第71話 リンの過去
夜明け前の海岸。
波が砂浜に打ち寄せる音が静かに響き、空気は冷たく湿っていた。潮の香りが鼻をくすぐる。
砂浜に一人佇むリンの姿が、薄暗がりの中にぼんやりと浮かび上がる。
彼女の長い黒髪が、海からの冷たい風にそよいでいた。
私は静かに彼女に近づいた。
足音を立てないように気をつけながら、波の音に紛れて歩を進める。
砂が靴の下でサクサクと音を立てる。
それでもリンは私の気配に気づいたのか、ハッと振り返った。
彼女の髪が風に舞い、かすかな花の香りが漂う。
彼女の手が反射的に刀の柄に伸びる。
その目には警戒の色が浮かんでいた。月明かりに照らされた刀の鞘が、かすかに光る。
「……ミュウさん、ですか」
リンの声には緊張が混じっていた。
その声は、波の音にかき消されそうなほど小さい。
私はゆっくりと頷き、彼女の隣に並んで立つ。潮風が私たちの間を吹き抜ける。
リンは一瞬躊躇したように見えたが、やがて手を刀から離した。
金属音が小さく響く。彼女の表情が少しだけ和らぐ。
「ど、どうしてここに?」
私は黙ったまま、ただリンの顔を見つめる。
(ど、どうしてって言われても……どうしよう。なんて話せばいいのかな)
内心はただ戸惑っていただけなのだが、なんだか意味ありげに見つめたようになってしまった。
リンは私の沈黙に少し戸惑ったようだったが、やがて何かを理解したように小さくため息をついた。
その息が、冷たい空気の中で白く霞む。
「……私のことが気になったんですね?」
私は小さく頷く。すごい。察し力が高い。
リンの表情がさらに和らぎ、少し微笑んだように見えた。
その笑顔は、その向こうに広がる空のように淡く儚い。
「ありがとうございます。でも、私は大丈夫ですから。心配ありません」
彼女の言葉には、自嘲の色が混じっていた。声にかすかな震えが感じられる。
私は首を横に振り、ゆっくりと砂浜に腰を下ろす。
冷たい砂の感触が、ローブを通して伝わってくる。
そして、隣に立つリンを見つめた。リンが戸惑ったまま見つめ返す。
(立ち疲れたから座っちゃったけど、なんか変な空気になったな……)
「腰を据えて話をしよう、ということですね。……わかりました」
リンは少し躊躇したが、私の隣に腰を下ろした。うーん、いい方に解釈してくれてる……。
砂がサッと音を立て、彼女の呼吸が少し乱れているのが聞こえる。胸が小刻みに上下しているのが見えた。
「私は……自分が怖いんです」
リンの声が、波の音に紛れそうになる。
私は耳を澄まし、彼女の言葉に集中した。
「さっきの私は……本当の私ではありませんでした。制御不能な、まるで鬼のような……」
リンの言葉が途切れる。彼女の手が震えているのが見えた。
(あっ、ええと、その……)
私は左を見たり右を見たり、海を見たり空を見たりしたあと、静かにリンの肩に手を置いた。彼女の体温が、手のひらに伝わる。
彼女は一瞬びくりとしたが、すぐに力を抜いた。
肩の筋肉がゆっくりと緩んでいくのを感じる。
「あの力は……『鬼人化』と呼ばれています。危機的状況になると発動して、とてつもない力を発揮する。
でも、その代わりに理性を失ってしまうんです。血に飢えた獣のように、相手を斬ってしまう」
リンの声には、恐れと後悔が混じっていた。
波の音が、彼女の言葉に重なるように響く。
ボスを一撃で仕留めたあの瞬間のことだろう。
確かに、あの瞬間の彼女には鬼気迫るものがあった。
私は黙って聞き続ける。
胸の中で何かが痛むような感覚。冷たい風が、私たちの間を吹き抜ける。
「5年前……私の両親が何者かに襲われたんです。
その時、初めてこの力が目覚めた。でも……気がついた時には、両親も、襲ってきた者たちも……」
リンの言葉が途切れ、彼女は顔を両手で覆った。その肩が小刻みに震えている。
私は迷った。
声をかけるべきか、それとも黙っているべきか。声をかけるとしてもなんと言うべきか。
結局、私にできたのは、ただ隣にいることだけだった。彼女をじっと見つめる。
しばらくして、リンが顔を上げた。
その目は涙で赤く腫れていた。遠い朝日に照らされ、涙の跡が光っている。
「すみません。こんな姿を見せてしまって」
私は首を横に振る。髪が風になびき、頬をくすぐる。
「ミュウさん。あなたは、私とは違います」
