第67話 アズールハーバー
私たちは船を降りて、桟橋を歩いていた。
長い航海の疲れが抜けきらない体に、陸の感触が新鮮だった。
足元のしっかりとした地面に、少し安心感を覚える。
潮風が頬をなで、塩の香りが鼻をくすぐる。
桟橋の木の板が、私たちの足音に合わせてきしむ音が響く。
目の前に広がる景色は、私たちの知っている世界とは全く違うものだった。
白い漆喰の壁に赤い瓦屋根の建物が立ち並び、どこか異国情緒あふれる街並み。
建物の形も不思議だ。屋根の端が反り返っていて、まるで空に向かって飛び立とうとしているみたいだった。
その曲線が、青空に映えて美しい。
「うわぁ！ すっごい綺麗！ ねえミュウちゃん、見て見て！」
シャルの声が響く。彼女の目は輝いていて、まるで子供のように興奮している。
その声に、近くにいたカモメが驚いて飛び立つ。
確かに綺麗な街だ。けれど――
（人が……多すぎる……！）
港には様々な国の人々が行き交い、とても賑やかだった。
商人らしき人々が大きな声で呼び込みをしている。その声に圧倒され、思わず身を縮める。
人が多いとそれだけで疲れちゃうよね……。
しかも、耳に入る言葉の多くは聞き慣れないものだ。
まるで波のように、知らない言語が押し寄せてくる。
「よーし、まずは宿を探そう！ 疲れてるでしょ？」
シャルが私の肩に手を回す。彼女の体温が伝わってきて、少し落ち着く。
小さく頷いて返事をする。さすが、シャルは何でもお見通しだなあ。
私たちは荷物を持って通りを歩く。
石畳の道は不規則な凹凸があり、歩くたびに靴底に伝わってくる。
そこには少し歩くたびに、新しい発見があった。
街角には見たこともない形の照明がぶら下がっている。
紙で作った器の中に火が入っているのだろうか？
赤や黄色の明かりが温かみのある雰囲気を醸し出していた。
その光が揺らめくたびに、通りに柔らかな影が落ちる。
通りを歩く人々の服装も珍しい。袖の長い、ゆったりとした衣服を着ている人が多い。
色とりどりの模様が施された布地は、目を引くほど美しかった。
布がこすれ合う音が、風に乗って聞こえてくる。
（あれは何だろう……？）
ある店の前に、奇妙な形の人形が飾られていた。
丸い顔に大きな目、赤い唇。底が丸くなっていて、倒しても起き上がるような仕組みになっている。
人形の表面は艶やかで赤く、光を反射していた。
「へぇ～、なんか面白い人形だね！ 押すと……うわっ、戻ってくる！」
シャルが人形を押すと、それは大きく傾いて、また元の位置に戻った。
その動きはなんだか面白い。人形が揺れる度に、中から小さな鈴の音が聞こえる。
そうして歩いていくうちに、私たちは宿らしき建物を見つけた。
入り口には見慣れない文字で何か書かれている。看板からは木の香りがほのかに漂う。
「これ宿？ だよね？ よーし、ここに入ろっか！」
シャルが意気揚々と中に入っていく。私はおそるおそる後に続いた。
戸を開ける際、鈴のような音が鳴った。
中は落ち着いた雰囲気で、床には柔らかそうな敷物が敷かれていた。
入り口には複数の靴が置かれている。どうやら靴を脱いで上がるらしい……。珍しい習慣だ。
足の裏に植物っぽい床の感触が伝わり、なんだか不思議な気分になる。
受付には、黒髪の女性が立っていた。
彼女は私たちを見ると、にこやかに笑顔を向けてきた。髪から、ほのかな花の香りがする。
「■■■■■■■■」
聞き慣れない言葉だった。私たちの言葉とは全く違う。
その音は柔らかく、まるで歌を聴いているようだった。
（やばい、全然通じない。何言ってるんだろう……？）
困惑する私の横で、シャルが前に出る。彼女の動きに、床が軋む音がする。
「あのー、泊まる？ 私たち！ 泊まりたい！」
シャルは大きな身振り手振りで、寝るような仕草をしていた。
その姿と動きが大袈裟で、思わず笑いそうになる。
シャルの動きに合わせて、彼女の鎧がカチャカチャと音を立てる。
受付の女性は困惑した表情を浮かべたが、すぐに何かを理解したようだった。彼女の目が少し和らぐ。
「ああ……宿泊、ですか？ 何泊？」
今度は私たちの知っている言葉だった。海を越えて共通語が通じるのは驚きだ。
宿泊業だけあって学んでいるのだろうか。女性の声には、少し訛りが感じられる。
「やった！ 通じた！ えーっと、2！ 2泊でお願いします！」
シャルが嬉しそうに身振りとともに答える。
どうやら通じたらしい。私はほっとため息をついた。緊張で固まっていた肩の力が抜ける。
手続きを済ませ、部屋に案内されると、そこにはまた驚きが待っていた。
部屋には大きな寝具が敷かれていたが、それは私たちが知っているベッドとは全く違うものだった。
