第72話 寝落ち系聖女
朝食を終えた私たちは、将軍に会うため城へと向かっていた。
街は既に活気に満ち、露店から漂う焼き魚の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
新鮮な野菜を売る声や、鍛冶屋の金属を打つ音が朝の空気に溶け込んでいる。
人々の話し声や荷車の軋む音が、耳に心地よく響く。
通りを歩く人々の足音や、遠くで鳴く鳥の声も聞こえてくる。
しかし、私の意識はそれらの刺激を捉えるのがやっとだった。
昨夜からの疲労と眠気が、全身を重く包み込んでいる。
目の前がぼやけ、足元がふらつく感覚がする。
「ミュウちゃん、大丈夫?」
シャルの心配そうな声が聞こえる。
私は小さく頷いたつもりが、そのまま前のめりに躓いてしまった。
石畳に足を取られ、バランスを崩す。
「きゃっ! ミュウさん!」
リンが慌てて私を支える。彼女の腕の中で、私は瞬間的に意識が遠のきかけた。
リンの体温と、かすかな花の香りが伝わってくる。
「無理しないでよ、ミュウちゃん!? リン、ミュウちゃんを支えてあげて。あたしが荷物持つから」
シャルの声が、どこか遠くから聞こえてくる。
目を開けると、リンの心配そうな顔が目の前にあった。彼女の瞳が不安げに揺れている。
「大丈夫ですか? すごく眠そうですね……」
(む、むしろ2人はなんで平気なの……)
私は小さく頷き、何とか歩き続けた。
城までの道のりが、以前の何倍も長く感じられる。
足を引きずるような感覚で、一歩一歩前に進む。
城に到着すると、私たちは広間へと案内された。
重厚な扉が開くと、香木の甘い香りが漂ってくる。
足音が大理石の床に響き、天井の高さを感じさせる。
そこには、威厳ある中年の男性――将軍が座っていた。
前回会った時と同じく、床に直接置かれたクッションの上だ。
クッションの刺繍が、豪華な金糸で施されているのが目に入る。
彼の鋭い目が私たちを捉える。身につけた衣服は、前回とは違うデザインだが、やはり高級な布地で仕立てられているのが分かる。
「ようこそ。ミュウに、シャルに、リンだったな」
将軍の低く落ち着いた声が、静寂を破る。
その声に、私の意識が一瞬クリアになる。
広間の空気が、緊張感で張り詰める。
「試験官からの報告は受け取った。見事な活躍だったようだな」
リンが一歩前に出て、深々と頭を下げる。彼女の髪が、優雅に揺れる。
「はい、ありがとうございます。私たちを正式に霧の谷捜索隊に加えていただけるのでしょうか」
「うむ。お前たちの力は確かに認めよう。正式に霧の谷捜索隊として認可する」
その言葉に、シャルが小さく歓声を上げる。
リンの表情にも、安堵の色が浮かぶ。空気が少し和らいだように感じる。
「しかし、霧の谷は危険な場所だ。簡単に見つかるものではない」
将軍の声が、少し厳しさを増す。その声に、広間の空気が再び引き締まる。
「霧の谷と呼ばれる場所は、実は複数存在するのだと知っているか?」
「えっ……そ、そうなんですか?」
「うむ。『霧の谷ではないか』とされる場所は1つではない。
そして、そのいずれもが極めて踏破しづらい特徴を持つ。本物の霧の谷を見つけるのは容易ではない」
私は何とか意識を集中させようとするが、瞼が重く、将軍の言葉が遠くなっていく。
目の前がぼやけ、天井の模様が揺れて見える。
「伝説によれば、本物の霧の谷には不老不死の泉があるとされている。
しかし、その泉を守る者たちの存在もいて……」
将軍の声が、どんどん遠くなっていく。
目の前がぼやけ始め、体が傾いていくのを感じる。
耳鳴りのような音が聞こえ、視界が暗くなっていく。
「ミュウちゃん!?」
シャルの驚いた声が聞こえた直後、私の意識は完全に闇に落ちていった。
■
「ミュウさん? 大丈夫ですか?」
目を開けると、そこはどこか見知らぬ部屋だった。
柔らかなフトンの上で、私は横たわっていた。部屋には、かすかに草の香りが漂っている。
リンとシャルが、心配そうな顔で私を見下ろしている。
二人の顔が、ぼんやりとした視界の中でようやく焦点を結ぶ。
あれ……? どうなったんだっけ……?
「ごめんね、ミュウちゃん。そんなに眠かったなんて……ちょっと昼寝してから行くべきだったかな」
シャルの声には、申し訳なさが滲んでいる。
彼女の赤い髪が、窓から差し込む光に照らされて輝いている。
「一応将軍様も、困惑してはいましたが許してくださいました。『子供のやることだし……』と」
(そ、そんなに子供に見えるのかな……)
まぁ子供ではあるのかもしれないけど、そんなにかな……。
などと考えていると、だんだん頭がハッキリしてくる。
ゆっくりと背筋が冷えていき、自分がとんでもない無礼を働いた自覚が湧いてきた。ひいいぃ……!
「え、えと、あの……」
私は起き上がろうとしたが、頭がまだ重い。部屋が少し回転しているように感じる。
「無理しないで。まだちょっと休んでていいんだよ」
シャルが私の肩に手を置き、優しく押し戻す。むう……。私はフトンの中に戻る。
「ええ。将軍様が、この城の客室で休むよう手配してくださったんです」
リンがフトンの上から私の胸元に手を置く。その優しい感触が、安心感と眠気を誘う。
「それで、霧の谷のことなんだけどね。『捜索隊』って言っても、全員で一斉に行動するわけじゃないんだって」
「……?」
「『捜索隊』の権限を持ってると、霧の谷に行くための関所とかを通り放題だったり、正式に霧の谷に入る許可が降りたりするだけらしいよ」
(そ、そうなんだ。……私にはそっちのほうが嬉しいかも)
少なくとも、知らない人と旅をすることにはならないわけだ。
なら、気が楽かもしれない。ほっとした息が漏れる。
「ふわ……あぁ。なんか、あたしも眠くなってきたなぁ」
「!?」
シャルはひとつ欠伸をしたかと思うと、普通にフトンの中に潜り込んできた。
体温が近く感じられ、シャルの匂いがする……!