リンの声に、少し明るさが戻っていた。
空の雲が流れ、微かに太陽の光が強くなる。海面が、淡い光を反射し始める。
「あなたの力は、人を癒やす力。私のような、破壊的な力とは違う」
(……それは……)
それは、どうなんだろう。
たしかに私はこの回復の力、いいものだとは思っている。
けど、私は自分では戦うこともできない。
ただシャルや、リンのような協力者を代わりに戦わせるだけだ。
そのことについて葛藤もするし、自力で戦える彼女たちを羨ましく思うこともある。
波の音が、風に吹かれて激しくなる。
「羨ましいです。人を傷つけるのではなく、癒やす力が」
リンの声には、憧れと羨望が混じっていた。
私は首を横に振る。そして、自分の胸に手を当てた。心臓の鼓動を感じる。
「……わ……私にも。つらいことは、ある……」
その言葉を発するのに、かなりの勇気とMPが必要だった。
さっきの盗賊団に使った全体回復魔法の2倍くらいかな……。
それでも、リンに伝えたかった。
彼女だけが苦しんでいるわけじゃないことを。
誰もがそれぞれ、何かの苦しみを抱えているものだ。
リンは驚いたように私を見つめた。
彼女の目が大きく開かれ、その中に朝日が映り込む。
「そうか……ミュウさんにも、苦しみがあるんですね」
私は小さく頷く。リンの表情が、少し和らいだように見えた。
彼女の顔に、かすかな笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます、ミュウさん。こんな情けない話を聞いてくれて」
私は微笑みを返す。そして、ゆっくりと立ち上がった。
ローブについた砂を払う。サラサラと砂が落ちる音がする。
同じようにリンも立ち上がる。
彼女の表情は、来た時よりもずっと穏やかになっていた。
朝日に照らされた彼女の顔は、柔らかな光に包まれている。
「少し、気が楽になりました。ミュウさんのおかげです」
(そ、そうかな……私、ただ座ってただけだけど……)
そんな私たちの前で、少しずつ空が明るくなっていく。
朝日が海面を赤く染め、新しい一日の始まりを告げていた。
空気は徐々に暖かくなり、潮の香りが鼻をくすぐる。
波の音が静かになり、代わりに目覚めた鳥たちのさえずりが聞こえ始める。
カモメの鳴き声が遠くからうるさく響いてくる。
私とリンは、砂浜に並んで立ったまま、その光景を黙って眺めていた。
砂が足元でサクサクと音を立てる。
潮風が二人の間を吹き抜け、髪を揺らす。風に乗って、かすかに磯の香りがする。
「きれいですね」
リンがポツリとつぶやいた。その声は柔らかく、先ほどまでの緊張は消えていた。
私も小さく頷く。確かに美しい光景だった。
朝日に照らされた海面が、まるで燃えているかのように赤く輝いている。
波が光を反射し、キラキラと眩しい。
「ミュウさん」
リンが私の方を向いた。
彼女の瞳に朝日が映り、琥珀色に輝いていた。その目には、決意の色が宿っている。
「霧の谷捜索隊に志願した理由を、話してもいいですか?」
私は少し驚いたが、すぐに頷いた。
リンの表情には、何かを決意したような強さが宿っていた。
「実は……私には2つの目的があるんです。
私の両親を殺した犯人を見つけること。そして、この力を制御する方法を見つけること」
彼女の拳が強く握られる。
その手の甲に浮かぶ血管が、朝日に照らされて浮き彫りになる。
「霧の谷には、数々の伝説が眠っているそうです。
それを追う中で、鬼人化を制御する術も見つかるかもしれない。
そして、もしかしたら……両親を殺した犯人の手がかりも」
リンの声には、悲しみと怒り、そして希望が入り混じっていた。
朝日に照らされた彼女の横顔は、凛々しく美しい。風に揺れる髪が、金色に輝いている。
「でも……やっぱり、怖いんです」
リンの声が震える。
「もし、鬼人化の制御を失ったら。仲間を……守るべき人たちを傷つけてしまったら」
私は黙ってリンの言葉に耳を傾けていた。彼女の不安と葛藤が、胸に痛いほど伝わってくる。
波の音が、その感情を後押しするかのようにけたたましく響く。
「だから、私は強くならなければいけないんです。この力を制御できるようにならないと……」
リンは自分に言い聞かせるようにそう呟く。
「ミュウさん、あなたはどう思いますか?