薄いシーツのようなフトンというもので、直接床に敷かれている。部屋には木と紙の香りが漂う。
「へぇ～、これで寝るのかな？ 柔らかそう！」
シャルが飛び込むように寝転がる。
彼女の赤い髪が、白いフトンの上に鮮やかに広がった。生地がシャルの体重で軽く沈む音がする。
私も恐る恐る座ってみる。確かに柔らかくて、心地よい。フトンの感触が体に馴染む。
こんな床に近いところで寝るのは違和感があるけど、これはこれで楽しそうだ……。
荷物を置いて一息つくと、シャルが立ち上がった。
フトンから身を起こす際、布地がこすれる音がする。
「さあ、次は町を探検しよう！ あの大きな時計塔、見に行きたいな」
窓の外に見える大きな時計塔。街のどこからでも見える、まるでランドマークのような存在だ。
塔の頂上では、鳥が飛び交っているのが見える。
私は少し疲れを感じていたが、シャルの興奮した様子を見ると、つい頷いてしまう。
荷物を置いて少しは身軽になったし、一緒に行くことにした。
再び街に出ると、さっきよりも人が増えていた。
昼時なのだろうか、多くの人が食事を楽しんでいる。
活気に満ちた声が、通りを賑やかに満たす。
通りを歩いていると、露店がずらりと並んでいるのが目に入る。
そこでは様々な珍しいものが売られていた。
色とりどりの布や、キラキラと輝く装飾品。
見たこともない形の道具や、甘い香りのする菓子。
香辛料の強い匂いが鼻をくすぐり、思わずくしゃみが出そうになる。
（わぁ……綺麗……）
特に目を引いたのは、透き通るような美しい丸いガラスだった。
中の仕掛けが風に揺られるたびに、澄んだ音色を奏でている。
「ミュウちゃん、あれ見て！ なんか美味しそうなの売ってる！」
シャルが指さす先には、蒸気の立ち上る屋台があった。
そこでは、薄い皮で何かを包んだ食べ物を売っている。
香ばしい匂いが漂ってきて、思わず唾を飲み込む。
「それ2つちょうだい！」
「■■■！」
シャルは迷わず注文した。店主は慣れた手つきで、目の前で調理を始める。
熱した鉄板の上で皮を焼き、中に野菜や肉を包み込んでいく。
鉄板から立ち上る湯気と共に、食欲をそそる匂いが広がる。
完成した料理を受け取ったシャルは、うれしそうに一口かじった。皮がパリッと音を立てる。
「うま――」
……と思いきや、彼女の顔が真っ赤になる。額に汗が浮かぶのが見える。
「うわあああ、辛っ！ 水っ！」
シャルが慌てて水を探す姿に、思わず吹き出しそうになる。
どうやらかなり刺激が強いらしい。彼女の声が少しかすれている。
でも、笑ってばかりもいられない。料理は私も受け取ってしまった。次は私も食べないと……！
（……っ）
思いきって一口、大きめに頬張る。
皮は思ったより薄くて柔らかく、中の肉や野菜がすぐに味わえた。
（あ……おいしい）
たしかに辛いソースが中にあるが、意外といける。
むしろこの辛さが癖になるというか、舌がピリピリする感じがいいかも……。
喉の奥まで熱さが広がる。ちょっと鼻のあたりが痛んで涙が出そうになる。
「ミュ、ミュウちゃん大丈夫！？ 意外と辛いの平気なんだね……！」
棒がついた木の器で水を飲みながら戻ってくるシャル。
私は屋台の食べ物を食べ終えると、ほとんど手付かずなシャルのぶんの料理を見た。まだ湯気が立ち上っている。
「……」
「ぬぬ……！ たしかに捨てるのはもったいないけど……！」
「…………」
「わ、わかった……はい、ミュウちゃん」
「｜■■■■■■■■■■■■■■■《あんたらそれで会話通じてるの？》」
シャルは少し恥ずかしそうにその食べ物を私にくれた。
出会ったばっかりの頃、逆に私が魚の串焼きが全然食べ切れなくてシャルに食べてもらったっけ……。
そのことを思い出して少し懐かしくなる。シャルの頬が赤くなっているのが見える。
そんな昼食を終えて（シャルは足りないので別のものを食べた）露店を抜けると、いよいよ時計塔が目の前に迫ってきた。
その大きさは圧巻で、首を思い切り後ろに反らさないと頂上まで見えないほどだ。
塔の表面には複雑な模様が刻まれていて、まるで塔全体が一つの芸術作品のようだった。
石造りの塔からは、どこか古めかしい匂いがする。
時計の文字盤は、私たちの知っているものとは少し違う不思議な記号が並んでいる。
時を刻む音が、かすかに聞こえてくる。
「すごいねぇ。きっとここからなら街中が見渡せるんだろうなぁ」
シャルが期待に胸を膨らませる。私も少し興味が湧いてきた。
しかし、塔の入り口に立っていた警備員らしき人が、私たちに何か言葉をかけてきた。
「｜■■■■■■■■■■■■《入るには入場料が必要です》」
「ん？ なになに？」
