第39話 夢の中で
暗闇の中、私の意識は漂っていた。
目を開けると、そこは懐かしい風景だった。
古びた木造の家。壁には所々に亀裂が入り、床は歪んで軋む。
窓から差し込む薄暗い光が、埃っぽい空気を照らしている。
そう、ここは……私の生まれ育った家。
「ミュウ! またお前は!」
怒鳴り声と共に、重い足音が近づいてくる。
私は思わず体を丸め、震えながら壁際に寄り添う。
がたんと音を立てて開いたドア。
そこに立っていたのは、赤ら顔の大柄な男性――私の父だった。
彼の目は血走り、酒の匂いが部屋中に充満する。
「お前、また何も言わずにじっとしてただけなのか? 客に挨拶もできんのか!」
父の大きな手が、私の小さな体を掴む。痛みと恐怖で目を瞑る。
「ご、ごめ、なさ……」
かすれた声で謝ろうとするが、言葉が喉につまる。それを見た父の顔が、さらに歪む。
「何度言えばわかる! ちゃんと喋れ!」
父の手が振り上がる。私は反射的に目を閉じ、襲いかかる痛みに備える。
……しかし、その痛みは訪れなかった。
「あなた! やめて!」
母の声だ。振り上げられた父の腕を、母が必死に押さえつけている。
「チッ」
父は舌打ちをすると、私の腕を掴んだまま引きずるように外へ連れ出した。
「もういい。こんな役立たずはいらん」
父の冷たい言葉が、夜の闇に吸い込まれていく。
私は抵抗する力もなく、ただ父に引きずられるままだった。
足元はぬかるみ、冷たい泥が素足にべったりとまとわりつく。
しばらく歩くと、父は立ち止まった。
周りを見回すと、そこは人気のない森の中だった。
「ここでいい」
父はそう言うと、私の腕を乱暴に放した。その勢いで、私は地面に倒れ込む。
「もう、家には戻ってくるな」
そう言い残すと、父は来た道を引き返していった。
その背中が、闇に溶けていくのをぼんやりと見つめる。
寒さと恐怖で震える私の周りを、獣の鳴き声が取り囲んでいく。
四足歩行の動物が近づいてくる音がする。しかし、立って逃げることはできそうになかった。とてもお腹が空いていた。
(寒い……疲れた……お腹すいた……。ここで死ぬのかな……)
闇の中から獣が歩み出てくる。グルグルと喉を鳴らし、牙を剥いている。
……もうだめだ。
そう思った瞬間、不思議な光が目の前に現れた。
(……?)
ふわりと、まるで蛍のような光の粒が宙を舞う。
その光は徐々に大きくなり、やがて人の形を成していった。
現れたのは、長い白髪を持つ若そうな人物だった。彼が軽く手を振ると、光の鞭のようなものが空中を走り、動物を遠ざけていく。
「大丈夫かい? ひどいね、君の親は。相も変わらず、人間なんてろくなもんじゃないな」
彼――または彼女は穏やかな、それでいて酷薄な笑顔を浮かべ、私に手を差し伸べる。
「君に力を与えようか」
「……?」
「復讐する力だよ。君を傷つけたすべてが憎いだろう?」
その声は、まるで太陽の光のようだった。
温かく地を照らしながら、触れるものを焼き焦がす烈日――私は恐る恐る、その手を見上げる。
「私はマーリン。魔導王と人は私を呼ぶ。
君が望むならば、世界を滅ぼす力を与えよう。どうだい?」
魔導王と名乗る人物の目には、何も写っていない。その感情も思いも、何も読み取れそうにない。
……だけど、私は首を横に振った。
「驚いたな。憎くないのかい、君を捨てた奴らが」
「……私は……」
喉が詰まって渇いていた。しかし、私はなんとか言葉を紡ぐ。
「私が、うまくやれなかった、だけだから……。悪いのは、私で……」
「違うよ。悪いのは君じゃない。君は怒っていいんだ」
「…………」
私は目を閉じて、また首を横に振った。誰かを憎む気にはなれなかった。強いていうなら、私が嫌いなのは自分くらいだ。
そんな思いを込めて、魔導王を見つめる。すると、その人はフッと口元を緩ませた。
「……そうか。わかったよ。なら君に相応しい魔法を教えてあげる。君がいつか、1人でも生きていけるように」
再び手が差し伸べられる。その手はさっきまでと違い、優しい温かさを感じた。
私は何も言えず、ただその手をぎゅっと握る。
「決まりだね。これからは私が君の師匠だ。さあ、行こうか」
マーリンは私を優しく抱き上げると、光の中へと歩み入った。
その瞬間、夢の風景が霞んでいく。
光の中を歩む私たちの姿が、それから次第に鮮明になっていく。
やがてその光が薄れ、目の前に広がったのは、緑豊かな森の中にある小さな木造の家だった。
「ここが私の住まいだ。そして、これからは君の家でもある」
マーリンはそう言って、私を優しく地面に降ろした。
家の周りには色とりどりの花が咲き乱れ、小鳥のさえずりが心地よく響いている。
「さあ、入ろうか」
扉を開けると、中は意外にも広々としていた。
壁一面に本棚が並び、机の上には複雑な図形が描かれた羊皮紙が広げられている。
