第54話 邪竜の猛攻(前編)
グレイシャル帝国の玉座の間。巨大な氷柱が天井を支え、壁には霜の模様が這う。
部屋の中央には、氷の結晶で飾られた豪奢な玉座が鎮座している。
玉座に腰かける皇帝は年老いた男性だ。
銀糸で縁取られた青い長衣を纏い、頭には氷の結晶を模した王冠が輝いている。
その顔には深いしわが刻まれ、目は虚ろだ。
玉座の前に立つのは聖女アリア。
長い黒髪に赤い瞳を持ち、抜群のプロポーションの肉体がドレスで包まれている。
その姿は神々しく、部屋の冷たい空気さえも暖めているかのようだ。
「陛下。戦況はいかがでしょうか」
皇帝はゆっくりと顔を上げる。その動作に、年齢による疲れが滲む。
「アリアよ……アランシアの抵抗は予想以上だ。君が加護を与えた神聖騎士たちも、次々と敵に浄化されているらしい」
アリアの瞳に、一瞬だけ鋭い光が宿る。しかし、すぐに慈愛に満ちた表情に戻った。
「そうですか……では、私から神に祈りを捧げましょう。きっと、勝利の道を示してくださるはず」
皇帝は小さく頷く。その仕草には、全てを委ねきった諦めが見える。
「頼む……聖女アリアよ」
アリアは優雅に一礼し、玉座の間の隣に配備された祈りの間へと向かう。扉が閉まる音が、静かに響く。
祈りの間は、さらに寒気が強い。
壁一面が氷で覆われ、天井からは鋭い氷柱が垂れ下がっている。
部屋の中央には、巨大な氷の祭壇が鎮座していた。
何やら不気味な紋章が、凍りついた血で刻まれている。
アリアは祭壇の前で立ち止まる。その表情が、徐々に変化していく。
慈愛に満ちた微笑みは消え、代わりに冷酷な笑みが浮かぶ。口が裂けそうなほどに口角を上げて笑う。
「ク、ググ……クックック、ゾルダグ ヴァズナゲ ドゥルゾッゲ」
低く唸るような声。それは、もはや人間の声ではない。
そして語る言葉は、いかなる人間の言語とも異なっていた。
アリアの体が歪み始める。ドレスが引き裂かれ、編み込まれた宝石の粒が床に散らばる。
代わりに、その白磁のような背中の表面。皮膚の奥から不気味な突起が浮かび上がる。
その赤い目の瞳孔が縦に裂け、歯が徐々に鋭く尖っていく。
その貌はもはや、人間のものではなくなっていた。
アリアは赤く光る目で周囲を見回す。
「アランシア……ブラズガ ヴォルネゲ ズガゴル ゾルダグ。ゲズバグ ドゥルゾッゲ ガ ヴォルネゲ」
アリアは低く唸るような男の声で再び何かを呻く。そして――
■
アランシア王国の首都アーケイディア。
朝もやの中、街は少しずつ活気を取り戻しつつあった。
宮殿内の湿った空気が肌に触れ、朝の冷たさを感じさせる。
石畳の道を軍馬の蹄の音が響く。規則正しい音が、街の静けさを破る。
兵士たちが巡回を続け、警戒を怠らない様子が伺える。
鎧がかすかに軋む音が、その緊張感を物語っている。
その姿に、通りを行き交う市民たちが会釈を送る。
戦時下の緊張感は、まだ街全体を包み込んでいた。人々の足音も、いつもより慎重に聞こえる。
市場では、配給を受け取るために並ぶ人々の列が続いている。
野菜や果物。その色彩が、魔法広告がなくなって灰色がかった街並みに僅かな彩りを添えていた。
「はい、お待たせしました。今日はキャベツが多めですよ」
商人の声に、列の先頭の女性が笑顔で応える。
「ありがとう。子供たちも喜ぶわ」
そんな日常的なやり取りの中にも、どこか緊張感が漂う。
戦争の影響で、品薄になっている食材も少なくない。
それでも、人々は明るく振る舞おうとしていた。
その努力が、かえって現状の厳しさを浮き彫りにしているようだ。
