第59話 心を癒やす魔法(後編)
時は流れ、場面は一転する。
グレイシャル帝国の首都、巨大な氷の城塞の前に広がる広場。
冷たい風が吹き抜け、人々の息が白く凍る。
空には灰色の雲が低く垂れ込め、不吉な雰囲気を醸し出している。
雪がちらつき始め、冷たい結晶が人々の頬を刺す。
広場には大勢の民衆が集まり、ざわめきが渦巻いている。
不安と興奮が入り混じった声が、寒気と共に広がる。
その中心に、一つの火刑台が設置されていた。
乾いた薪の山と、そこに立てられた一本の柱。
その周りを、重装備の兵士たちが取り囲んでいる。
鎧のこすれ合う音と、剣を握る手の震えが、緊張感を高めている。
「聖女アリアを連れて参れ!」
厳めしい声が響き渡る。
群衆が静まり返る中、両手を鎖につながれたアリアが兵士たちに連れられてくる。
鎖の音が、冷たい空気を切り裂く。
その姿は、かつての輝きを失っていた。白いローブは汚れ、黒髪は乱れている。
しかし、その目には今なお強い意志の光が宿っていた。
「聖女アリア。汝は邪龍と共謀し、我が国の平和を脅かした。その罪により、火刑に処す」
裁判官の声が響く。その声には、怒りと恐れが混ざっている。
声が広場全体に響き渡り、空気がさらに重くなる。
「私は無実です。ヴェグナトールと話をしていただけです。彼は……」
アリアの声が遮られる。その声は弱々しくも、毅然としていた。
「黙れ、魔女め! 汝の言葉など、もはや誰も信じぬ」
群衆からも非難の声が上がる。怒号が寒空に響き渡る。
かつては彼女を慕っていた人々の目に、今は恐怖と憎しみの色が宿っている。
その視線が、まるで有形のものであるかのようにアリアを包み込む。
アリアは静かに目を閉じる。
その表情には、悲しみと共に、何か覚悟のようなものが浮かんでいた。
長い睫毛が、僅かに震えている。
「皆さん、どうか……」
再び遮られる声。兵士たちがアリアを火刑台へと連れていく。
彼女の足取りは重く、しかし揺るぎない。雪を踏む音が、静寂を破る。
薪の山に登らされ、柱に縛り付けられるアリア。
縄が肌に食い込む音が、かすかに聞こえる。
兵士が松明を掲げる。その炎が、周囲の空気を歪める。
そのとき、アリアは群衆に向かって静かに語りかけた。
「皆さん、私はあなた方を恨みません。ただ、どうかこれからも……幸せに、他者を踏みつけずに生きて――」
「火を放て!」
裁判官の声と共に、松明が投げ込まれる。パチパチと音を立てて、炎が薪を舐め始める。
煙が立ち昇り、アリアの姿が徐々に見えなくなっていく。焦げる木の匂いが鼻を突く。
「――――っ!!」
アリアが声にならない悲鳴を上げる。その声が、群衆の心を揺さぶる。その時だった。
「グオオオオォォォ!!」
轟音と共に、巨大な影が空を覆う。ヴェグナトールだ。
その翼が空気を切り裂く音が耳を劈く。
その姿を見た群衆が悲鳴を上げ逃げ惑う。
足音と悲鳴が入り混じり、混沌とした音の渦が広がる。
「ガアアアァァァ!」
ヴェグナトールの咆哮が響き渡る。地面が震え、建物のガラスが割れる音がする。
しかし、すでに手遅れだった。
炎は薪の山全体に広がり、アリアの姿は炎に包まれほとんど見えない。
熱波が押し寄せ、周囲の雪が一瞬で蒸発していく。
ヴェグナトールは地面を砕きながら着地すると、炎に向かって突進する。地面を踏みしめる音が、轟音となって響く。
処刑台がいともたやすく壊れ、炎に包まれたアリアが地面を転がった。
木材が砕ける音と、体が地面に叩きつけられる鈍い音が重なる。
「アリア……」
ヴェグナトールの声には、怒りと共に深い悲しみが込められていた。
その目には、今まで見たことのない感情が宿っている。
その声が、周囲の喧噪をも一瞬で静めた。
炎の中から、かすかにアリアの声が聞こえてきた。
その声は、炎のパチパチという音にかき消されそうになりながらも、確かに届く。
「ヴェグナトール……約束は、守ってくださいね」
その声は弱々しく、しかし決意に満ちていた。
「馬鹿な! この期に及んで何を言う。言え! この人間どもを皆殺しにしろと我に願え!
