第49話 帝国脱出
闇ギルドの密輸ルートを使うことに決まってから、シャルは素早く行動を開始した。
彼女は街の裏路地へと私たちを案内する。
狭い路地を抜けるたびに、周囲の空気が変わっていくのを感じる。
湿った石壁からは、かすかにカビの匂いがする。
「ここだよ!」
シャルが立ち止まったのは、古びた酒場の前だった。
看板には「酔いどれ蛙亭」と書かれている。文字は剥げかけており、かろうじて読める程度だ。
扉の隙間からは、酒と煙草の匂いが漂ってくる。中からは、酔っ払いたちの騒がしい声が聞こえる。
……こんないろんな街にあるものなの、闇ギルドって。
もしかして私が知らないだけで、これまでの街にもあったのかな……?
「ちょっと待ってて」
シャルは中に入っていった。
しばらくすると、彼女は中年の男性を連れて戻ってきた。
男性は痩せており、目つきの鋭い人物だ。
顔には無数の傷跡があり、過去の荒々しい生活を物語っている。
「こいつらが、国境越えたいって奴らか?」
男性の声は低く、少しかすれている。
タバコを吸いすぎているのだろうか。彼の息からは、安いタバコの臭いがする。
「そうそう。で、大丈夫そう?」
「ああ。だが、代金は先払いだ」
シャルは頷き、小さな袋を男性に渡した。中身は金貨だろう。
袋が男性の手に渡る時、コインがぶつかり合う音がかすかに聞こえた。
私達のこれまでの冒険で得たお金を考えると結構安いかもしれない……。
男性はそれを受け取ると、あたりを警戒するように見回した。
その目は、獲物を狙う猛禽類のようだ。
「よし、ついてこい」
男性は私たちを裏路地の奥深くへと案内した。
道は次第に狭くなり、日光も届かなくなる。湿った空気が肌に張り付く感覚がする。
足元の石畳は滑りやすく、慎重に歩を進めなければならない。
やがて、私たちは古い井戸の前で立ち止まった。
男性は周囲を確認すると、井戸の側面にある特殊な模様を押した。
ゴトリ、という音と共に、井戸の蓋が開く。そこには、地下へと続く階段が現れた。
階段からは冷たい風が吹き上げてきて、私の髪を揺らす。
「ここから先は自力で行け。この地図を使え」
「わかった。ありがとね!」
男性は古ぼけた羊皮紙の地図をシャルに渡す。
地図からは、長年の使用による独特の匂いがする。
「それと足元は滑るから気をつけろ。地図はできるだけ詳しく描いたからよく見ろ」
「うん。どうも!」
「また戻ってきたら顔見せろよ……」
(なんか過保護だな……)
あの人ホントに闇ギルドの人なんだろうか……?
この国の闇ギルドはいい人ばっかりなのかな……。
「さ、行こ!」
シャルの声に、私たちは頷いた。
暗い階段を降りていく。足元がぬめっとしていて、滑らないように慎重に歩を進める。
階段の石は冷たく、靴底を通して伝わってくる。
地下に降りると、そこは広い水路だった。
天井は低く、ところどころに水滴が落ちている。
ポタポタと水が落ちる音が、不気味に響く。
光源は、壁に取り付けられた古びたランプのみだ。
ランプの明かりは揺らめき、壁に不気味な影を作り出している。
「うわー……ちょっと怖いね。幽霊とか出そう」
シャルの声が、不安げに響く。確かに、この場所には不吉な雰囲気が漂っている。
水路の水は黒く濁っており、その中で何かが動いているような錯覚さえ覚える。
水面から立ち上る湿った空気が、鼻をくすぐる。
「やめなさいよ……! こっちはついさっき死体に恨まれることしてんだから」
リンダが寒そうに言う。死体に恨まれること……たしかにしたなぁ。
嫌な気分が蘇ってくる。背筋が寒くなるのを感じた。
私たちは水路に沿って歩き始めた。
足音が反響し、不気味な音を立てる。時折、遠くで水が滴る音が聞こえる。
壁には苔が生えており、あまり端を歩くと服が擦れて湿っていく。
歩き始めて30分ほど経った頃だろうか。
突然、後方から足音がした。金属の靴が石の床を叩く音が、水路に反響する。
「……!」
私たちは一斉に振り返る。そこには、帝国軍の兵士たちの姿があった。
彼らもこの地下のルートを知っていたのだろうか。
兵士たちの甲冑が、ランプの明かりに照らされて不気味に輝いている。
「ちょっ、マジ!? こんなとこまで巡回する~!?」
シャルが叫ぶ。私たちは一目散に走り出した。
水しぶきを上げながら、暗い水路を駆け抜ける。冷たい水が靴の中に入り込み、足元が重くなる。
