第42話 牢獄の中
……冷たい。
石の床から伝わる冷気が、私の体を芯から凍えさせる。
濡れた藁の匂いが鼻をつく中、私は膝を抱え、ただ一人で座っていた。
小さな窓から差し込む微かな光が、灰色の壁に不規則な影を作っている。
その光は、外の世界がまだ存在していることを教えてくれる唯一の証だった。
時折、風が吹き抜け、鎖の軋む音が響く。
(シャル……今どこにいるの……?)
私の胸に、鈍い痛みが走る。
シャルの笑顔、その明るい声が、まるで幻のように頭の中を駆け巡る。
彼女の赤い髪の匂いを思い出す。温かく、懐かしい。
彼女も同じように牢獄に閉じ込められているのだろうか。それとも……。
いや、考えるのをやめよう。シャルは強い。きっと大丈夫だ。
(でも、あの時もっと強く抵抗していれば……)
私は深いため息をつく。
その息が白く凍り、目の前でゆっくりと消えていく。唇が乾いて、割れそうだ。
ここはグレイシャル帝国。永遠に続く冬の国。
尖塔のように高くそびえる氷の城塞。
広大な領土を持ち、様々な文化が入り混じっている。
そんな国の、最も奥深い場所にある牢獄。
壁に刻まれた無数の傷跡が、ここで過ごした囚人たちの時間を物語っている。
私はなぜ、こんなところにいるのだろう……。
目を閉じると、つい数日前の出来事が、走馬灯のように蘇ってきた――。
■
エテルナ共和国。エルフたちの国。
私たちはそこで、夢枯れ病という奇病を治療したばかりだった。
まるで森の中にいるような、幻想的な街並み。
生命力に満ちた巨大な樹木から漂う清々しい香り。
そして何より、私たちを英雄として称える市民たちの笑顔。
あの頃が、今では遠い昔のように感じる。
「エルフのみんな元気だねー!
来たころはあちこちで咳の音とかしてたけど、今はもうみんな健康みたい!」
シャルの声が、記憶の中で響く。
彼女の赤い髪が風になびき、緑の瞳が喜びに満ちていた。
その姿が、今でも鮮明に思い出せる。
私も小さく頷いた。人々に感謝されるのは、少し照れくさかったけれど、悪い気はしなかった。
そう、あのときの私たちは希望に満ちていた。
そんな私たちの前に、一人の使者が現れたのだ。白い甲冑を着た男性だった。
その甲冑は雪のように輝き、どこか神々しさを感じさせた。
「あなたが聖女、ミュウ様ですね」
「……?」
「なになに、どちらさま?」
「グレイシャル帝国はあなた方の力を必要としています……どうかご同行を」
その言葉に、私とシャルは顔を見合わせた。使者の声には、切実さが滲んでいた。
「グレイシャル帝国っていうと……北にある、すっごく寒い国だよね?」
「ええ。それゆえに体調を崩す者も多く。ある村が凍傷で壊滅しかけているのです」
「……!」
使者の言葉は私の胸に刺さった。
誰かが困っている。それどころか死にかけているかもしれない……。
力を貸す理由には十分に思えた。
「帝国にもヒーラーはおりますが、なかなか治せず……。どうか、あなた方の力をお貸しください」
「うん、おっけーだよ! ミュウちゃんもやるでしょ?」
シャルは即座に同意した。
その目には、冒険への期待と、人々を助けたいという思いが輝いていた。
もちろん、私も頷いた。
寒さは危険かもしれない。でも、困っている人々を助けることができるなら……。
そうして私たちは、グレイシャル帝国への旅に出る決意をした。
エテルナを後にする時、評議員たちが私たちを見送ってくれた。
彼らの顔には、少し心配そうな表情が浮かんでいた。
「気をつけて行ってらっしゃいませ。
グレイシャルは……少し変わった国ですから」
その言葉の意味を、私たちはそのとき理解できなかった。
■
北への旅の道中、私たちは様々な景色を目にした。
エテルナの緑豊かな森を抜け、アランシア王国領地に当たる広大な平原を越え。
そして徐々に寒さが増していく中、グレイシャル帝国の国境へと近づいていった。
木々の香りから、乾いた草の匂いへ、そして冷たい空気の中に混じる雪の匂いへと、周囲の空気が変化していくのを感じた。
シャルはいつもながら道中ずっと明るかった。
彼女の前向きな態度が、私の不安を和らげてくれた。
「ねえミュウちゃん、グレイシャル帝国ってどんなとこかな?