そうすれば、こんな人間どもは一瞬で焼き尽くしてくれるぞ……!」
ヴェグナトールの声が震える。
「人間は……美しいものなのです。たとえ、こんな時でも……」
アリアの声が途切れる。炎の音だけが静寂を破る。
ヴェグナトールは動けずにいた。
アリアが焼けていくのを、ただ呆然と見つめている。
そして、アリアの肉体は炎の中で、動かなくなった。
焼ける肉の匂いが、周囲に広がる。
ヴェグナトールは首をもたげ、人間たちを見る。その目には、底知れぬ怒りが宿っていた。
「や、やはり……アリアが邪龍と共謀していたのは事実だったのだ!」
「あの龍が聖女を助けに来たのが何よりの証拠!」
人々の声が、恐怖と共に広がる。その声に、ヴェグナトールの怒りが頂点に達する。
「グァアアアアアッ!」
ヴェグナトールの咆哮が天を突き抜ける。その声に、残っていた人々も逃げ出していく。
やがて炎が収まると、そこにはアリアの姿はなく、ただ灰だけが残されていた。
焦げた木材の匂いと、かすかに残る肉の焼ける匂いが、鼻をつく。
ヴェグナトールはその灰に顔を近づける。
その目には、深い悲しみと後悔の色が宿っていた。
鼻先から吐く息が、灰を僅かに舞い上がらせる。
「アリア……。賭けは、貴様の勝ちだ。
約定は守ってやろう。今後100年、我がこの国を襲うことはない」
その言葉と共に、ヴェグナトールの体から黒い霧のようなものが立ち昇る。
その霧は、まるで呪いのように周囲に広がっていく。空気が重く、冷たくなる。
「くく……100年か。くっくっく……! たかが100年!」
ヴェグナトールの目に、復讐の炎が灯る。
「100年の安寧、せいぜい貪るがいい。平和に肥え太った蛆虫どもを、存分に苦しめてくれようぞ!」
その言葉と共に、ヴェグナトールは大きく羽ばたき、空へと飛び立つ。
翼が空気を切り裂く音が響き渡る。その姿が、灰色の雲に飲み込まれていく。
静寂が訪れる。ただ風だけが、アリアの灰を静かにさらっていった。その音が、悲しみを一層深くする。
■
――場面が変わる。
私とヴェグナトールの意識は、現実世界に戻った。
結界の中、私たちは向かい合っていた。周囲の空気が、急に現実味を帯びる。
(……これが……心を癒やす魔法、の力……)
私は魔法によってヴェグナトールの過去を知り、彼の「心に触れた」のだ。
彼の悲しみを知り、その心に寄り添った……。
その経験が、私の体の中で余韻のように残っている。
ヴェグナトールの目には、かつて見たことのない感情が宿っている。
怒りと悲しみ、そして深い後悔の色。その目は、まるで人間のように感情豊かだった。
「おまえは……全てを見たのだな」
その声には疲れが混じっていた。
そして、声色はいくらか穏やかなものに変わっている。その声が、私の心に深く響く。
私は静かに頷く。言葉は必要なかった。
「アリアは……最後まで、愚かだった」
ヴェグナトールの声が震える。
気付けば、私の目からは涙が流れだしていた。頬を伝う涙の温かさを感じる。
「……っ」
「何故に泣く? 人間よ……」
ヴェグナトールは微かに私に顔を近づける。
その目は私を見定めようとしているようだった。彼の吐息が、私の顔にかかる。
「……わからない……けど……」
言葉にならない感情が、私の胸の中で渦巻いている。
とても悲しい出来事だった。そして、涙を流しているのは私だけではなかった。
ヴェグナトールの目から、とても大きな涙が溢れていく。
その涙が地面に落ち、小さな水たまりを作る。
「涙……我が……なぜ」
ヴェグナトールの声が、困惑と共に響く。
なんとなくだが、私にはわかっていた。
ヴェグナトールは、本当は悲しみたかったし、泣きたいとも思っていた。
それほどにアリアを大切に思っていた。その思いが、彼の心に触れた私にはわかる。
しかし、その別れが強烈なものであったこと。
そして邪龍としての矜持から、悲しみを怒りに置き換え、復讐に身を投じた。
その怒りが、彼の心を長い間支配していたのだ。
アリアの体を借りて皇帝に取り入って、国の民を苦しめ。
アリアの名誉を証明するかのように、「聖女」を処刑し始めた。
その行為が、彼の心をさらに硬く、冷たくしていった。
その怒りを、「心を癒やす魔法」は癒やしたのだ。残ったのはただ、喪失の悲しみだけ。
ヴェグナトールは今初めて、アリアの死と向かい合ったのだ。その現実が、彼の心を震わせている。
ゆっくりと、私はヴェグナトールに近づいていく。足音が、静寂を破る。
ヴェグナトールが呻く。
私と彼を包む結界が綻び、少しずつ消えていく。光の粒子が、空中に舞い散る。
「ミュウちゃん!」
「ミュウ、すぐにこっちに! 邪龍から離れろ!」