「あそこだ! 逃がすな!」
「ちょっと! あなたが叫ぶから見つかったんじゃないでしょうねこれ!」
「そ、そうとは限らないでしょ! とにかく走ろう!」
兵士たちの声が、後方から聞こえてくる。その声が近づいてくるのがわかる。
甲冑がぶつかり合う音と、荒い息遣いが迫ってくる。
私たちは必死に走った。息が上がり、肺が焼けるような感覚がする。
しかし、立ち止まるわけにはいかない。心臓の鼓動が耳に響く。
走りながら、私は周囲を観察した。水路の壁には、所々に小さな隙間や穴が開いている。
もしかしたら、そこに隠れることができるかもしれない。
そう思った瞬間、シャルが叫んだ。
「あっち! 分岐点があるよ!」
確かに、前方に水路の分岐点が見えた。
右に行くか、左に行くか。一瞬の判断が必要だ。
ランプの明かりが揺らめき、分岐点の影を不気味に動かしている。
「右だ! 地図ではこっちのほうが長く続いている!」
ロイドの声に従い、私たちは右の水路に飛び込んだ。
しかし、そこで予想外の事態が起きた。
足元の水の流れが急に速くなったのだ。水の音が一気に大きくなり、耳をつんざくほどだ。
「うわっ!」
シャルが悲鳴を上げる。水位が少しずつ上昇し、足元が不安定になる。
冷たい水が膝まで達し、動きを鈍らせる。
「みんな水から出て! 壁につかまって……って、きゃあ!?」
リンダが水から出ようとしてその場に転んでしまう。
なんとか流れに抗おうとバシャバシャと音を立て、彼女の悲鳴が水路に響き渡る。
水の勢いは増していく。私ももはや立っているのもやっとの状態だ。
壁につかまろうとするが、苔で滑り、なかなかうまくいかない。
「――よし! もうこのまま水の流れに乗ろう! 一気に移動できるかも!」
「ちょ、あなた本気!? きゃああああッ!」
リンダの悲鳴が響く。私も声を上げそうになるのを必死に押し殺す。
「ミュウちゃん掴まって! できるだけ息を吸い込んで!」
「……っ!」
私は声に従い、体勢を崩す寸前で必死にシャルに掴まった。
シャルの体温が、冷たい水の中で唯一の温かさだ。それから、水の流れに身を任せる。
水流に飲み込まれ、私たちは暗闇の中を流されていった。
どこに向かっているのか、まったくわからない。
ただ、水の中で必死にシャルにしがみつくことしかできない。
耳の中に水が入り、周囲の音が遠くなっていく。
そして――
そして突然、眩しい光が目に飛び込んできた。まぶしさに目を細める。
「ぶはっ!」
シャルが大きく息を吸い込む音が聞こえる。
私も水面から顔を出し、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
冷たい空気が肺を満たし、一瞬めまいがする。
私たちは地下水路から地上の川へと流れ出ていたのだ。
青い空が広がり、陽の光が水面を輝かせている。
周囲には緑豊かな森が広がっており、鳥のさえずりが聞こえる。木々の香りが鼻をくすぐる。
「み、みんな無事ー!?」
シャルの声に、リンダとロイドもかなり辛そうに返事をした。
ひとまず全員、無事に地上に出られたようだ。
水しぶきを上げながら、互いの姿を確認し合う。
激しい流れに揺られながら、シャルは必死に岸を目指す。冷たい水に体力を奪われていく。
やがて、なんとか浅瀬にたどり着いた。足が地面に触れた瞬間、安堵感が広がる。
「はぁ……はぁ……」
全員が息を切らせながら、岸辺に這い上がる。
私もなんとか、シャルに掴まって上げてもらった……。
買ったばかりの服が濡れて体に張り付き、動きを鈍らせる。
冷たい風が吹くたびに、背筋が震える。
だけど、地面の感触がこれほど安心できるものだとは思わなかった。
「ふぅ……いや~、なんとかなったかな。皆いるね?」
シャルが心配そうに皆を見回す。
全員が無事であることを確認し、ほっとした表情を浮かべた。安堵のため息が漏れる。
「ええ、なんとかね……。まったく、もうちょっと後先考えなさいよね」
リンダが髪から水を絞りながら答える。
彼女の普段の優雅さは消え、疲れた表情を浮かべている。
髪から滴る水が、地面に小さな水たまりを作る。
私は周囲を見渡した。見慣れない景色が広がっている。
川の向こう岸には、密集した森と、背の高い城塞が見える。灰色の石壁が威圧的に聳え立っている。