部屋の隅には、見たこともない奇妙な形の器具が並んでいた。
「ミュウ、君にはこれからは魔法を学んでもらうよ。特に、癒しの魔法をね。どうやら君は攻撃魔法の才はないようだからね」
マーリンは柔らかな笑みを浮かべながら、本棚から一冊の古めかしい本を取り出した。
「でも、その前に……」
彼は手をかざすと、私の体が青白い光に包まれた。
すると、今まで感じていた空腹感や疲労感が嘘のように消えていった。
「どうだい? 少しは楽になったかな」
「……うん」
私は小さく頷いた。体が軽くなり、呼吸も楽になった気がする。
「これが癒しの魔法だよ。君も、こんな風に誰かを助けることができるようになる」
マーリンの言葉に、私は目を輝かせた。
誰かを助ける力――それは、今の私には想像もつかないものだった。
それから、私の修行の日々が始まった。
最初は本を読むことから。魔法の基礎理論や、様々な呪文の意味を学んでいく。
マーリンは私の無口さを全く気にせず、根気強く教えてくれた。
「言葉を発さなくても魔法は使える。大切なのは、心の中で強く念じること。
ま、最初は詠唱とかもしたほうがいいけどね」
そう教えられ、私は黙々と修行に励んだ。
日々の鍛錬の中で、少しずつだが確実に力がついていくのを感じた。
……ある日、マーリンは私に小さな鳥を見せた。
その鳥は翼を痛めており、飛ぶことができずにいた。
「ミュウ、この子を癒してあげられるかな?」
私は恐る恐る手を伸ばし、鳥に触れた。
目を閉じ、心の中で強く念じる。
すると、かすかな光が私の手から鳥へと伝わっていった。
しばらくすると、鳥はパタパタと羽ばたき、空高く飛んでいった。
「素晴らしい。ミュウ、やはり君には才能があるね」
マーリンは満面の笑みを浮かべ、私の頭を優しく撫でた。
その瞬間、私の胸に温かいものが広がった。
(私にも、誰かの役に立てる……)
それからというもの、私の魔法の腕は飛躍的に上がっていった。
怪我をした動物を癒したり、枯れかけた植物に命を吹き込んだり。
言葉を発することなく、ただ心で念じるだけで魔法を使えるようになっていった。
そんなある日、マーリンは私に言った。
「ミュウ、君にとっておきの魔法を教えよう。それは『――――』という魔法だ」
私は目を丸くして、マーリンの話に耳を傾けた。
■
――時が流れ、私の修行も佳境を迎えていた。
マーリンの教えの下、様々な魔法を習得し、特に癒しの魔法では目覚ましい成長を遂げていた。
ある朝、いつものように修行を始めようとした私に、マーリンが声をかけてきた。
「ミュウ、今日は特別な話がある」
マーリンの表情は、いつもより少し厳しく見えた。私は静かに頷き、その言葉に耳を傾ける。
「君の成長は目覚ましい。もう、私が教えられることはほとんどない」
マーリンはそう言って、窓の外を見やった。朝日が差し込み、白い髪が金色に輝いている。
「実は、私にはやらなければならないことがある。
そして、そのためには旅に出なければならないんだ」
私は驚いて目を丸くした。マーリンが去る? そんなことは考えたこともなかった。ずっと一緒だと思ってたのに。
「ミュウ、君はもう立派な魔法使いだ。これからは自分の道を歩んでいってほしい」
彼の言葉に、私の胸に不安が広がる。
同時に、さみしさも込み上げてきた。
「……行っちゃう、の?」
私は小さな声で尋ねた。マーリンは優しく微笑み、私の頭を撫でた。
「ああ、そうだ。でも、これは別れじゃない。いつか、また会えるはずだ」
その言葉に少し安心する。しかし、同時に何か引っかかるものを感じた。
「でも……」
マーリンは言葉を途切れさせ、遠くを見つめた。
その瞳に、今まで見たことのない複雑な感情が浮かんでいる。
「いつか君と私の道は重なるかもしれない。だけどそのとき、君と私は……」
マーリンは言葉を濁した。私には、その意味が分からなかった。
「ミュウ、これだけは覚えておいてほしい。
君の力は、人を救うためにある。決して、誰かを傷つけるために使ってはいけない」
マーリンは真剣な眼差しで私を見つめた。その目には、何か深い悲しみが宿っているように見えた。
「はい……」
私は小さく頷いた。マーリンの言葉の意味を完全には理解できなかったが、その重要性は感じ取れた。
「よし、それじゃあ……」
マーリンは立ち上がり、杖を手に取った。その姿は、どこか寂しげに見えた。
「さようなら、ミュウ。それから、私のことは忘れなさい」
そう言うと、マーリンは光に包まれ、姿を消した。
残されたのは私と、彼が残した数々の魔法の本だけ。
窓から差し込む陽の光が、静かな部屋を照らしている。
私は、マーリンがいなくなった空間をぼんやりと見つめていた。
(……あれ? 「師匠」、どこに……?)
