第141話 魔導王の軌跡⑤
マーリンの記憶の中で、季節が移り変わっていく。
神殿を中心に広がる集落は、日に日に大きくなっていた。
噂を聞きつけた人々が次々と訪れ、木造の家々が建ち並び、新たな畑が次々と開墾され、市場には活気が満ちている。
通りには子供たちの笑い声が響き、行き交う人々の表情は明るい。
泉のほとりには、マーリンの回復魔法を求める人々の列ができていた。
老人や子供、遠国からの旅人まで、実に様々な人々が集まっている。
彼の魔法は、どんな病も一瞬で治してしまう。
その評判は、もう遠くの国々にまで広がっているという。
市場では「奇跡の魔法使い」という噂が、活気に満ちた声で語られていた。
(この時のマーリンは……まだ、優しかったんだ)
私はその光景を静かに見つめる。
記憶の中のマーリンは、疲れた様子も見せず笑顔で患者たちを癒やし続けていた。
その瞳には純粋な探究心と、人々を救いたいという願いが宿っている。
彼の周りには、いつも仲間たちの姿があった。
まるで、彼らの存在が光となってマーリンを包み込んでいるかのように。
ガレスは相変わらず寡黙ながら彼を信頼し、マーリンの右腕として集落の運営を支えている。
その冷静な判断と行動力は、集落の発展に欠かせないものとなっていた。
エイダは母親のように皆の世話を焼き、一人一人に気を配る。
ウィルは持ち前の明るさで場を和ませ、時には厳格なガレスでさえ思わず笑みを浮かべることがあった。
その日、ウィルとガレスは帝国の動向を探るため、遠征の準備をしていた。
革の鞄に地図や携帯食を詰め、武器の手入れを終えたところだった。
「おーい、マーリン!」
ウィルの声が、市場の喧噪を超えて響く。
彼は手を大きく振りながら、マーリンの元へと駆けてきた。
「相変わらず忙しそうだね。もう少し休んだら? そんなに頑張ってたら、エイダさんにまた怒られちゃうよ」
「大丈夫だ。怒られたら……庇ってくれ。それより、出発の準備は?」
マーリンの声には、少しの疲れも感じられない。
むしろ、充実感に満ちているようだった。
「バッチリ! ガレスが細かいとこまでチェックしてくれたから。あいつ、相変わらず顔に似合わず几帳面だよね」
ウィルは明るく笑う。その姿は、どこかシャルに似ていた。
人を惹きつける明るさ、周囲を元気にする不思議な力。
(マーリンにも、シャルみたいな仲間が……)
私はふと、そんなことを考える。
しかし同時に、この幸せな時間が長くは続かないことも知っている。喉が詰まる。
この記憶が、マーリンの人生における大きな転換点になることを、私は知っているのだ。
「マーリンさま!」
突然、見張りの一人が駆け込んできた。
若い兵士は息を切らし、額には汗が光っている。彼の表情には焦りの色が浮かんでいる。
「帝国軍が……帝国軍が動き出したようです!」
「なに!?」
ウィルが声を上げる。
マーリンは一瞬表情を引き締めたが、すぐに冷静さを取り戻した。その瞳に、凄みのような光が宿る。
「詳しく話してくれ」
「はい。複数の部隊が、この方向へ向かっているとの報告が……山道を迂回するように、密かに進軍しているようです」
見張りの報告によると、帝国は大規模な軍を動かし始めているという。
斥候の報告では、重装歩兵を主体とした本隊と、軽装の偵察部隊が確認されたとのことだった。彼らの目的は明白だった。
再びこの集落の泉――そして、マーリンの力を求めているのだ。
おそらく、前回の失敗の教訓を活かし、より周到な計画を立ててきているに違いない。
「やれやれ。こっちは平和にやってるってのに、困ったもんだね。せっかく作物も育ち始めたってのに」
ウィルは苦笑いを浮かべる。その声には、いつもの明るさが感じられた。
彼の楽観的な性格は、緊迫した空気さえも和らげる不思議な力を持っている。
「集落の防衛体制を強化しよう。ガレス、準備を」
「ああ。戦えるものを集めよう。塔の警備も厳重にする必要がある」
簡潔な言葉を残し、ガレスは立ち去る。その足取りには迷いがない。
すでに彼の頭の中では、具体的な防衛計画が組み立てられているのだろう。
しかし、ウィルの表情が曇る。彼は遠くを見つめ、何かを考えているようだった。
その目には、普段の明るさとは異なる、真剣な光が宿っている。
「マーリン、ガレス。ちょっと提案があるんだ」
「なんだ?」
「俺、偵察に行ってくる。敵の数も配置も、はっきりさせないとまずいっしょ? このまま手探りで防衛線を張るのは危険だ」
ウィルの提案に、マーリンは眉をひそめた。彼の表情に、珍しく動揺の色が浮かぶ。
「危険すぎる、よせ。帝国軍の数が多すぎる」
「いやいや、俺なら大丈夫だって。こういうの得意じゃん?
