第66話 入港と旅の始まり
巨大な触手が海龍号を取り囲む中、船上は一瞬の静寂に包まれた。
潮の香りと、異様な生物臭が混ざり合う。
しかし、その静けさはすぐに打ち破られる。
「全員、持ち場に着け!」
ガランの号令と共に、船員たちが一斉に動き出す。足音が甲板に響き渡る。
武器を手にする者、大砲の準備をする者、帆を操作する者。
それぞれが役割を果たすべく、慌ただしく動き回る。
金属のぶつかる音、ロープを引く音が入り混じる。
「ミュウちゃんは回復に専念して。あたしが前線で守るから!」
シャルが大剣を抜き放つ。刃が月光を受けて輝く。鞘から抜かれる剣の音が鋭く響く。
彼女の目には、いつも通りの余裕と決意があった。
突如、巨大な触手が船を叩く。
甲板を打ち砕かんばかりの衝撃に、船全体が軋むような音を立てる。
木材が割れる音と、人々の悲鳴が混ざり合う。
「くっ! てやああっ!」
シャルが剣を振るい、触手を斬りつけた。
切られた触手から緑色の体液が噴き出し、甲板を濡らす。強烈な生臭さが鼻をつく。
「やったぞ!」
歓声が上がるも束の間、切断された触手はみるみるうちに再生していく。
再生する際の、ギチギチとした不気味な音が耳に届く。
「な、なにぃー!? 再生した……って、それはもういいか」
驚愕の声が響く中、シャルは冷静だった。
たしかに、なんでか私たちの相手は皆なんか再生してばかりだもんね……。
その時、別の触手が横から船を激しく揺さぶった。
船員たちが転げ、悲鳴が上がる。体が宙に浮く感覚と、甲板に叩きつけられる痛みが走る。
「ミュウちゃん!」
シャルの叫びに、私は即座に立ち上がった。
(全体回復魔法!)
青白い光が船全体を包み込む。魔法の温かさが体を包む。
転んだ船員たちの傷が癒え、すぐに立ち上がっていく。
「す、すげぇ……! お嬢ちゃん、ありがとよ!」
感謝の言葉が飛ぶ中でも、クラーケンの攻撃は止まない。
次々と触手が襲いかかり、船は大きく揺れる。波しぶきが顔にかかり、冷たさと塩辛さを感じる。
「このままじゃ船が持たねぇ!」
ガランの声に焦りが混じる。甲板には大きな亀裂が走り、あちこちから軋む音が聞こえる。木材が割れる音が不吉に響く。
(物体回復魔法!)
私は杖を振るう。淡い緑色の光が船を包み、傷んだ箇所が徐々に修復されていく。木材がくっつく音が聞こえる。
「おお! 船が……マジかよ!?」
船員たちの驚きの声が上がる。
しかし、それも束の間。クラーケンの攻撃は激しさを増すばかりだ。
「先にこいつをどうにかしないとね。船を治し続けても限界があるし!」
シャルはそう冷静に分析しつつ、次々と襲い来る触手を切り払う。
彼女の動きは素早く、的確だ。剣と触手がぶつかる音が鋭く響く。
しかし、切断された触手はすぐに再生してしまう。
クラーケンも消耗はするだろうが、このままではいつまでも戦い続けなければならないかもしれない。
他の船員たちも必死に戦っている。
大砲で触手を吹き飛ばしたり、銛を打ち込んだりと、あらゆる手段を尽くす。
だが、クラーケンの巨体に比べれば、それらの攻撃は蚊に刺されるようなものみたいだ。
「くそっ! 何でこんなやつがいるんだぁ!?」
「こいつ、どうすれば死ぬんだよ! デカすぎるぞ!」
戦いが続くにつれ、船員たちの疲労が蓄積されていく。
動きが鈍くなり、攻撃を避けきれない者も出てくる。汗の匂いと、疲労した息遣いが漂う。
「ぐあっ!」
触手に弾き飛ばされた船員が甲板に叩きつけられる。
悲鳴と共に、骨の折れる鈍い音が聞こえた気がした。
(中回復魔法!)
