第46話 収容所に潜入せよ
冷たい朝霧が立ち込める中、私とリンダは帝国軍の拠点を遠目に観察していた。
空はまだ暗く、東の空がうっすらと明るくなり始めたところだ。
霧で湿った空気が肌を刺すように冷やし、息を吐くと白い煙となって立ち昇る。
遠くから鳥の鳴き声が聞こえ、新しい一日の始まりを告げていた。
巨大な石造りの建物は、まるで大地から生え出た怪物のように威圧的だった。
高さ20メートルはあろうかという分厚い外壁には、所々に鉄格子の入った小さな窓が並んでいる。
その頂上には、尖った鉄柵が不吉な影を落としていた。
建物全体から漂う重圧感に、思わず息を呑む。
「あそこが入り口ね……」
リンダが囁くように言った。彼女の声には緊張が滲んでいる。
私は無言で頷く。正門には重装備の兵士が4人、不動の姿勢で立っていた。
彼らの鎧が朝日に照らされ、かすかに輝いている。
彼らはあくまで見張りで、中にも何人もの兵士がいることは間違いない。正面突破は無理だろう。
「さて、どうやって入りましょうか」
リンダが腕を組んで考え込む。その眉間にはしわが寄っている。
その時、私の目に何かが映った。
拠点の裏手、やや離れた場所に小さな盛り上がりがある。
新しく掘られた墓のようだ。
周囲には枯れた草が生え、寂しげな風景を作り出していた。
私は黙ってその方向を見つめていた。すると、リンダの目が輝いた。
「ああ……そうね、死体の服を借りるってのはどう?」
「!?」
私は思わず顔をしかめる。
し、死体の服を着るなんて……!?
胸が締め付けられるような不快感が襲ってきた。
「なによ。他にいい潜入方法でもあるの?」
「……」
私は首を横に振る。
確かに、他に良い方法は思いつかない。でも、だからってぇ……。
私たちは慎重に墓に近づいた。
土は新しく、まだしっかりと固まっていない。湿った土の香りが鼻をつく。
リンダが素早く周囲を確認すると、躊躇なく杖の柄で掘り始めた。
「ほら、手伝いなさいよ」
リンダが小声で急かすので、私は渋々従う。
冷たく湿った土が指の間に入り込み、気分が悪くなる……。
やがて、布きれが見えてきた。
その瞬間、私の胃がひっくり返りそうになる。
リンダは手際よく服を取り出した。
灰色がかった粗末な囚人服だ。
そこには土の匂いと、かすかに腐敗臭が混ざっている。
その匂いに、思わず顔をそむけたくなる。
「はい、着て」
「ひっ……」
差し出された服に、私は思わず後ずさりした。
その服からは死の気配が漂っているように感じる。
冷たい風が吹き抜け、さらに身震いが止まらなくなる。
「もう、仕方ないわね。ほら、脱ぎなさい!」
そう言うと、彼女は強引に私のローブを脱がせ始めた。
「……!」
私は抵抗しようとしたが、リンダの力は強い。
そのままどんどん脱がされ、上から囚人服を被せられた。
寒い! そして臭い! 服の布地が肌に触れるたび、ゾッとするような感覚が走る。
「ふーん、まぁまぁそれっぽいわね。栄養が足りてない囚人って感じよ」
(嬉しくなさすぎる……)
結局、私は囚人服を着せられてしまった。
体に比べて大きすぎる服は、まるで子供が大人の服を着ているようだ。ていうか実際そうだし……。
袖は手首を覆い、裾は地面に擦れそうなほど長い。
歩くたびに布がこすれる音が聞こえる。
リンダも素早く着替えると、私たちは拠点に向かって歩き始めた。
朝の冷気が肌を刺す中、私たちは列になって中に入っていく囚人に紛れて拠点の中に入った。
内部は想像以上に広く、迷路のような通路が続いていた。
壁は灰色の石で作られ、所々に水滴が浮かんでいる。
その滴る音が、静寂を破る唯一の音のように聞こえた。
廊下には薄暗い松明が等間隔に灯され、不吉な影を作り出していた。
その炎のちらつきが、壁に奇妙な模様を描いている。
空気は重く、湿っている。
かび臭さと汗の匂い、そして消毒薬のような刺激臭が混ざり合っていた。
その匂いは鼻をつき、吐き気を催すほどだ。
私たちは他の囚人たちに紛れ込むように歩を進める。
彼らの多くは疲れ切った表情で、虚ろな目をしていた。その姿を見ていると胸が痛くなる。
時折鎖の擦れる音や、遠くで響く叫び声が聞こえてくる。何が行われているのか、容易く想像できた。
「シャルの情報を得るには、他の囚人から聞き出すのが一番よ」
(き、聞き出す……!? 私が!?)