雪がいっぱいなんでしょ? 楽しみだね!」
私は小さく頷いた。確かに、雪の国というのは興味深かった。
以前住んでいたところでは、雪なんてあまり見たこともなかった。
そうして数日かけて、私たちはグレイシャル帝国の国境に到着した。
目の前に広がる光景は、まさに銀世界だった。
どこまでも続く白い雪原。空高くそびえる黒い尖塔。息を呑むほどの美しさだった。
冷たい風が頬を撫で、雪の結晶が光を反射して輝いていた。
しかし、その美しさも束の間。
「動くな!」
「っ!?」
突如として、私たちを乗せた馬車は白い鎧を着た騎士たちに囲まれた。
馬のいななきと、甲冑のきしむ音が耳に届く。
「聖女を騙る者よ、ただちに投降せよ!」
その声に、私とシャルは驚いて動けなくなる。
何が起きているのか、理解できなかった。心臓が早鐘を打つ。
「ちょ、ちょっと待って! 何言ってるの?
何かの間違いだよ! あたしたちはそこの人に招待されて……」
シャルの必死の訴えも聞き入れられない。
馬車の御者として乗っていた使者の男は、何食わぬ顔で私たちが乗る馬車を包囲する騎士の中に混じっている。
その冷たい目つきに、背筋が凍る思いがした。
「なっ……! あんた、あたし達を騙したの!?」
「騙したとは人聞きが悪い。聖女などと嘯く輩を連行しただけだ」
「お前っ……!」
シャルが剣を抜こうとするが、状況が悪すぎる。
兵士たちは皆槍を持ち、シャルの攻撃の射程外から武器を突きつけていた。
金属の冷たい輝きが、私たちを取り囲む。
「抵抗するな。我々が連行するのは『聖女』だけだ」
「あっ……!?」
騎士の一人が強引に私の肩を掴み、馬車から引きずり下ろす。
雪の上に体が転ぶ。冷たさが体中に広がる。
「ミュウちゃんから手を離せ!」
シャルが騎士たちに食って掛かるが、すぐに取り押さえられてしまう。
同様に、私も数名に肩や体を圧迫される。
ガチャガチャとした甲冑が体に当たって痛む。金属の冷たさが、ローブを通して肌に伝わる。
「連れていけ」
……そうして、私たちは強引に引き離された。
「ミュウちゃん! ミュウちゃーん!」
シャルの叫び声が遠ざかっていく。
その声を聞いていると、なんだか泣きそうになる。
だけど私は抵抗できなかった。
そうして私は、この暗い牢獄に連れてこられたのだ。
…………。
目を開けると、また同じ灰色の壁。変わらない現実が、私を取り巻いている。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
ここには時計も、外の景色も見えない。
ただ、定期的に看守がやってきては、わずかな食事を置いていくだけだ。
冷たいパンと水。それが私の唯一の糧だった。
私は深く息を吐く。
私はこれからどうなるのだろう。心細くて涙が出そうだ。
だけど、こんな所で諦めるわけにはいかない。
シャルのために。そして、私を信じてくれた人のために。
きっと、ここを出る方法はある。そう信じて、私はじっと機会を待ち続けていた。
そんな私の耳に、突然、牢獄の外から足音が聞こえてきた。
重々しい足音が、静寂を破って近づいてくる。
金属が軋むような音と共に、檻の向こうに白い甲冑の騎士がやってきた。
その姿は冷たい月光に照らされ、不気味な影を落としていた。
「聖女詐称者よ、お前の処刑が決まった」
「……!?」
看守の冷たい声が、私の耳に突き刺さる。
その言葉の意味を理解するまでに、少し時間がかかった。心臓が大きく跳ね、耳鳴りがする。
「3日後の正午だ。それまでお前の罪を悔い改めろ」
男が去ると、再び暗闇が訪れる。
足音が遠ざかっていく中、私は呆然と立ち尽くしていた。
檻の鉄格子が、私の絶望を象徴するかのように冷たく光る。
(処刑……? 私が……死ぬの?)
