第43話 雪中の逃走
「さあ、急ぐわよ」
リンダの声に促され、私は彼女の後を追った。
リンダの足音が、静寂を破って響く。
足音を殺しながら、薄暗い城内を進む。
冷たい石の壁から、じっとりとした湿気が伝わってくる。
月明かりが石造りの壁に不気味な影を落とし、それらが私たちの動きに合わせて揺れ動いているように見えた。
私たちは人目を避けながら、廊下や階段を慎重に移動した。
時折、遠くで兵士たちの話し声や足音が聞こえ、その度に私たちは息を殺して立ち止まった。
リンダは時折角で止まり、周囲の気配を確認する。
その仕草は、まるで獲物を狙う猫のようだった。
彼女の鋭い眼差しが、暗闇を切り裂くように見える。
「あ、あの……あの」
私は小さな声で呼びかけた。自分の声が、異様に大きく聞こえる。
「何よ?」
リンダの返事は短く、苛立ちが混じっていた。
「この帝国って……どうなって……?」
リンダは歩きながら、深いため息をついた。
その息が白く凍り、月明かりに照らされて消えていく。
「狂ってるわよ。
皇帝が『聖女狩り』なんてものを始めてね。聖女と呼ばれる者、自称する者を片っ端から捕まえているの」
「……!?」
その言葉に、私は思わず足を止めそうになった。
「あなたもその聖女の一人よ。皇帝が突然乱心したみたいなものね。理由はわからないけど」
リンダの言葉に、私は背筋が凍る思いがした。
なぜ聖女を狩るのか。そしてなぜ私が……。
寒気が走り、全身の毛が逆立つのを感じる。
「この帝国の事情なんて知らないけどね。
他国にまで使者を送って、それなりに認められてる人間を拉致って……正気の沙汰じゃないわよ。それに――」
リンダの言葉が途切れた。その時、近くから足音が聞こえてきた。
金属の靴が石の床を打つ音が、廊下に響き渡る。
「しまった! 巡回の兵士よ!」
リンダは急いで私を壁際の柱の陰に押しつけ、自身は堂々と廊下の中央に立った。
私の背中が冷たい石に押し付けられ、息を殺す。心臓の鼓動が、耳元で大きく響く。
「おや、リンダ殿か。こんな夜遅くにどうされた?」
兵士の声が響く。甲冑のきしむ音と共に、彼が近づいてくるのがわかる。
リンダは落ち着いた様子で答えた。
「ああ、夜の散歩よ。城内の空気が乾燥しすぎていて、肌の調子が悪くてね」
「そうですか。それは申し訳ない。
ところで、先ほど牢獄から囚人が逃げ出したとの報告が……」
「まあ、大変! 私にできることがあれば言ってちょうだい。
回復士の顧問として、全面的に協力するわ」
リンダが彼を勢いで言いくるめると、兵士は何も言わずに立ち去っていった。足音が遠ざかっていく。
私は息を殺し、冷や汗を流しながらその様子を見ていた。
それにしても、回復士の顧問……?
あれからそんなに経ってないのにいつの間にか出世してるなぁ。
「ふう、危なかったわね……さあ、急ぐわよ」
私たちは再び動き出した。
城内を抜け、ついに外へ出る。
冷たい夜風が頬を撫で、雪の香りが鼻をくすぐる。
しかし、その瞬間だった。
「警報だ! 囚人が逃げた! 門を閉めろ!」
甲高い警報音が、静寂を破って鳴り響いた。
その音は、まるで私の脳天を叩くかのように響き渡る。
「くそっ、何よこれ!? とにかく見つかったみたいね。走るわよ!」
リンダが私の手を引っ張る。その手は温かく、力強い。私たちは雪の積もる城下町へと飛び出した。
月明かりに照らされた雪が、銀色に輝いている。足元の雪がキュッキュッと音を立て、その音が静寂の中に響く。
背後では追手の声と足音が迫ってくる。
甲冑のきしむ音、怒号、そして犬の吠え声。
私たちは必死に走った。雪を踏む音と、荒い息遣いだけが聞こえる。肺が冷たい空気で焼けるように痛む。
そして――。
「きゃっ!」
リンダの悲鳴が夜空に響く。
彼女が足を滑らせ、雪の中に倒れ込んだ。
雪が舞い上がり、月光に照らされて一瞬きらめく。
「痛っ! くそっ、足首を……」
リンダの顔が苦痛で歪む。
月明かりに照らされた彼女の表情に、焦りが浮かんでいた。唇が青ざめ、息が白く凍る。
「我が声に答えよ、天上の者、生命を司る精霊よ……!」
私は慌てて詠唱するリンダに駆け寄り、彼女の足首に手を当てる。
雪の冷たさが手を通して伝わってくる。
(小回復魔法)
冷たい雪と、温かい血の感触。
魔力を集中させ、青白い光が私の手から溢れ出す。
その光が雪面に反射し、幻想的な光景を作り出す。
「あ……あの、大丈……?」
「黙って! 追手が来るわ!」
リンダの叱咤に、私は言葉を飲み込む。
彼女の足首の腫れが引いていくのが見える。
遠くから、雪を踏みしめる音が聞こえてくる。
「待て! どういうつもりだ、逃がさんぞ!」
遠くで犬の吠え声が聞こえる。追手が近づいてきているのだ。
寒さで凍えそうな体に、恐怖が走る。
「ちょっとお休みをいただくわ!