私は即座に杖を掲げ、魔法を発動する。
船員の体が光に包まれ、骨が元の位置に戻っていく。
「いでええ、ほ、骨がぁ……!? な、なんだ? 痛くねぇぞ!?」
船員は震える声で叫び、驚く様子を見せる。それから不思議そうに立ち上がり、再び戦いに身を投じていく。
そんな中、シャルの叫び声が響く。
「みんな、あれ見て! あいつの頭が出てきたよ!」
言葉の途中、海面が大きく盛り上がる。
それは、まるで小さな島が浮かび上がるかのようだった。水しぶきが高く上がり、船を濡らす。
やがてその正体が明らかになる。丸々とした巨大な頭部と、それを取り巻く無数の触手。
筒状の口に、底なしの闇を思わせる巨大な目。
タコのようなクラーケンの頭部が、ついに姿を現したのだ。
クラーケンの体からは、腐敗した魚の強烈な臭いが漂ってくる。
「な、なんてでかいんだ……! こんなやつは初めてだぞ!」
ガランの声が震える。確かに、その大きさは想像を絶する。
これだけ大きな船でも、クラーケンにとっては玩具のようなサイズになるだろう。
クラーケンは大きく空気を吸い込むと、轟音と共に船に近付いてくる。
「避けろ!」
ガランの号令と共に、船は大きく旋回する。
同時に、クラーケンの口から黒い弾のようなものが撃ち出された。
かろうじて避けたものの、その急旋回で船は大きく傾く。
「うわあっ!」
甲板上の多くの者が転倒し、中には海に投げ出されそうになる人もいた。
それを見た他の船員たちが、すかさず彼らを引き上げる。
ロープが張る音と、救助される人々の悲鳴が混ざり合う。
「た、助かった……ありがとう!」
「おう! もっと大砲を撃ち込んでやれ!」
しかし、安堵する間もない。クラーケンの攻撃は、さらに激しさを増していく。
「このままじゃ船が沈む! 船を捨てるか……!?」
ガランの声に、焦りと諦めが混じる。確かに、このままでは全滅しかねない。
でもそうなったら私はおしまいだ……! 私は相変わらず泳げないし、溺れてしまうこと間違いなし。
そんな中、シャルが再び叫んだ。
「あいつの目を狙って! 弱点かもしれない!」
その言葉に、船員たちは微かに希望を取り戻す。
「よし、みんな、目を狙え!」
ガランの号令と共に、一斉攻撃が始まる。
銛、大砲、投石……あらゆる手段を使って、クラーケンの目を狙う。大砲の轟音、銛が空気を切る音が響く。
しかし、クラーケンは狡猾だった。
触手を盾のように使い目を守る。なかなか決定打を与えられない。
「まったく、めんどくさいなぁ! だったらもう……!」
シャルは一瞬のためらいのあと、決断する。彼女は勢いよく船から飛び出したのだ。
「はあああああっ!」
そのまま触手を踏み台にし、再び大きく跳躍する。
触手から触手へと跳び移り、クラーケンの顔に接近していく。彼女の姿が、月を背に夜の海を飛び上がる。
「くらえぇっ!」
そしてついに、シャルの剣がクラーケンの目を貫いた。
巨大な魔物が痛みに悶え苦しむ。剣が目を貫く水音と、クラーケンの悲鳴が耳を劈く。
「ギャアアアアアアアア――!!」
その瞬間、クラーケンの頭がズブズブと海に沈んでいく。
海面に黒い血が浮かび、広がっていく。血の生臭い匂いが、潮風に乗って漂ってくる。
「や、やった! やったぞ!」
「でもおい、戻ってこれるか姉ちゃん!?」
船員たちの驚きとともに、シャルを心配する声が響く。
シャルが攻撃を仕掛けたクラーケンの頭部は船からかなり離れた位置だ。
クラーケンの頭はどんどん沈んでいく。このままじゃシャルが溺れる……!
私は足元に落ちた千切れた縄を見る。
これしかない。
千切れた小さな縄の断片をシャルに向かって投げる。
「……シャルっ!」
「おおっと!?」
ぎりぎり残ったクラーケンの頭部の足場で、シャルはなんとか投げられた欠片をキャッチした。
同時に、私は船の上に残った縄に杖をかざす。
(物体回復魔法!)