現実感のない言葉に、胸が締め付けられる。
呼吸が浅くなり、冷や汗が背中を伝う。牢獄の湿った空気が、急に重く感じられた。
これまで何度も死の危険は味わってきた。
でも、こんな風に一方的に死を宣告されるのは初めてだった。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
冷たい石の床が、私の絶望を更に深めた。指先が震え、爪が床を引っかく。
(嫌だ……どうしてこんなことに……っ)
涙が頬を伝う。シャルの顔が浮かぶ。
エテルナやアランシア王国の人々の笑顔が、頭の中を駆け巡る。
もう二度と会えない。そう思うと、胸が張り裂けそうになる。
喉が痛くなり、声にならない叫びが込み上げてくる。
時間が過ぎていく。それがどれくらいだったのかはわからない。
ただ、絶望の中で、私はずっとそこに座り続けていた。
壁に刻まれた無数の傷跡が、過去の囚人たちの絶望を物語っているようだった。
そんな時、再び足音が聞こえてきた。
先程とは違う軽やかな足音。ヒールの音が、静寂を破って響く。
扉が開き、銀色の長い髪を持つ女性が現れた。
豊満な胸が、薄手のローブの下で強調されている。
……あれ?
どこかで見た、ような……。
「はぁぁ……ミュウって名前聞いたからまさかと思ったけど、ホントにあんたなの……!?」
その声に、私は顔を上げた。見覚えのある顔。そして、聞き覚えのある声。
彼女は焦ったような、呆れたような顔でこちらを見ていた。
「リ、リンダ……さん?」
かすれた声で、私は彼女の名を呼んだ。
以前ギルドで一緒だった、ノルディアスで分かれたA級冒険者のヒーラーだ。
リンダは優雅に歩み寄り、私の前にしゃがみ込んだ。
彼女の体から漂う香水の甘い香りが、牢獄の湿った空気を一瞬で変えた。
その香りは、懐かしい記憶を呼び起こす。
「そうよ。こんなところで再会するなんて思わなかったわ」
彼女の声には、皮肉めいた響きがあった。
その目は、私を値踏みするように見つめている。
瞳の奥に、複雑な感情が渦巻いているのが見えた。
「どうして……ここに……?」
私の問いかけに、リンダは苦虫を噛み潰したような顔をした。
苛立たしげに頭を掻き、格子を叩く。その音が、牢獄中に響き渡る。
「どうしてここにはこっちの台詞だってぇの!」
「ひっ!」
「……ま、なんとなくわかるけど。『聖女狩り』に捕まったんでしょ?」
「せ、聖女……がり……?」
聞き返すと、リンダはギロリとこちらを睨んだ。
私はその目に怯んでしまう。その目は、まるで獲物を狙う猛禽類のようだった。
「とにかくねぇ! あんた、こんなとこに捕まってていいわけ?」
「……!」
その言葉に、私の心臓が高鳴る。
力なく首を横に振った。首の動きに合わせて、鎖の音が静かに響く。
「だったら……脱獄させてやるわ」
「え……!?」
「その代わり! 私の言うことは何でも聞きなさいよ!
命を! 救って! やるんだから!」
リンダの目が鋭く光り、再び格子が叩かれる。
その音に再び体が硬直した。冷や汗が背中を伝う。
「どう? このまま死ぬか、それとも私と一緒に来るか。選びなさい、ミュウ!」
リンダの問いかけに、私は迷わず頷いた。
生きる。生きてここから出る。シャルのために、そして自分のために。
リンダの唇が、満足げに緩む。その表情に、少しだけ安堵の色が見えた気がした。
「よろしい。じゃあ行くわよ」
彼女の手には、いつの間にか鍵束が握られていた。
そのうちの一つをガチャガチャと牢屋の鍵穴に回す。
金属同士がぶつかり合う音がけたたましく響く。
しばらくして、ガタンと重厚な金属が動く音がした。
金属の軋みとともに格子が開いていく……。
牢獄の闇の中で、新たな冒険の幕が上がろうとしていた。
私の心臓が高鳴り、体が小刻みに震える。
恐怖と期待が入り混じった複雑な感情が、胸の中でぶつかり合う。
「さ、立ちなさい。早く逃げるわよ!」
リンダの手が差し伸べられる。私はおずおずとその手を取った……。
今回から新章に突入となります!
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