第144話 魔導王の軌跡⑧
静かな夜。窓から、三日月の光が差し込んでいた。
その光は部屋の中に長い影を作り、まるで不吉な予感のように床に伸びている。
エイダの部屋に、マーリンとガレスの姿があった。
暖炉の火が部屋を優しく照らし、時折木の燃える音が静寂を破る。
その音さえも、この重苦しい空気の中では、痛々しく響いた。
「エイダ……」
マーリンは、ベッドに横たわるエイダの手を握っていた。
彼女の手は冷たく、痩せ細っている。かつて母のように皆の世話を焼いていた手は、今や骨ばかりが目立っていた。
呼吸は浅く、顔は蒼白で、その生気は刻々と失われつつある。
「マーリン……ガレス……。二人とも、ここにいてくれてありがとう」
エイダの声は弱々しく、それでも微かな笑みを浮かべていた。
その目には、今までと変わらない優しさが宿っている。
マーリンは何度目かの回復魔法を試みる。青い光が手のひらから広がるものの、すぐに消えてしまう。
まるで、老いという自然の理が、その魔法を拒絶しているかのように。
「どうして……どうして効かないんだ! こんな、こんな簡単な魔法が!」
「いいのよ、マーリン。老いは、治るようなものではないの。それは、生きとし生けるものの宿命なのよ」
エイダの言葉に、マーリンは歯を食いしばる。
老いという避けられない敵の前で、彼の力は完全に無力だった。その事実が、彼の心を引き裂いていく。
「アヴァロンのことを……お願い」
「え……?」
「この国は、あなたが作った理想郷……。みんなの希望の場所。だから」
エイダは言葉を切り、深いため息をつく。
その息は、まるで最後の力を振り絞るかのようだった。彼女の手が、マーリンの手をかすかに握り返す。
「最後まで、みんなを守ってあげて。あなたにしか……できないことだから」
エイダの声が次第に小さくなっていく。まるで遠くへ消えていくように。
マーリンは必死に彼女の手を握りしめた。
その手に力を込めれば、彼女を引き止められる気がした。しかし、それは叶わない。
「わかった。僕が……必ず。みんなを守る。約束する」
「安心したわ。あなたなら、きっと……」
そこまで言って、エイダは静かに目を閉じた。
彼女の手から、少しずつ温もりが失われていく。その過程は、残酷なほど確実だった。
「エイダ……エイダ!」
マーリンの叫び声が部屋に響く。その声には、深い絶望と否定が込められていた。
ガレスは黙って目を伏せ、拳を強く握りしめていた。
その爪が、手のひらに食い込んでいる。
それからどれほど経っただろうか。突如、マーリンの目に異様な光が宿る。
狂気ではない、何か冷たい決意のような光だった。
彼は立ち上がると、急いで部屋を飛び出した。
「マーリン! 待て!」
ガレスが追いかけるが、マーリンは聞こえないふりをする。
書斎へと走る足音が、廊下に響いていく。その足音には、ただ一つの目的だけが込められていた。
書斎に飛び込んだマーリンは、机の引き出しから「死者の書」を取り出した。
震える手で本を開き、ページをめくっていく。
黒い表紙からは不吉な魔力が立ち上り、部屋の空気を重くしていた。
「まだ、間に合う。エイダの魂が、完全に消える前に。この術なら、きっと――」
エイダの居室に戻ったマーリンは、床に大きな魔法陣を描き始めた。
チョークが床を這う音を立て、複雑な紋様が広がっていく。
その中心にエイダを寝かせる。暗い部屋で、魔法陣が不気味な光を放ち始めた。
「マーリン、やめろ。無駄だ」
「無駄なものか! この力こそが、僕に与えられた運命なんだ! 生命を司りし太古の理よ、我が声に応えよ――!」
マーリンの詠唱とともに、魔法陣が明滅し始める。
禍々しい光が次第に強くなり、やがて部屋中を埋め尽くしていく。
しかし、その光は徐々に制御を失い始めた。まるで生命の理そのものが、この術を拒絶しているかのように。
「これは! マーリン、魔法が暴走するぞ!」
魔法陣が不安定になり、エイダの体が光の中で揺らぎ始める。
まるで霧のように、その輪郭が曖昧になっていく。実体が、目の前で薄れていく。
「エイダ!?」
一瞬の閃光。まるで雷が落ちたかのような光が部屋を満たす。
そして、光が消えた時――そこにはもう何も残っていなかった。
エイダの体は完全に消え失せ、あとには空虚な空間だけが残されている。
「な……何……だって……? エイダは……エイダは!」
マーリンの声が震える。ガレスは呆然と、空っぽの魔法陣を見つめていた。
暖炉の火さえも弱々しく揺らめき、まるで恐れているかのようだった。
私は静かにその光景を見つめる。
魂を呼び戻そうとした魔法は、逆にエイダの存在そのものを消し去ってしまった。
彼女は今、もうどこにもいないのだ。その事実が、重く心に圧し掛かる。
部屋に静寂が戻る。ただ、マーリンの肩が震えているのが見えた。その震えは、次第に大きくなっていく。
「クッ……うっ……」
取り返しのつかない過ちを犯してしまった絶望。
大切な人を、完全に失ってしまった喪失感。
それらが、マーリンを押しつぶそうとしていた。
窓から差し込む月明かりだけが、彼の慟哭を照らしている。
その光は冷たく、まるで運命そのもののように、容赦なく真実を照らし出していた――。
■
エイダを失ってから、アヴァロンの崩壊は加速していった。
まるで国そのものが、彼女の死を嘆いているかのようだった。