私のような危険な存在が……あなたたちと一緒に、捜索隊に加わっても……大丈夫でしょうか」
リンの問いかけに、私は少し考え込んだ。潮風が私たちの間を吹き抜け、沈黙を強調する。
確かに、彼女の力は危険かもしれない。でも……。
私はゆっくりと、リンの手を取った。
彼女の手は少し冷たく、震えていた。その手から、彼女の不安が伝わってくる。
「……だいじょうぶ!」
その一言を発するのに、私は全身の力を振り絞った。
喉が痛くなるほどの声量で、私の気持ちを伝える。
その声は、朝の静寂を破る。でも、そんなに大きな声ではなかった。
「ミュウさん……」
リンの目に、涙が浮かんだ。しかし、それは悲しみの涙ではなく、安堵と喜びの涙のように見えた。
その涙が、朝日に照らされて輝いている。私は顔が熱くなって、目を逸らした。
「ありがとうございます。その言葉を聞けて……本当に嬉しいです」
リンの表情が、少しずつ明るくなっていく。
彼女の顔から、緊張の色が薄れていくのが見える。
朝日の光が彼女の顔を照らし、温かな輝きを与えていた。
その光の中で、彼女の肌が柔らかく輝いている。
「私、頑張ります。この力を制御して、みんなを守れる存在になります」
リンの声には、新たな決意が宿っていた。その声は、朝の空気を震わせるほど力強い。
私は黙って頷き、彼女の手をぎゅっと握り返した。
彼女の手から、少しずつ温もりが伝わってくる。
そんな私たちの前で、太陽がゆっくりと昇っていく。
海面が金色に輝き、新たな一日の始まりを告げていた。
波の音が、穏やかなリズムを刻んでいる。
そのとき――
「おーい! ミュウちゃーん! リンー!」
砂浜の向こうから、元気な声が聞こえてきた。その声は、朝の静寂を一気に打ち破る。
振り返ると、シャルが大きく手を振りながら駆けてくるのが見えた。
彼女の赤い髪が朝日に照らされ、まるで炎のように揺れている。砂を蹴る音が、リズミカルに響く。
「もー、こんなとこいたの? 見当たらなくて心配したんだからー!」
シャルは息を切らしながら私たちの元にたどり着くと、両手を腰に当てて不満げな表情を浮かべた。
「ごめんなさい、シャルさん。私が勝手に出てきてしまって……」
リンが申し訳なさそうに頭を下げる。その声には、まだ少し緊張が残っている。
「うん、よろしい! それより、2人とも朝ごはん食べない? せっかくだし、港の市場で美味しいもの探そうよ!」
シャルの明るい声に、私とリンは思わず顔を見合わせた。
そして、揃って小さく笑みを浮かべる。朝日が私たちの顔を柔らかく照らしている。
「はい、ぜひご一緒させてください」
リンの声には、先ほどまでの暗さは消えていた。私も頷いて同意を示す。
「よーし! じゃあ行こう! 絶対美味しいの見つけるからね!」
シャルは両手を挙げて喜び、砂浜を駆けだした。
砂を蹴る音と、彼女の楽しそうな声が響く。
その後ろを、私とリンがゆっくりと歩いて続く。
3人の足跡が、砂浜に並んで残されていく。
朝日に照らされた港町が、私たちの前に広がっていた。
遠くから、市場の喧騒が聞こえ始める。
新しい一日の始まりを告げるかのように、街が活気づき始めていた。
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