無理無理! いやそんなこと言ってる状況じゃないかもだけど……!
「ねぇ、あなた」
リンダは近くにいた囚人に話しかけようとしたが、その囚人は恐れるように身を引いた。
その目には恐怖の色が浮かんでいる。どうやら話したくないみたいだ。
コミュ障……なわけではないだろう。
心も体も疲れているのだ。その囚人の表情に、この場所の重圧が如実に表れていた。
それから廊下の突き当たりには大きな鉄の扉があった。
その前には2人の兵士が立っている。彼らの鎧がきしむ音が、時折静寂を破る。
扉の向こうからは、かすかに人々の話し声が聞こえてくる。
「あそこが食堂みたいね。中に入って情報を集めましょ」
リンダの声には、わずかな期待が混じっている。
私は緊張しながら兵士の前を通り過ぎ、扉を開けた。重い扉が軋む音が響く。
中は予想以上に広く、長テーブルが何列も並んでいた。
囚人たちが粗末な食事をとっている。スプーンが皿に当たる音や、かすかなささやき声が響いている。
壁には大きな窓があるが、厚い鉄格子で覆われている。
その向こうに広がる白い空が、この場所がいかに閉鎖的かを際立たせていた。
外の自由な世界が、まるで別次元のように感じられる。
私たちは目立たないように端の席に座った。
テーブルは長年の使用で傷だらけで、ところどころ深い傷がついている。
その傷に指を這わせると、ざらついた感触が指先に伝わってくる。
隣に座っていた老人が、私たちに興味深そうな目を向けてきた。
その目は、長年の苦労を物語るようにくぼんでいる。
「新入りかい?」
老人の声はかすれていた。その声には、かすかな好奇心が混じっている。
「ええ、そうよ。ところで――」
その時、突然大きな警報の鐘が響き渡った。
金属的な音が耳を劈く。私たちは驚いて振り返る。心臓が喉元まで飛び出しそうになる。
警報の鐘が鳴り響く中、食堂内は一瞬にして混沌の渦に飲み込まれた。
金属的な音が耳を劈き、頭蓋骨の中で反響するようだ。
囚人たちは慌てふためき、椅子を倒す音や小さな悲鳴が響き渡る。
食器が床に落ちる音、金属がこすれる音、そして恐怖に満ちた叫びが入り混じり、パニックの交響曲を奏でていた。
私とリンダは、この混乱に乗じて動くことにした。周囲の騒音に負けないよう、リンダが私の耳元で囁く。
「チャンスよ。今のうちにシャルがこの収容所にいるのかを探しましょ」
私たちは素早く立ち上がり、人混みをかき分けて進む。
囚人たちの体が私たちにぶつかり、その度に潰されそうで冷や汗が背中を伝う。汗と恐怖の匂いが鼻をつく。
兵士たちは混乱を収める作業に追われ、私たちに気づく余裕はないようだ。
彼らの怒鳴り声が、囚人たちの悲鳴と混ざり合う。
廊下に出ると、さらなる混乱が広がっていた。
警報の鐘が耳を劈き、兵士たちが行き交う。
その間を囚人たちがオロオロと歩き回り、時折突き飛ばされていた。
怪我をした人の姿も見える。血の匂いが漂い、胸が締め付けられる。
「……っ!」
「ねえ、あれ」
リンダの声に、我に返る。
リンダが指さす先には、「立入禁止」と書かれた扉があった。
真鍮の取っ手が、薄暗い廊下でかすかに光っている。
私は躊躇なくその扉に向かう。
扉を開けると金属が軋む。そこは書類や備品が所狭しと並ぶ事務室だった。
空気中に紙の匂いが漂い、インクの刺激臭が鼻をつく。
書類の山が積み上げられた机が何台も並び、その奥には大きな金庫が鎮座していた。
窓から差し込む薄明かりが、埃っぽい空気を照らしている。
「囚人名簿を探して」
リンダの言葉に私は頷き、急いで書類を探し始める。
紙をめくる音がやかましく響く。埃で鼻がむずむずするのを感じながら、必死に探す。
やがて、私は厚い革表紙の本を見つけた。革の古い匂いが鼻をくすぐる。
開いてみると、そこには囚人たちの名前と罪状が整然と並んでいた。
その罪状のほとんどは「反逆罪」「納税義務違反」だ。
私は必死にシャルの名前を探す。指が紙の上を滑るたび、心臓の鼓動が早くなる。
ページをめくる音が耳に残り続ける。しかしどれだけページをめくっても、シャルの名前は見つからなかった。
ここにはいない――その事実に、安堵と不安が入り混じる。
もしかしたら、シャルはそもそも捕まってなくて逃げられたのかも……。
それとも、別のところに捕まっているのだろうか。考えれば考えるほど、不安が膨らむ。
「ふうん……まったく、潜入し損じゃないの。他に手がかりとかない? 新聞とか」
(うーん……あるかなそんなの。えーと……)
目を凝らして周囲を見回す。
その時、私の目に別の書類が映った。何かの印鑑が押された文書だ。
赤い蝋で封をされた重厚な紙。手に取ると、そこには「聖女狩りについて」という文字が踊っていた。
文字を見た瞬間、背筋に冷たいものが走る。
私は急いでリンダに見せる。彼女の目が大きく見開かれる。
「これは……聖女狩りの要請書?」
文書には、驚くべき内容が記されていた。
『真なる聖女アリアの意向により、他すべての聖女と呼ばれる女たちを捕らえよ。
アリア様は、他の聖女たちの存在を疎んでおられる』
私たちは顔を見合わせた。リンダの表情には、怒りと困惑が混ざっている。
「どういうこと? 聖女が聖女を狩る?