こちら側は比較的開けており、遠くに山々の輪郭が見えた。
柔らかな起伏が、地平線まで続いている。
「ねぇ……ここ、どこだと思う?」
シャルの問いかけに、全員が顔を見合わせる。
ロイドが地図を取り出そうとしたが、水で濡れてしまっていた。インクが滲み、読み取れない。
「おそらく……」
ロイドが空を見上げ、太陽の位置を確認する。日差しが彼の濡れた髪を輝かせる。
「国境を越えられたようだ。向こうに見える城塞がグレイシャル帝国で、こちらがアランシア王国の領土だな」
その言葉に、全員が驚きの表情を見せた。まさか、あんな形で国境を越えてしまうとは。
風が吹き、濡れた服を通して冷たさを感じる。
「本当? じゃあ、あたしたち脱出できたの!?」
シャルの声に、希望の色が混じる。
私も、胸の中に安堵感が広がるのを感じた。心臓の鼓動が少し落ち着いてくる。
「一応……そうなるわね。はぁ、やれやれだわ」
リンダが言葉を詰まらせながら答える。
言葉と裏腹に、彼女の表情にも安堵の色が見えた。肩の力が抜けていくのが分かる。
私たちはしばらくその場に座り込み、事態を把握しようとした。
鳥のさえずりと川のせせらぎが、穏やかな雰囲気を作り出している。遠くで魚が跳ねる音が聞こえる。
「さて、それじゃアランシアに行こうか」
シャルがそう言って腰を上げる。砂利がザザッと音を立てる。
私は地平線の近くにある城塞をじっと見つめていた。灰色の壁が、不吉な影を落としているように見える。
「…………」
「どしたのミュウちゃん?」
シャルが不思議そうに私を見る。私は、あの国での収容所や村の様子を思い返していた。
追い回されるし、寒いし、危険な国。
……だけど、そこには苦しんでいる人たちがたくさんいた。
収容所の人は無事に逃げられたのだろうか。それともまた捕まってしまったのだろうか。
それすらも、ここからではわからない。胸が締め付けられるような感覚がする。
「あの国のことが気になってる?」
私はシャルに頷く。
すると、彼女は私の濡れた髪を撫でた。優しい手の温もりが伝わってくる。
「大丈夫。さすがに今回は状況がヤバかったけどさ。今度はちゃんと助けに行こう」
「あなた達、もしかしてまた行く気なの? あんな国に!?」
「まー、あたし達人助けが趣味だしね! あの国すごい困ってそうだったし、何とかしたくない?」
リンダは理解できない様子で頭を振る。
確かに気持ちはわかる。私だって死にかけてたわけだし、酷い目にもあった。
だけど、助けてくれる人もいた。
そんな彼らをあのままの状況にしておきたくない。心の中で、決意が固まっていく。
「よーし! とりあえずはアーケイディアまで行こう!」
シャルの声に、ひとまず皆が同意する。ようやく希望が見えてきた気がした。
私たちは濡れた服のまま歩き始めた。
足取りは重いが、自由を手に入れた喜びが体を軽くするようだ。
風に吹かれながら、首都アーケイディアを目指して歩いていく。
靴から水が染み出し、歩くたびにジュクジュクと音がする。
時折、後ろを振り返る。
グレイシャル帝国との国境が、どんどん遠ざかっていく。
あの国での苦しい記憶が、少しずつ薄れていくようだった。城塞の影が徐々に小さくなっていく。
「ねぇ、ミュウちゃん」
歩きながらシャルが私に話しかけてきた。
「アーケイディアに着いたら、まずは温かいシチューが食べたいな。
覚えてる? あそこの美味しいシチュー」
その言葉に、私は小さく頷いた。
「魔法使いの煮込み」と呼ばれるシチュー。屋台で食べたあれは確かに美味しかった。
その記憶だけで、少し体が温まる気がする。香辛料の香りが、鼻先によみがえる。
「それとルシアン王にも会わなきゃね。きっと助けてくれるはずだよ」
私は頷く。ルシアン王なら、きっと私たちを匿ってくれるだろう。
そう思うと、少し安心感が広がった。心の中に、暖かな光が灯るような感覚だ。
私たちは歩みを進める。濡れた服はまだ体にへばりついている。
それでも、太陽の光で少しずつそれが乾いていく感覚があった。
肌に触れる風が、徐々に心地よく感じられてくる。
グレイシャル帝国での出来事は、まだ終わっていない。
でも、ここからは私たちのペースで戦えるはずだ。
そう信じて、私たちは歩み続けた。
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