我が声に答えよ、扉の先、地底にて聳える炎の山!
矢となりて敵を穿て――火炎魔法!」
「うおっ!?」
リンダが激しく杖を振る。それに合わせて炎の球が猟犬と騎士たちに襲いかかった。
熱波が押し寄せ、一瞬雪が溶けるのが見える。
炎を恐れたのか犬は甲高い声で吠え、その場で足を止める。
焦げた毛の匂いが風に乗って漂ってくる。
「よし、これで大丈夫。行くわよ!」
リンダが立ち上がり、再び私の手を引っ張る。
私たちは雪原を駆け抜けていく。
風が耳元で唸り、雪が顔に当たる。足元の雪がキュッキュッと音を立てる。
「待て! 貴様らっ!」
騎士たちの声と甲冑の音がジャリジャリと響く。
だがさすがに、甲冑を着たまま身軽な私達を追うのは難しいようで、どんどん距離が離れていく。
「チッ! ……もういい。追う必要はない」
「しかし隊長、それでは――」
「いや、じきに――」
遠のいていく騎士たちの声が何かを相談していた。
私はその言葉に不穏さを感じつつも、とにかく走り続けた。
それからしばらくして、城下町の建物がなくなってきた頃――突然視界が悪くなってきた。
風の音が強くなり、雪の粒が顔に当たる感覚が増す。
「嘘でしょ……吹雪!?」
リンダの声が風にかき消されそうになる。
白い粉雪が激しく舞い、前方がほとんど見えなくなってきた。
寒さが一層厳しくなり、体が震え始める。
「くっ、このままじゃ凍え死ぬわ……避難所を探さないと」
リンダの言葉に、私も頷く。
しかし、この吹雪の中で避難所など見つかるのだろうか。
城下町まで戻ることはできない。
となると、この何も見えない雪原を進むしかない……? 不安が胸を締め付ける。
私たちは必死に前へ進む。足が雪に埋もれ、歩くのも困難になってきた。
寒さで体が震え、指先の感覚がなくなってきている。
息を吐くたびに、白い霧が立ち込める。
「あ、あの……だ、大丈夫……?」
私の声が風に消されそうになる。
リンダは顔を背けたまま、前を向いて歩き続ける。彼女の銀髪が風に舞い、雪と混ざり合う。
「問題ないわよ……私はあなたと違って鍛えてんの」
ぶっきらぼうに言い放つ彼女の言葉が、猛吹雪の風の音に紛れていく。
騎士たちが言っていた、「追う必要がない」とはこの吹雪のことなのだろう。
たしかに、普通の人間ならこの中で生きているのは不可能だ……。
「あ、あの……どうして、私を……」
そんな過酷な環境にリンダを置いてしまったのは私だ。
私と違って、彼女にはこの帝国で地位があった。
脱獄の手助けなんてしたら、それもパアだろう。
それゆえに、どうしてなのか知りたかった。私は彼女に嫌われてると思っていたし……。
「あのとき……あなたなんか目じゃないくらいのヒーラーとして成長してやる、って言ったでしょ」
「……」
「勉強もしたし、実践もしたけど……どうやったって、あなたほどの回復魔法には至れそうもなかった」
リンダは無感情にそう言いながら、私の前を歩いていく。
ザクザクと大きく足を上げなければ雪の中は進めない。
雪を踏みしめる音が、吹雪の中でも鮮明に聞こえる。
「あなたが死んだら、目標として比べる相手がいなくなるじゃない。だから助けた。それだけよ」
「でも……っ」
「うるさい! 黙って歩きなさい!」
リンダに一喝され、私は静かに雪の中を歩き続けた。雪の寒さがだんだんと薄れていく……。
地面も視界もほとんど真っ白だ。
そんな中、私はただひたすらに歩くしかできない。道があっているのかどうかもわからないのに。
風の音だけが耳に届き、他の音は全て吹雪に飲み込まれていく。
「……大、丈夫……?」
「……あんたこそ……大丈夫なの? 顔色悪いわよ」
そう言いながら、リンダが私の方を振り返る。
その瞬間、彼女の目が驚きで見開かれた。彼女の息が白く凍り、顔に雪が積もっている。
「ちょっと! あんた、凍傷になりかけてるじゃない!」
私は自分の手を見る。確かに、指先が不自然な色になっている。
痛みはほとんど感じないが、それが逆に危険な兆候だと分かる。
指が動かしにくく、感覚が鈍っている。
「わ、私は大丈夫……リンダ、こそ……」
「バカね! 自分の体くらい自分で治せないの?」
リンダの叱責に、私は慌てて自分の体に回復魔法をかける。
温かい光が体を包み、少しずつ感覚が戻ってくる。
凍えていた体に、じわじわと温かさが広がっていく。
「はぁ……あんた天才のくせに、こういうとこ抜けてるのよね」
リンダが呆れたように言う。その言葉に、少し申し訳ない気持ちになる。
「ご、ごめんなさ……」
「いいわ。それより……」
リンダの言葉が途切れる。彼女が突然立ち止まり、私の肩を掴んだ。
その手の感触が、厚手の服を通しても伝わってくる。
「あんた足遅いのよ! あんたがタラタラ歩いてたら、まとめて凍死するわ!」
そう言うと、リンダは私を腰から抱き上げた。
「ぐえ!? り、リンダ……!?」
「黙ってなさい、舌噛むわよ!