「わっ!? ひ、引っ張られる!?」
船に残った縄が元に戻るため、千切れた断片を引き寄せる。
それを手にしたシャルも一緒に船へと引っ張られる形で浮遊する。
そうして、シャルは無事に船まで戻ってきた。私は深く息を吐く。
しばしの静寂の後、歓声が沸き起こった。
「や……やった! あんなのを倒したぞ!」
「お嬢ちゃんたち、すげぇじゃねえか!」
喜びに沸く船員たち。シャルも、疲れた顔に笑みを浮かべる。
「やったねミュウちゃん! ありがとね、助けてくれて!」
私も小さく頷く。しかし、安堵するのはまだ早いようだ。
「悪いが、また船を修理してもらっていいか? さっきの攻撃で傷んじまってる」
ガランの声に、私は小さく頷く。
再び船に物体回復魔法を発動すると、ピキピキという木の音とともに船の細かい傷が消えていく。
「すっけぇな、オイ。船の整備士とかやっても稼げるんじゃないか?」
「だめだめ! ミュウちゃんはあたしと一緒に冒険者をやるんだから!」
私を後ろから抱きしめるシャル。ちょっと恥ずかしいが、どこかその温もりに安心する。
シャルの体温と、潮風で冷えた私の体は対照的だった。
「へっ、『そういうことなので……』みたいな顔しやがって。わかったわかった」
ガランは私の表情に肩をすくめて苦笑いする。
静寂を取り戻した海を、船は進んでいった。波を切る音と、帆がはためく音だけが聞こえていた。
■
クラーケンとの戦いから数日が経ち、航海も終盤に差し掛かっていた。
船の揺れも穏やかになり、乗組員たちの表情にも安堵の色が見える。
まだ暗い夜明け前、私は甲板に立っていた。冷たい潮風が頬を撫で、髪を揺らす。
潮の香りが鼻をくすぐる。波の音が静かに響き、遠くでカモメの鳴き声が聞こえる。
木の甲板が足の下でわずかに軋む音がする。
空はまだ暗く、星々が瞬いている。
東の空がわずかに明るくなり始めているのが分かる。
空気は冷たく、肌がピリピリとする。
「ミュウちゃん、こんな早くから起きてたの?」
シャルの声に振り返ると、彼女が毛布にくるまって近づいてきた。足音が甲板に響く。
「朝は寒いからね。これ、使って」
シャルが差し出した毛布を受け取り、肩に掛ける。
温かい。シャルの体温が残っているようだ。毛布からは、かすかに彼女の香りがする。
「もうすぐ東方大陸だね。楽しみだな~!」
シャルの声には、期待と少しの緊張が混じっている。
私も小さく頷く。胸の中で、不安と期待が入り混じる。
徐々に東の空が明るくなっていく。
暗かった海面に、かすかな光が差し始める。海の匂いがより強くなる。
「おお、見てミュウちゃん! 日の出だ!」
シャルの声に促され、東の空を見る。
水平線の向こうから、赤い太陽が顔を覗かせ始めた。
真っ赤な日輪が、ゆっくりと姿を現す。
その光が海面を照らし、きらきらと輝く道を作る。目が眩むほどの輝きだ。
空の色が変化していく様は圧巻だった。
漆黒だった空が、紫や赤、オレンジへと移り変わっていく。
雲の端が金色に縁取られ、まるで天国の光景のようだ。
空気が少しずつ暖かくなっていくのを感じる。
「わぁ……きれい……! 海の上で見る太陽っていいね!」
シャルが息を呑む。その横顔が、朝日に照らされて輝いている。
日の出とともに、海も活気づき始める。
波の音が大きくなり、風も少し強くなった。
カモメの鳴き声も増え、朝の訪れを告げているようだ。海の生き物たちの動きが感じられる。
「おはよう、お嬢ちゃんたち。朝が早いねぇ」
ガランの声がする。振り返ると、彼が操舵輪のところに立っていた。
彼の声には、長旅の疲れと安堵が混じっている。
「船長、おはよう! 東方大陸はもうすぐ?」
「ああ、その通りだ。見ろ、あそこに見えるだろう?」