心の中で問いかけるが、答えは返ってこない。
それと、自分の師匠の名前が何で、どんな人だったのかもいつの間にか忘れてしまっていた。
その瞬間、夢の風景が再び霞み始める。意識が浮上し始めた――。
■
ゆっくりと意識が戻ってくる。目を開けると、そこは薄暗い遺跡の中だった。
冷たい石の床に横たわっていた私は、ゆっくりと体を起こす。
(夢、だったのかな……)
頭の中が靄がかかったようにぼんやりしている。
しかし、その靄の向こうに、今まで忘れていた記憶が鮮明に蘇ってきた。
「マーリン……」
その名前を口にした瞬間、今まで封印されていた記憶が一気に押し寄せてくる。
幼い頃に捨てられた森。
そこで出会った「魔導王」マーリン。
そして、彼との修行の日々。
(……魔導王。マーリン。私の師匠)
今までなぜその記憶を忘れていたのか分からない。
しかし、それが間違いなく私の過去だということは確かだった。
(……そうだ、シャル!)
ふと隣を見ると、シャルが横たわっていた。しかし、彼女の様子がおかしい。
顔は苦痛に歪み、体は冷や汗で濡れている。時折、小さな呻き声が漏れる。
「シャル? 大丈夫……!?」
近づこうとした瞬間、不吉な気配を感じ取る。
シャルの周りに、黒い霧のようなものが渦巻いていた。
「よくぞ目覚めたな、小さな魔法使いよ」
どこからともなく、低く不気味な声が響く。
振り向くと、そこには巨大な黒い霧の塊――夢喰らいがいた。
「お前の悪夢は、とても美味だった。だが、なぜか途中で逃げられてしまった。面白い」
夢喰らいの赤い目が、好奇心に満ちて私を見つめている。
「――シャルを、返して」
私は震える声で言った。夢喰らいは、くすくすと笑う。
「いやいや、彼女の夢はまだ堪能していない。お前のように簡単には逃がさんぞ」
その言葉に、怒りがこみ上げてくる。杖を握る力が強くなる。
同時に、マーリンの言葉が頭をよぎった。
(君の力は、人々を救うためにある)
……そうだ。私には、人を救う力がある。
深呼吸をして、私は杖を構えた。
「シャルを解放してもらう」
私の声が、やけに力強く響く。夢喰らいは少し驚いたように目を見開いた。
「ほう、面白い。では、お前に彼女を取り返せるか、見物させてもらおう」
その言葉と共に、シャルの周りの黒い霧が濃くなる。
彼女の苦しそうな表情に、胸が痛む。
(大丈夫。必ず助けるから)
私は静かに目を閉じ、精神を集中させる。
杖から、柔らかな光が溢れ出す。
「――悪夢覚醒魔法」
その言葉と共に、シャルの体が青白い光に包まれる。
黒い霧が、その光に押されるように消えていく。
「なっ!? これは……!」
夢喰らいが驚きの声を上げる。
その瞬間、シャルの目がパッと開いた。
「はっ! ……ここは? ミュウちゃん?」
シャルは混乱した様子で周りを見回す。しかし、すぐに状況を把握したようだ。
「そっか、あの化け物と戦ってたんだ!」
シャルは素早く立ち上がり、背中の剣を抜く。
魔力増幅剣を構えた彼女と、杖を握る私。
私たちの前には、怒りに満ちた目で睨みつける夢喰らいがいた。
「くっ、まさか2人とも目覚めるとは……面白い。ならばお前たちの魂、直接いただこうか!」
夢喰らいの体が大きく膨らみ、部屋中に黒い霧が広がる。
私とシャルは、背中合わせで立つ。
お互いの存在を温度で感じながら、私たちは戦う決意を固めた。
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