り締め、静かに目を閉じる。
杖から伝わる冷たい感触が、私を落ち着かせてくれる。
(精神回復魔法)
青白い光が私たちを包み込む。霧を通して、その光がぼんやりと拡散していく。
かすかに清々しい風が吹き抜ける感覚がした。シャルとリンが顔を上げる。
「お、おお……なんだか頭がスッキリした! そうだ、道はあっちだったね」
「さ、さっきまでの混乱が嘘のようです……。本当にすごいですね」
シャルとリンの声に、安堵の色が混じる。
私の魔法によって、霧の惑わす力が一時的に抑えられたようだ。二人の表情が、明らかに和らいでいる。
「ありがと、ミュウちゃん! さすが!」
シャルが私の背中を叩く。
力の加減は相変わらず分からないのか、思わずよろけそうになる。
「でも、急いで進まないと。いつまでも霧の中にいては参ってしまいます」
リンの判断に、私たちは頷く。
再び歩き始めると、今度は霧の中に奇妙な影が見え隠れし始めた。
時折、巨大な獣のような姿。また時には、人の形をしたものも。
しかし、目を凝らすとそれらはすぐに消えてしまう。
それらの影が現れるたびに、かすかな風の音が聞こえる気がする。
「な、何かいる! 今、影がいたよ!?」
「人を惑わす魔物……! くっ、近付いてきたら斬れるのですが」
「ま、まぁまぁ。手を出してこないなら無視して良いと思うよ!」
シャルがリンを励ます。
しかし、その声にも少し不安が混じっている。彼女の声が、わずかに震えているのが分かる。
そうして歩いていると、突然、霧の中から奇妙な音が聞こえてきた。
カサカサというまるで何かが這うような音。
しかし、その正体は霧に隠れてよく見えない。
その音は、私たちの周りを取り巻くように響く。
「み、みんな聞こえた?」
「ええ……でも、何の音かは……虫でしょうか?」
リンの声が震える。彼女の手が刀の柄に伸びる。
その手が、小刻みに震えているのが見えた。刀の鞘が、かすかに揺れる音がする。
「リン、大丈夫?」
シャルが心配そうに声をかける。
リンは小さく頷くが、その目には恐怖の色が浮かんでいる。
私は静かにリンに近づき、そっと彼女の肩に手を置く。……かなり背伸びしないと届かないけど。
「……」
「ミュウさん……?」
リンは少し驚いたように私を見た後、小さく微笑んだ。
「ありがとう、ミュウさん。もう大丈夫です」
彼女の肩の力が、少しだけ抜けたのを感じる。私はひとまずほっと息を吐いた。
その時だった。
ゴォォォォン――地響きのような音が、霧の中から響いてきた。
その音は、私たちの体の中まで震わせるほどの低音だった。
地面が揺れ、小石が転がる音が聞こえる。
「な、何!?」
シャルが剣を構える。剣を抜く際の金属音が、霧の中で鋭く響く。
霧が渦を巻くように動き、その中から巨大な影が浮かび上がる。
「あれは……!」
リンの声が裏返る。
霧の中から現れたのは、巨大な獣だった。
象ほどもある大きさで、全身が鱗に覆われている。
その姿は、どこか龍を思わせるような風貌だ。鱗がこすれ合う音が、かすかに聞こえる。
獣は赤い目で私たちを見下ろし、再び低く唸った。
その咆哮に、地面が震える。獣の息遣いが、私たちの肌に伝わってくる。
「くっ……デカいなぁ! なにこいつ!?」
シャルが叫ぶ。彼女は剣を構えたが、剣先がかすかに揺れている。
「魔物、ですね。視界は悪いですが、応戦しましょう!」
獣は再び咆哮すると、ゆっくりと私たちに近づいてきた。
その一歩一歩が地面を揺らす。獣の足音が、私たちの体内にまで響いてくる。
霧の中で、その巨体がより一層不気味に感じられる。
「くらえーっ!」
シャルが叫び声と共に剣を振るう。金属が空気を切る鋭い音が響く。
しかし、その一撃は空を切った。彼女の剣は、獣の体よりやや手前を斬っていたのだ。
「え? 当たってない?」
シャルの声には驚きが混じっている。彼女の呼吸が乱れ、汗が滴る。
(……? 思いきり距離感を間違えてたように見えたけど……?)
霧のせいで距離感が狂っているのだろうか? 湿った空気が肌を撫で、私の視界も曇らせる。
一方、リンは鞘に入れた刀を構えたまま獣を見つめている。
彼女の手から伝わる緊張が、空気を震わせているようだ。
「あ、あの……私には、獣が動いているようには見えませんが……」
リンの言葉に、私は首を傾げた。
獣は動いている。先ほどからシャルを狙って体を撓ませ、攻撃を仕掛けるチャンスを伺っているようだ。
鱗がこすれ合う音すら聞こえる。しかし、リンの目には違って映っている……?
「えっ? リン、何言ってるの? あいつ、こっちに向かってきてるよ!」
シャルが困惑した声を上げる。
彼女の目には、明らかに接近してくる獣の姿が映っているようだ。
「せりゃああっ! ……また外れたー!」
私は静かに状況を観察する。シャルとリン、そして私。
三人三様の光景が広がっているようだ。
霧の中で、二人と獣の姿がぼんやりと揺れている。
(これはもしかして……幻覚?)