ガランが指さす方向を見ると、かすかに陸地らしきものが見えた。
まだ霞んでいて、はっきりとは分からない。目を凝らさないと見えないほどだ。
「本当だ! ミュウちゃん、見える?」
シャルが興奮した様子で私を抱き上げて遠くを見せようとする。
そ、そんなことしなくても見えるって……! 彼女の体温が伝わってきて、少し恥ずかしい。
私も不満ながら、改めて目を凝らして見てみる。
水平線の向こうに陸地の影が見える。太陽が昇るにつれ、その姿がはっきりしてくる。
遠くに山々の稜線が見え、その手前に港町らしきものが広がっている。
山々の頂きに雪が光っているのが見えた。
「あれが今回の目的の港町、アズールハーバーだ」
ガランが誇らしげに言う。彼の表情に、緊張が解けていくのが見えた。
「アズールハーバー……」
シャルがその名を繰り返す。その声には、これから始まる冒険への期待が溢れているようだった。
船は、ゆっくりとその港に近づいていく。波を切る音が大きくなり、潮の香りが強くなる。
白い建物が立ち並び、その屋根は赤の瓦で覆われている。
港には大小様々な船が停泊し、すでに活気に満ちている様子が見て取れる。船の帆が風にはためく。
町の中心には大きな時計塔が立っており、その先端が朝日に輝いている。
時計塔の周りには広場があり、すでに人々が行き交っているのが分かる。
遠くから、鐘の音が聞こえてくる。
「すごいねぇ! ホントに海を渡ったんだね、あたしたち!」
シャルの声が感激に満ちている。私も同じ思いだ。胸が高鳴るのを感じる。
あんまり遠くに行くのは好きじゃなかったけど、シャルに影響されたせいか……今では遠出も、旅も、いつの間にか好きになっていたようだ。
海を越えたことに、疲労よりも達成感を強く覚える。
港に近づくにつれ、町の匂いが漂ってくるようだ。
魚の匂いや、まだ知らないなにかの温かな香り。鼻をくすぐる様々な香りに、期待が高まる。
「よし、入港の準備をするぞ! みんな、持ち場に着け!」
ガランの号令で、船員たちが動き出す。
帆を巻き、錨を下ろす準備が始まる。ロープを引く音、号令を掛け合う声が響く。
船が徐々に速度を落とし、港に近づいていく。
波を切る音が小さくなり、かわりに港の喧噪が聞こえてくる。
人々の声、荷物を運ぶ音、商人たちの呼び込みの声。
それらが混ざり合って、独特の雰囲気を作り出している。市場の活気が伝わってくる。
「ミュウちゃん、ついに着いたね!」
シャルの顔には冒険への期待と、少しの緊張が浮かんでいる。
私も小さく頷く。ここから、私たちの新たな冒険が始まるのだ。
船が岸壁に横付けされ、船員たちが綱を投げる。
港の作業員たちがそれを受け取り、しっかりと結び付ける。
「よし、到着だ! お嬢ちゃんたち、気をつけろよ。東方大陸は危険がいっぱいだからな」
「大丈夫だって、あたしたちなら! なんたってクラーケンを仕留めたんだからね!」
シャルが私を見る。その目には、強い信頼が宿っている。
私も頷いて応えた。私たちの間に、言葉なしの理解が流れた気がした。
「へっ、そりゃ違いねぇ。それじゃあな! 元の大陸に戻りたきゃ声かけてくれ。都合がよかったらまた送ってやるよ」
「ありがとなぁ、冒険者の嬢ちゃんたち! 生きてここに来れたのはあんたらのおかげだ!」
彼らの言葉がこそばゆく感じる。だけど、その感謝の気持ちは受け取っておきたい。
船から降りる準備をしながら、私は深く息を吐いた。
未知の大陸での冒険。そして、マーリンの手がかりを探す旅。
朝日に照らされたアズールハーバーが、私たちを迎え入れた。
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