私は宮殿の窓から、そんな街の様子を眺めていた。
冷たいガラスに額を寄せると、外の空気の冷たさが伝わってくる。
シャルが隣で大きな欠伸をする。彼女の吐息が、窓ガラスに白い曇りを作る。
「ふわぁ~。相変わらず緊張感あるねぇ。最近は少しずつ良くなってるみたいだけど」
確かに、以前と比べれば街にも活気が戻りつつある。
冒険者の皆の活躍で、戦況が好転してきたからだろう。
それでも、人々の表情には依然として不安の色が見える。戦争中だもんね……当然か。
遠くの丘の上に立つ風車がゆっくりと回っている。
その羽根が風を切る音が、かすかに聞こえてくるようだ。
その動きに目を奪われていると、シャルの声が響いた。
「あ、ミュウちゃん。あそこ見て」
シャルが指さす先には、城壁の上で訓練をする兵士たちの姿があった。
彼らの鎧がかすかに光り、朝日に照らされて輝いている。
剣と剣がぶつかり合う金属音が、風に乗って届く。
「ルシアン王、結構きっちりしてるよね。戦況良くなったのに、訓練は欠かさないみたい」
私は小さく頷く。首を動かすと髪が頬をくすぐる。
ルシアン王の用心深さは以前から感じていた。
百合がどうこう言っているときもあるが、彼の本性……というか、本音の部分は真面目な王様なんだろう。
そんな私たちの背後で、扉が開く音がした。重厚な木の扉が軋む音が響く。
振り返るとリンダが立っていた。彼女の髪から、かすかに花の香りがする。戦争中でもいつでもオシャレな人だ……。
「あら、二人とも朝から仲良しね」
「おはよ~、リンダ!」
「……!?」
そ、そんなこと……! 慌てる私の横でシャルが元気よく手を振る。シャルの明るい声が、朝の静けさを破るように響く。
リンダは軽く会釈を返すと、私たちに向かって言った。
彼女の声には、いつも通りの落ち着きが感じられる。
「ルシアン王が呼んでるわ。作戦会議よ」
私たちは頷き、リンダについて会議室へと向かう。
長い廊下を歩きながら窓の外を見る。
朝もやが晴れ、青空が広がり始めていた。廊下の絨毯が足音を吸収する。
会議室に入ると、既に多くの人が集まっていた。
ルシアン王を中心に、ゴルドーやナイア、そしてエルフの代表たちの姿が見える。
彼らの緊張した様子が、空気を重くしている。
「よく来てくれた」
ルシアン王の声に、私たちは軽く頭を下げる。
彼の表情は真剣そのものだ。その目は冷静で鋭い。
「早速だが、新たな情報が入った。グレイシャル帝国の首都から、何か大きなものが飛び去ったそうだ」
その言葉に、会議室の空気が一瞬で緊張する。椅子がきしむ音が聞こえる。
ゴルドーが眉をひそめながら尋ねる。彼の声には、不安が滲んでいる。
「どういうことだ? ドラゴンか?」
「おそらくはな。しかしまさか、奴らが首都でドラゴンを飼っているとは」
ルシアン王の言葉が途切れた瞬間、突如として轟音が響き渡った。
地面が大きく揺れ、窓ガラスが軋む音がする。机の上の書類が風に舞う。
「なっ……!?」
驚きの声が上がる中、私たちは急いで窓の外を見る。カーテンを開ける音が慌ただしく響く。
そこには――巨大な黒い影が、空を覆っている光景があった。
その姿は、まさに伝説の生き物そのもの。
鱗に覆われた長い首、大きく広げられた翼。
その巨体がまるで黒雲のように街全体を影で覆い尽くしている。
翼が風を切る音が、遠くから聞こえてくる。
とんでもない――。
規格外の大きさだ。たぶん、宮殿よりも大きい。
こんなのが街を襲ってきたら、一瞬で首都が陥落する!