「あー……入場料！ 5！」
「あっ、お金かかるんだ！ そりゃそうか」
シャルが驚いた声を上げ、銅貨を5枚彼に渡した。すると彼は首を傾げる。
「これじゃない」
「え？ これじゃないって……」
「……両替、かも」
私は閃いたことを彼女に伝える。
外国人向けの屋台ではそのまま私たちの大陸の金が使えたが、他のところでは両替が必要なんじゃないだろうか？
「ああ、そっか！ すっかり忘れてたよ。じゃ、先に両替しに行こうか！」
シャルの声に頷きながら、私たちは時計塔を後にした。
周囲を見回すと、通りの角に小さな両替商――とも思われる、お金の絵が描かれた看板が目に入る。
店に近づくと、中年の男性が笑顔で出迎えてくれた。
彼の服には、この地方特有の模様が刺繍されている。
「いらっしゃい、お嬢さんたち。両替かな？」
男性は私たちの言葉を流暢に話した。さすがは商売人だ。
「うん！ この金貨、地元のお金に替えてほしいんだ」
シャルが金貨を2枚取り出す。
本当はもっと大量に持ってはいるが、とりあえず必要な量だけ換金することにしたのだ。
男性はそれを受け取ると、にやりと笑った。その笑顔に、何か不穏なものを感じる。
「ふむふむ。では、これが相当額ですよ」
男性が差し出したのは、小さな銀貨が10枚ほど。
私たちの知識ではなんとも言えないが、これは少なすぎる……ような気がする。
（おかしい……）
私が眉をひそめていると、シャルも首を傾げた。
「えっと、これって……少なくない？ ホントにこれで合ってる？」
「いやいや、これが相場ですよ。西方の金貨にはこれくらいが普通です」
男性の声のトーンが少し強くなる。私は萎縮し、シャルの後ろに下がった。
シャルも少し釈然としない様子で頬を掻いている。
そんな困惑する私たちの背後で、突然、凛とした女性の声が響いた。
「■■■■■■■■■■！ ｜■■■■■■■■■■■■■《外つ国の人々に阿漕な真似を》！」
振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
黒髪を高く結い上げ、腰には剣らしいものを差している。
この地の人々と同じように、布が多めな衣服を身に着けていた。
女性は燃えるような赤い瞳を持っていた。
厳しい眼差しで両替商を睨みつけている。
両替商の男性は、女性を見るなり顔色を変えた。額に冷や汗が浮かぶのが見える。
「り、リンどの！ これは……その……」
男性が慌てふためく様子に、女性――リンと呼ばれた人物は、さらに厳しい口調で何かを言い放った。
その声音には威厳が感じられる。
「■■■■■■■■！ ｜■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■《このまま衛士たちに通報してもよいのですよ》？」
リンの言葉に、男性は頭を深々と下げた。彼の態度が一変する。
「申し訳ありません！ こちらが正しい金額です！」
男性は慌てて、先ほどの倍以上の量の銀貨と銅貨を差し出してきた。
シャルは驚いた表情で、それを受け取る。
「えっと……ありがとう？」
シャルが両替商にお礼を言うと、男性は再び頭を下げた。その額には大粒の汗が浮かんでいる。
リンは私たちの方を向くと、にっこりと微笑んだ。
その笑顔は、先ほどの厳しい表情からは想像もつかないほど柔らかい。
「■■■■■■■？」
彼女の言葉は理解できなかったが、どうやら私たちに話しかけているようだ。
「あの、ありがとう！ 助かったよ！ あたし達、こっちの大陸の常識はほとんどなくてさー」
シャルが感謝の言葉を述べる。私も小さく頭を下げた。
リンは少し困ったような表情を浮かべると、ゆっくりとぎこちない発音で話し始めた。
「あ、あなたたち……観光？ 旅行？」
彼女の言葉は拙いながらも、何とか意味は通じる。シャルは目を輝かせて答えた。
「うん！ 色々あってね、こっちの大陸に冒険しに来たんだ」
リンはゆっくりと頷くと、また何か言葉を探すように口ごもった。
「わ、私……案内する。よろしければ」
「わぁ、本当！？ ありがとうリン！」
私も小さく頷く。リンのような地元の人に案内してもらえるなら、きっとさっきみたいな揉め事も起こりづらいだろう。
リンは照れくさそうに微笑むと、私たちを促して歩き始めた。
彼女の歩く姿は美しく、周囲の人々の視線を集めている。
私たちはリンの後に続き、アズールハーバーの街を探索することになった。
風に乗って、どこからか笛の音が聞こえてくる。その音に、私は心が踊るような気がした。
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