その時、獣が再び咆哮を上げた。地面が揺れ、耳をつんざくような音が響く。
その轟音に、耳を押さえたくなる衝動に駆られる。
「くっ! こちらに来ましたか……せいッ!!」
リンが目にも止まらぬ速さで刀を抜く。鋭い金属音が響き、霧が裂かれる。
空気が震える感覚が伝わってくる。しかしやはり、魔物には命中していない。
「リン、落ち着いて! あいつはまだそっちに行ってないよ!?」
シャルの声が響く。しかし、リンの目には恐怖と敵意の色が浮かんでいる。
「いえ! 確かにこちらに……っ!」
リンの声が裏返る。彼女の目に映る獣は、明らかに襲いかかってきているようだ。
リンの体が緊張で硬直しているのが見て取れる。
私はゆっくりと杖を掲げる。集中して、周囲の魔力の流れを感じ取る。
すると、奇妙な歪みが見えた。
霧の中に、不自然な魔力の渦が渦巻いている。その渦が生き物のように蠢いている。
その歪みは三つあった。私が見えているものと、それ以外にもあと二つ。
(やっぱり……これは幻覚。全員が違うものを見ている)
私は深く息を吸い、杖を大きく振る。
その動きに反応して、ドラゴンのような獣はピクリと動き、こちらに向かって猛然と進んでくる。
地面が震え、風を切る音が聞こえる。
「グガアアアアア――!」
(大丈夫……これは本物じゃない!)
獣の口臭、鋭い牙、湿った息。
牙がゆっくりと迫る中、私は構わず魔法を発動する。
獣の息遣いが、耳元で荒々しく響く……!
(幻覚解除魔法!)
青白い光が、私たちを包み込む。その光が霧を切り裂くように広がっていく。
周囲の空気が、一瞬で清浄になったように感じ、湿った感触も消えていく。
「うわっ! まぶしっ……!」
シャルが目を細め、リンが驚いた表情で周囲を見回している。
二人の目が、光に慣れようと瞬きを繰り返す。
光が霧を晴らす。そこには……何もなかった。
巨大な獣の姿は消え、ただの岩と木々が残されているだけだった。
湿った土の匂いと木々の香りがする。ごく普通の谷だ。
「え……? あれ? モンスターは……?」
シャルが困惑した声を上げる。彼女の剣が力なく下がる。
「ま、幻……だったんですね」
リンの声には、安堵と驚きが混じっている。
私はゆっくりと頷いた。首の動きに合わせて、髪が風にそよぐ。
「すごいねミュウちゃん! どうやって気づいたの?」
シャルが興奮した様子で尋ねる。彼女の目が、好奇心で輝いている。
「……ふ、ふたりとも……違うものを見てた、から」
私はそこらの風の音にもかき消されそうな声で答える。これでも結構声張ってるんだけどね……。
「なるほど……私たちが見ている光景が違うことに気づいたんですね。たしかに、少し会話が噛み合わなかったですし」
「さすがミュウちゃん! 頭いい!」
(頭が揺れるぅ~~)
シャルが私の頭を乱暴に撫でる。その手の感触が少し心地よい。暖かさが、頭から体中に広がっていくようだ。
「しかし……ミュウさんがいなかったらと思うと恐ろしいですね。
もし幻覚だと理解できたとしても、対処なんてできるかどうか……」
「そんな心配しなくても大丈夫だよリン! あたし達にはミュウちゃんがいてくれるし、あたしがミュウちゃんを守るから!」
不安がるリンにシャルが優しく声をかける。
その言葉に、リンの表情が少し和らぐ。空気が、少しずつ和んでいく。
「そうですね……ありがとうございます」
私は二人のやり取りを見ながら、ほっとした気持ちになる。
この霧の谷は、予想以上に危険だ。協力して乗り越えていかなければならないだろう。
「よーし! じゃあ、先に進もう!」
シャルが元気よく叫ぶ。その声に、私とリンは頷く。
霧が晴れた先には、古びた石造りの遺跡が姿を現していた。
その威容ある姿に、私は息を呑む。遺跡からは古い石の匂いと、かすかな埃っぽさが漂ってくる。
「これは……遺跡?」
リンの声には、畏怖の念が滲んでいる。彼女の目が、遺跡の壮大さに見開かれている。
「たしか、遺跡があることはわかってたんだよね。つまり、ここまでは来れた人がいたんだ」
「ええ。しかし、その中は明らかになっていない、ということは」
「遺跡を見つけた段階で帰ったのか、遺跡に入った人は戻ってきてない……とかかな?」
さらっと言うシャルの言葉が恐ろしい。
それはつまり、生きて帰れないほど危険な可能性がある、ということで……。
「誰も踏破してないなら、きっとすごい宝物がまだ眠ってるよ!」
だが、シャルの目はそんな不安など微塵も感じさせない色で輝いている。
ポジティブだなあ……。
「いい? 慎重に、みんなで気をつけながら進もう! そしてお宝はすべて頂こうっ!」
シャルが力強く言う。その内容に私は苦笑した。
私たちは、遺跡に向かってゆっくりと歩き始めた。
足元には、苔むした石畳が広がっている。石を踏む足音が、静かに響く。
遠くから、かすかに水の流れる音が聞こえた。
遺跡の入り口には、古代の文字が刻まれていた。
その意味は分からないが……どこかで見たことがある気がする……。
軽く文字をなぞってみると、風化した石の感触が指先に伝わってくる。
「さ、行こう!」
シャルの声に、私たちは頷く。私たちは、息を整えて遺跡の中へと足を踏み入れた。
面白い、続きが気になると思ったら、ぜひブックマーク登録、評価をお願いします!
評価は下部の星マークで行えます! ☆☆☆☆☆を★★★★★にして応援お願いします。