それにアリアって……?」
リンダの声が震えている。その声に、私も不安を感じた。
その時、廊下から足音が聞こえてきた。
重厚な靴音が静寂を破る。私たちは慌てて書類を元の場所に戻し、隠れる場所を探す。
大きな書棚の影に身を潜めると、ドアが開く音がした。
床板が軋む音と共に、兵士の声が聞こえる。
「ここも確認しろ。逃亡者がこの中に隠れているかもしれん」
私たちは息を殺し、じっと動かずにいる。
心臓の鼓動が耳に響くようだ。兵士たちの足音が近づいてくる。冷や汗が背中を伝う。
囚人服が肌にへばりつく感覚が、さらに緊張を高める。
「ここにはいないようだ」
「他を探そう」
兵士たちが去っていく音が聞こえた。
……私たちはほっと息をつく。緊張が解けた瞬間、足がガクガクと震えるのを感じる。
「もう危ないわ。ここから出ましょう」
リンダが小声で言う。
私たちは慎重に部屋を出て、再び廊下に戻った。
警報はまだ鳴り響いているが、以前ほどの混乱はない。
囚人たちは皆どこかに戻ったみたいだ。廊下の空気は重く、緊張感が漂っている。
そして、私たちが食堂に戻ろうとしたその時だった。
「お前たち、そこで何をしている」
背後から声がした。振り返ると、1人の兵士が私たちを睨みつけていた。
「警報が鳴ったら速やかに房に戻れと言ってあるはずだが?」
威圧的な言葉に、私は思わず身を縮める。リンダが咄嗟に前に出て言い訳を始めた。
「あの、私たち迷子になって……」
「黙れ! おまえたちを懲罰室に連れて行く」
看守は有無を言わさない勢いで彼女を遮った。その声には怒りが滲んでいる。
……そのとき私の目に映ったのは、同じく懲罰室に連行されていくのであろう、疲れ果てた囚人たちの姿だった。
彼らの目は虚ろで、希望を失ったかのようだ。
彼らの中には、重い怪我をしているものも少なくない。
傷口から滲む血の匂いが鼻をつく。包帯を巻いただけの粗雑な治療の痕跡が見えるが、明らかに危険な処理だ。
日常的に尋問や懲罰が行われているのだろう。そして兵士らは、その中で彼らが命を落としてもなんとも思っていないのだろう。
その光景に、胸が痛む。
(……助けたい。この人たちを)
シャルを探しにここに来た。
だけどこの帝国が、こんなにひどい状態だなんて思ってもいなかった。
この中に、本当に罪を犯した人はどれくらいいるのだろう?
一昨日の村でも、災害にもかかわらず納税は厳しくなる一方だと言っていた。
この牢獄の中には、そんなふうに税を納められなかっただけの人もかなりの数がいるはずだ。
「……ちがう」
この帝国はおかしくなっている。
罪もない人が苦しみ囚えられている。その事実に、怒りが込み上げてくる。
「ミュウ?」
「おい、聞こえないのかガキ! 列に並べ……!」
兵士の怒鳴り声が遠くで響くなか、私は決意を固めた。
兵士が私の腕を掴んだ瞬間、私の全身から青い光が溢れる。その光が周囲を照らし出す。
「ま、魔法か!? 何をする気だ、やめろ!」
兵士が叫ぶ。その声には、恐怖が混じっている。
その瞬間、私は大規模魔法を発動させた――!
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