「ちょ、あの……シャルさん?」
「リンもせっかくだから寝ていきなよ! せっかく部屋貸してくれたんだし」
「いやいや! さ、さすがにまずいですよ。この部屋はあくまで、ミュウさんのための緊急用のもので……!」
リンの声が慌てふためいている。その声に、部屋の空気が少し緊張する。
そんな声とシャルの体温を感じながら、私は再び眠りに落ちていった。
柔らかな布の感触とシャルの吐息が心地よく、さっきより深い眠りに誘われる。
かすかに漂う石鹸の香りと、遠くで聞こえる鳥のさえずりが、安らぎを与えてくれる……。
……それから目を覚ますと、部屋は夕暮れの柔らかな光に包まれていた。
窓から差し込む金色の光が、壁に長い影を作っている。
天井の木目が、その光に照らされてより鮮明に浮かび上がる。
「あ、起きた?」
シャルの声に、私はゆっくりと体を起こす。
頭の重さはすっかり消え、体が軽く感じられた。
フトンから立ち上がると、足に心地よい感触が伝わってくる。
「よく寝たね! もう夕方だよ」
シャルは窓際に立ち、外を眺めている。
彼女の赤い髪が、夕日に照らされて輝いていた。
一回寝落ちしたのに、さらに遅れて目覚めるとは。
私は思っていたより疲れていたのかもしれない。
体を伸ばすと、関節がポキポキと音を立てる。
「さて、霧の谷の話をしましょう」
リンが部屋に入ってきた。彼女の手には、大きな地図が握られている。
ドアが開く音と共に、廊下からかすかに料理の匂いが漂ってくる。
「将軍様から、最初に向かうべき霧の谷の情報をいただきました」
リンは地図を広げ、私たちの前に置いた。古びた羊皮紙の上には、複雑な地形が描かれている。
山々や川、森が細かく記されており、その精密さに目を奪われる。
地図からは、かすかに古い紙と墨の匂いがした。
「私たちが向かうのは、『ヒスイドウ』と呼ばれる場所です」
リンが指さす先には、深い森に囲まれた渓谷が描かれていた。
渓谷の周りには、霧を表すような薄い線が墨で引かれている。
その線の濃淡が、霧の濃さを表現しているようだ。
「ここは、霧の谷の中でも特に神秘的な場所だと言われています」
「神秘的?」
シャルが興奮気味に尋ねる。
「霧が一年中立ち込めていて、中に入ると方向感覚を失うそうです。それに、霧の中になにか生き物がいるとも言われていて……」
霧の中に生き物が……。それってモンスターなのかな。
それとももう少し穏当な生き物なのだろうか。どちらにしても、少し不気味だ。
「それに、谷の奥深くには古代の遺跡があるとも言われています」
「遺跡かあ。もしかしたらマーリンの手がかりが見つかるかもね!」
その言葉に、私の心臓が高鳴る。鼓動が耳元で響くのが聞こえる。
マーリン――私の師匠であり、行方不明になった伝説の魔導王。
彼の痕跡を見つけられるかもしれない。その可能性に、胸が熱くなる。
「でも、危険も多いそうです。その霧の中では、人を惑わす幻影を見るとか。
中には、霧に呑み込まれて二度と戻ってこなかった冒険者もいるそうです」
その言葉に、部屋の空気が少し引き締まる。
冒険の興奮と同時に、危険への警戒心も芽生えた。
窓から入る風が、少し冷たく感じられる。
「大丈夫だよ。そういう搦手の相手は、ミュウちゃんが得意だから!」
シャルが明るく言う。……たしかに、『夢喰らい』とかも回復魔法で対処できた。
精神に作用する悪影響は、ある程度カットできるはずだ。その自信が、少し体を温めてくれる。
「よーし! じゃあ明日からさっそく準備を始めよう!」
シャルの声が、部屋中に響く。その声には、冒険への期待と興奮が溢れている。
彼女の声の振動が、床を通して伝わってくるようだ。
「まずは装備の確認と、食料の買い出しでしょうか。ええと、それから……」
リンが冷静に準備のリストを挙げていく。が、シャルはチッチッと舌を鳴らした。
「そういうのは、旅をしながら現地で買うんだよ! それも旅の醍醐味だからね!」
「そ、そういうもの……なんですか? わかりました」
リンはシャルの言葉を真に受けてしまった。いや……そういうものではない。
本当は予め買い込んでおいたほうが楽だと思う……けど、シャルのこだわりみたいなものだ。内心で小さくため息をつく。
窓の外では、夕日が沈みかけていた。
空が赤く染まり、雲が金色に輝き、幻想的な景色を作り出している。
「それじゃ、そろそろお暇しよっか! すっかり宿代わりに使っちゃって、申し訳ないことしたなぁ」
(本当にね)
次に将軍に会うときのために土下座のやり方を勉強しておいたほうがいいかもしれない。
ゴクリと喉が鳴り、血の気が引く。冷や汗が背中を伝う感覚がする。
私は2人の後について部屋を出る前、もう一度地図を見る。
(ヒスイドウ……か)
そこにマーリンの手がかりはあるのだろうか。私は期待と不安を胸に部屋を出た。
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