あたしが走るから、あんたは私の凍傷と疲労を回復し続けなさい!」
リンダの声に迷いはない。彼女は私を抱えたまま、雪原を走り始めた。
雪を蹴る音と、リンダの荒い息遣いが耳元で響く。
私は驚きながらも、言われた通りにする。
リンダの体に魔力を注ぎ込み、彼女の疲労と凍傷を癒やし続ける。
温かい光が二人を包み込み、一瞬だけ吹雪を押し返す。
「あ~、くそーっ! なんで私こんなことしてんのよーっ!」
リンダの荒い息遣い、雪を踏みしめる音、そして吹雪の唸り声。
「普段なら今頃ぉ! 家に帰って暖炉の前でワインでも飲んでたってのに~!!」
リンダの雄叫びが雪の声と混ざり合い、不思議な音楽のように聞こえる。
「帝国での身分もなくなるじゃないの! 明日から無職だわ~!!」
時間が経つにつれ、リンダの呼吸が乱れてくる。しかし、彼女は決して立ち止まろうとしない。
私もひたすら疲労回復魔法をかけ続ける。
リンダの体から伝わる熱が、私の体も温めてくれる。
「リンダ……あ、あの……もう私を――」
もう私を捨てて行って、と言おうとする。しかし彼女は先にそれを制す。
「うるさいうるさい! あんた捨てて行ったら余計意味わかんないでしょ!
犯罪者になった上に誰も助けず、雪原を全力疾走しただけの女にはならないわよ!」
リンダの声に、奇妙な決意が滲む。そ、それはそうかもしれないけど……!
だけど、その偽らざる本音に私も覚悟が決まる。
それからも彼女の体を癒やし続ける。
魔力が体から溢れ出し、二人を包み込む光が吹雪の中で輝く。
そして――。
「あっ! あそこ!」
リンダの声に、私も顔を上げる。
吹雪の向こうに、かすかな明かりが見える。オレンジ色の光が、希望のように輝いている。
「村……! 村があるわ!」
リンダの足が、さらに速く動く。
光に向かって走る。雪を蹴る音が激しくなり、風を切る音が耳に響く。
光が近づくにつれ、家々の輪郭が見えてきた。小さな村のようだ。
煙突から立ち上る煙が、風に揺られている。
「た、助かった……!」
リンダの声が震える。彼女の足が、ふらつき始める。
「リンダ!」
私が叫んだ瞬間、リンダの体が前のめりに倒れ込む。
私たち二人は、雪の中に転がり込んだ。冷たい雪が服の中に入り込み、背中に張り付く。
「くっ……はあ、はあ……! ち、チクショー……私はまだ……っ!」
リンダの声がかすれている。私は急いで彼女の体を起こす。
……重い! 重いけど……!
「だ、大丈夫……! もう、すぐそこ……!」
私は全身の力を振り絞り、リンダを支えながら歩き出す。
村の入り口まで、あと数歩。足が雪に埋もれ、一歩進むのも困難だ。
そして――。
「誰か! 誰か、います……か!?」
私の声が、夜の静寂を破る。その瞬間、村の中で人々が動き出す音が聞こえた。
ドアが開く音、人々の話し声、そして駆け寄ってくる足音。
「遭難者か!? おいっ、大丈夫か!?」
「2人いるぞ! とにかく中へ入れろ!」
……助かった。
私たちは、なんとかこの吹雪の夜を生き延びることができたのだ。
村人たちの暖かい手が、私たちを支える。
家々の明かりが、まるで天国の光のように感じられた。
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