シャルやルシアン王がこちらに手を伸ばす。しかし、私はヴェグナトールから離れなかった。
「……悲しかった、ね……」
私はなんとか、彼に。彼の心に寄り添おうと言葉をかけた。
その声は小さく、震えていた。その牙がピクリと動く。
「――ああ――」
そう一言だけ答えると、ヴェグナトールはその翼を羽ばたかせる。巨体が空へと浮かび上がっていく。
翼が空気を切る音が響き、冷たい風が私の髪を揺らす。
そして、あっという間に飛び去って、どこかへ行ってしまった。
その姿が空の彼方に消えていくのを見つめながら、私の中に複雑な感情が渦巻いていた。
……足の力が抜け、私は座り込む。冷たい地面の感触が、現実感を取り戻させる。
「ミュ、ミュウちゃん! 大丈夫!? 平気だよね!?」
「信じられん……奴を撃退したのか? 今の魔法はいったい……」
ルシアン王の声には、驚きと敬意が混ざっている。その声が、遠くから聞こえてくるように感じる。
シャルが私を抱きしめる。その温もりが、今はなんだかとても恋しい。
彼女の体温が、私の冷えた体を少しずつ温めていく。シャルの髪の香りが、鼻をくすぐる。
私はシャルに抱きついて、しばらく涙が止まらなかった。
涙が頬を伝い、シャルの服を濡らしていく。
周りの喧噪が遠のき、ただシャルの心臓の鼓動だけが聞こえる。
「よ……よしよし。もう大丈夫だよ。ミュウちゃん」
シャルの声が、優しく私の耳に響く。頭を撫でられる。
その声に包まれながら、私は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
周りでは、兵士たちが慌ただしく動き回り、瓦礫を片付け始めている。
金属の鎧がこすれ合う音や、指示を出す声が聞こえてくる。
空には、まだ灰色の雲が低く垂れ込めているが、どこか晴れ間が見えそうな気配がする。
「あの魔法は一体何だったんだ? ヴェグナトールの様子が、まるで別物のように変わってしまった」
私は顔を上げ、ルシアン王を見る。
その目には、好奇心と共に深い尊敬の色が宿っているようだった。
「……心を、癒やす魔法……です」
私の声は小さくかすれていたが、はっきりと伝わったようだ。
「心を癒やす……か」
ルシアン王が、深い考えに沈んだ様子で呟く。その言葉が、空気中に漂う。
シャルが私の背中をさすりながら、ゆっくりと立ち上がるのを助けてくれる。
私の足はまだ少し震えているが、なんとか立つことができた。
「ミュウちゃん、本当にすごいよ。あんな大きな龍を、たった一人で……」
シャルの声には、感嘆の色が混ざっている。その言葉に、少し恥ずかしさを感じる。
周りを見渡すと、兵士たちや、避難していた人々が、驚きと畏敬の眼差しで私を見ていることに気がつく。
その視線に、少し居心地の悪さを感じる。
「さあ、みんな。ここはもう安全だ。各自、持ち場に戻って」
ルシアン王の声が響き、人々が動き始める。私は少しホッとした。
「ミュウ、シャル。少し休んでいいぞ。この後、詳しい話を聞かせてもらいたい」
私たちは頷き、ルシアン王に導かれて壊れた砦の中へと歩き始めた。
足取りは重く、疲労が一気に押し寄せてくる。
砦の中に入ると、壊れた家具や落ちた瓦礫が散乱している。
一応の修復の作業が始まっているが、直すにはかなり時間がかかりそうだ。
壁には大きな亀裂が入り、穴の空いた天井からは所々雪が降り注いでいる。
私たちは小さな休憩室に案内された。
暖炉に火が入れられ、部屋全体が温かい。その熱が、凍えた体を少しずつ温めていく。
椅子に座ると、ようやく緊張が解けた。深いため息が、自然と漏れる。
「ミュウちゃん、本当によく頑張ったね。
よくわかんないけど、アリアに化けてたドラゴンがいなくなったってことは……戦争も、これで終わるのかな?」
シャルが隣に座り、優しく私の手を握る。私はその手を少しだけ握り返した。
「うん……」
小さく答えながら、私は目を閉じた。
まだ、ヴェグナトールとアリアの物語が、頭の中でぐるぐると回っている。
その悲しみと、ヴェグナトールの複雑な感情が、私の中に深く刻まれていた。
(戦争は終わった。……けど、これからだよね。めちゃくちゃにされた帝国を、なんとかしないと)
そんなことを考えながら、私はシャルに抱きついた。その体温を求めるように。
「おっ、どうしたの? 今日のミュウちゃんは甘えん坊だね」
……シャルがなんだか楽しそうに笑いながら、私を抱きしめ返して頭を撫でる。
恥ずかしさと安心感が同時にやってくる。それでも今は、彼女に甘えたかった。
私はシャルに体を預けて、しばらくその温かさを味わっていた……。
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