「ド、ドラゴン!? なにこれ、でっっか!!」
シャルの声が裏返る。その声には、恐怖と興奮が入り混じっている。
「まさか、これが……グレイシャル帝国の切り札か」
ゴルドーが低い声で呟く。彼の声は重く沈んでいる。
ルシアン王の表情が一瞬で引き締まった。彼の大きな声が会議室中に響き渡る。
「全軍に通達! 市民の避難を最優先せよ! 全ての者を宮殿へ誘導するんだ!」
その声に応じるように兵士たちが慌ただしく、しかし素早く動き始める。
まるでこの動きを何度も訓練していたかのように。鎧がきしむ音、走る足音が混ざり合う。
城下町に警鐘が鳴り響き、人々の悲鳴と混乱の声が聞こえてくる。
「シャル、リンダ。君たちは避難誘導を手伝ってくれ」
「わかったわ」
私も頷き、急いで外へ向かおうとする。
が、ルシアン王は私を止めた。彼の手のひらが、私の肩に触れる。
「ミュウは待機だ。君にはやってもらいたいことがある」
「……?」
「んー、とにかくオッケー! 急いでみんな宮殿に入れてくるね!」
「ああ、頼んだぞ!」
階段を駆け下りる足音が響く中、ゴルドーの声が聞こえた。彼の声はいつもながら冷静だ。
「冒険者連合はどうする? 打って出るか?」
「いいや。君たちにもやってもらうことがある。ひとまずここで待機としよう」
「了解だ」
ゴルドーは特に異を唱えることもなく、ルシアン王のよくわからない指示に従った。
うーん、彼らには何の作戦が見えているんだろう……。
私にはとてもわかりそうもない。二人とも頭がいいからわかるんだろうか?
窓から外を見ると、既に混乱が広がっていた。
空には巨大な黒い影。地上では逃げ惑う人々。
その中を、人々は必死に宮殿へと走っていく。悲鳴と叫び声が、入り混じって聞こえてくる。
「こっちよ! 急いで!」
シャルの声が響く。彼女はまるで人々を導く道標のようだ。
リンダは魔法で負傷者を助け、黙々と老人や子供の手を引いて歩く。
宮殿の中庭には、次々と避難してくる人々。不安そうな表情、泣き叫ぶ子供たち。
その中を、兵士たちが整然と誘導していく。
靴が石畳を踏む音、子供の泣き声、大人たちの慌ただしい声が混ざり合う。
そんな中、再び地響きが起こる。
黒い影が、宮殿に向かって急降下してきたのだ。
人ひとり分はあろうかという巨大な爪が迫り来る。風を切る音が耳を劈く。
「来るぞ!」
ゴルドーの声が聞こえる。ほぼ同時に、ルシアン王の声が響いた。
「準備が整った! 全員、宮殿の中へ!」
その声に応じるように、最後の避難者たちが宮殿内に駆け込む。
扉が閉じられる重々しい音が響く中、ルシアン王が両手を広げた。
「我が祖先より受け継ぎし力よ。今こそ我が民を守らんことを! 城塞防衛結界魔法――!」
眩い光が、ルシアン王の体から放たれる。
その光は瞬く間に広がり、宮殿全体を包み込んでいった。
光の波が押し寄せる感覚に、思わず目を細める。
透明な壁が宮殿を覆う。
それはまるでガラスのドームのようだった。光が屈折し、虹色の輝きを放つ。
(これは……! 前に暴走して宮殿を覆ってた結界!)
おかしくなったのを私が魔法で直した結界だ。
果たして正常に動作したあの結界は、ドラゴンの攻撃を受け止めきれるのだろうか?
結界の完成と同時に、黒い龍の最初の一撃が襲いかかる。
轟音と共に、結界全体が大きく揺れた。衝撃で、耳が痛くなる。
「うおっ!」
「きゃああっ!」
初撃は、そのドラゴンの鋭い足の爪による攻撃だった。
結界は――ヒビがかすかに入っているが、無事だ!
(……けど、ドラゴンも一撃で諦めるわけない。いつまで防ぎきれるの……!?)
バリアと、ドラゴンの猛攻。国を守る戦いの火蓋が切って落とされた――。
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