大地に亀裂が走り、その傷口からは異様な色の蒸気が立ち上る。
空には黒と紫が混ざったような雲が渦巻き、街中を覆う魔力の波動が不規則に乱れ始めていた。
「マーリン様! 東の地区に新たな地割れが! 家々が飲み込まれています!」
「南の農地が、陥没を始めました! 作物が全て……!」
「北の市街地から避難民が押し寄せています。収容所が既に限界です!」
報告が次々と寄せられ、マーリンの執務室はかつてない混乱に包まれていた。
彼の机には、被害の報告書が山積みになっている。
その紙の山は、刻一刻と大きくなっていく。インクの匂いが、焦りを運んでくる。
「すぐに避難を開始しろ。魔導船を緊急出動させろ。優先順位は子供と高齢者だ」
マーリンは冷静に指示を出すが、その目は虚ろだった。
エイダを失い、そして取り返しのつかない過ちを犯してしまった痛みは、まだ癒えていない。
その深い傷が、彼の判断を鈍らせているようにも見えた。
彼は窓の外を見る。かつての輝かしい街並みが、今や恐怖に包まれていた。
大通りを埋め尽くす避難民の列。魔導車は限界まで人を乗せて走り、空には緊急用の魔導船が何十機も飛び交っている。
パニックに陥った市民たちの悲鳴が、断続的に聞こえてくる。
(私の理想郷は、こんなに脆かったのか)
私はそんなマーリンの思考を、静かに見つめていた。
アヴァロンの地面は、まるでガラスが割れるように砕けていく。
蜘蛛の巣状に広がる地割れは街の中心部まで迫り、その道筋で建物が次々と崩れ落ちていった。
石造りの家々が、まるで砂の城のように崩れていく。
「報告です! 地割れの原因は、大地の魔力が完全に枯渇しているためかと!」
「急激な発展により、土地の力を使い果たしてしまったようです……! このままでは、街全体が!」
参謀たちの声に、マーリンは黙って頷く。彼にも予想はついていた。
アヴァロンの発展は、大地の力を根こそぎ奪っていたのだ。
理想を追求するあまり、その土台を失っていた。
「被害状況は?」
「各地で建物の倒壊が相次いでいます。負傷者も増える一方です」
その言葉を聞いた途端、マーリンは即座に立ち上がった。
外套を羽織り、杖を手に取る。その動作には迷いがない。
「私が行く。負傷者のところへ案内しろ」
彼は躊躇なく、被害の現場へと向かった。瓦礫の中で苦しむ人々に、次々と回復魔法を放つ。
青い光が人々を包み込み、傷が癒えていく。その光は、暗い空の下で一層鮮やかに輝いていた。
「ありがとうございます!」
「マーリン様! さすがです……っ!」
感謝の声が上がる。しかし、それは一時的な治療に過ぎない。
大地の崩壊は止まることを知らず、新たな犠牲者が次々と生まれていく。
癒やされた人々も、また新たな災害に巻き込まれる。それは終わりのない、虚しい戦いのようだった。
「このままでは……何もかもが」
マーリンは額に手を当て、深いため息をつく。
魔力を使い続けた疲労が、徐々に体を蝕んでいく。彼もすでに、若くはなかった。
持てる全ての力を使っても、街の崩壊は止められそうにない。
人々を癒やすことはできても、大地を癒やすことはできないのだ。
「マーリン! こっちだ!」
ガレスが駆けつけてきた。彼の顔にも、深い疲労の色が浮かんでいる。鎧は埃と傷で汚れ、剣には土が付着している。
「南側の避難は何とか完了した。しかし、北の地区がまだ手つかずだ」
「わかった。すぐに向かおう。まだ間に合う――」
そこまで言った時、大きな轟音が響き渡る。地面が揺れ、空気が震える。
振り返ると、街の中心にそびえる塔が、ゆっくりと崩れ落ちていくところだった。
「あの塔は……まさか」
アヴァロンのシンボルであり、マーリンたちが最初に建てた建物。
希望の象徴だったその塔が、今や崩壊の象徴となって崩れ落ちる。
その崩壊は、まるで国の終わりを告げているかのようだった。
雲が低く垂れ込め、冷たい雨が降り始める。
雨粒が瓦礫を打つ音が、まるで弔いの鐘のように響く。その雨は、世界の涙のようだった。
(守りたかった、はずなのに。私の国を、みんなの希望を)
マーリンの独り言が、雨音に消されていく。
瓦礫の山と化していく街並み。逃げ惑う人々の悲鳴。そして、壊れていく理想郷。全てが、彼の無力さを突きつけていた。
その時、マーリンの目に、一冊の古い本が映った。死者の書。
幾度も彼に絶望を突きつけ、そして今もなお彼を誘惑するあの本が、倒れた本棚から覗いていた。
(もし、時を巻き戻すことができたなら。もう一度、最初からやり直せるのなら)
その考えが、稲妻のように彼の心を貫く。永遠の理想郷を作る方法が、あの本の中にあるかもしれない。
エイダに約束した、理想の国を守る術が、その中に隠されているのではないか。
マーリンはゆっくりと本を手に取った。死者の書は、生命を司る理を示した書だ。
そして時とは、世界の命の流れのようなもの。
死と生、過去と未来。それらは全て、同じ糸で紡がれているはずだ。
それを操ることができれば、あるいは。
マーリンは崩れ行く国の中で、その書に再び取り憑かれた。
「おい……マーリン? 何を――」
「命を、再び芽吹かせよう。今再び、理想郷に息吹を……」
「マーリン!!」
ガレスが叫ぶ。マーリンの杖が光を放つ。
そして――。
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