それに一人のほうが気づかれにくいし。今まで何度も成功してるでしょ?」
ウィルは軽く笑う。その明るい表情は、まるで遠足にでも行くかのようだった。
しかし、その目は真剣そのもの。彼なりの使命感が、その瞳に宿っている。
「マーリン。確かに不安なのはわかるが……情報がないと、民を守れないぞ」
ガレスの冷静な意見に、マーリンは深いため息をつく。確かに、ガレスの言う通りだった。
「……わかった。だが、危険を感じたらすぐに戻れ。絶対に無理はするなよ」
「りょーかい! 心配すんな、すぐ戻ってくるって!」
ウィルは軽く手を振り、風のように走り去っていく。
その背中を、マーリンは何か言いたげに見つめていた。
私の胸が、知らずに痛む。私には、この後に起こる悲劇が見えていた。
この時のマーリンには想像もつかなかっただろう未来を、私はうっすらと知っている。その予感は、すぐに的中することになる。
空が徐々に灰色に染まり、雨が静かに降り始めていた。
■
ウィルが出発してから半日が過ぎた頃、雨は本降りとなっていた。
大粒の雨が地面を打ち、水たまりができ始めている。
集落は重苦しい空気に包まれ、普段の市場の喧噪も消えていた。
時折遠雷が轟き、子供たちが不安そうに母親にしがみつく。
買い物客の姿も消え、店主たちは心配そうに空を見上げている。
「様子がおかしい。もう戻ってきてもいいはずだ」
マーリンが呟く。彼の顔には焦りの色が浮かんでいた。額に皺を寄せ、何度も遠くを見やる。
「マーリンさま! 様子がおかしいです!」
見張りが塔から必死の形相で叫ぶ。
その声は雨音に切り裂かれそうになりながらも、はっきりと届いた。
「ウィルさまが偵察に向かった方角から煙が上がっています! 黒い、得体の知れない煙です!」
その報告に、マーリンとガレスは顔を見合わせる。
二人は言葉を交わすことなく、すぐさま馬に飛び乗った。
互いの意図を理解するのに、もはや言葉は必要なかった。
馬の蹄が泥を跳ね上げる。雨は二人の視界を遮り、足場も悪い。
落雷の光が時折道を照らす。それでも彼らは全速で駆け抜けていく。
マーリンの外套が風に舞い、ガレスの剣が鞘の中で軋む。
しばらく走ると、山道の途中から黒煙が上がっているのが見えた。
それは通常の火事の煙とは違う、魔法の痕跡のような異様な色をしていた。
空気が歪み、周囲の植物が枯れているようにも見える。
「あれは――」
二人の眼前に広がったのは、荒れ果てた戦場だった。
帝国軍の兵士たちが無残な姿で倒れており、地面には黒い焦げ跡が残っていた。
どうやらウィルの仕掛けた罠に引っかかったらしい。
散らばった武器や盾が、最期の抵抗を物語っている。
「ウィル! どこにいる!」
マーリンの叫びが、雨音を突き抜けて響く。その声には、普段の冷静さは微塵も感じられない。
応答はない。ガレスが馬を下り、さらに奥へと進むと、そこで彼らは一人の人影を見つけた。
倒れていたのは、間違いなくウィルだった。
彼は大樹に寄りかかり、肩で息をしていた。
胸には深い傷。黒ずんだ血が雨に流され、地面に染みていく。
その周りには、帝国軍の兵士が何人も倒れている。
最期まで戦ったのだろう、ウィルの手には折れた短剣が握られていた。
「マー、リン……すまん……約束、破っちまった……」
ウィルの声は掠れていた。マーリンは慌てて駆け寄り、すぐさま回復魔法を発動させる。青白い光が辺りを照らす。
しかし、傷は治らない。青い光が傷を包むものの、それ以上は進まなかった。
光が傷に触れる度に、黒い霧のようなものが立ち上る。
普段なら一瞬で治るはずの傷が、まるで光を拒絶するかのようだった。何度試みても、同じ結果だ。
「おかしい……どうして! なぜ効かない!」
マーリンの声が震える。その手も震え始めていた。
「無駄だ……毒が……あいつら、お前の力を知ってたみたいだ……治療を防ぐ毒を……開発してた、んだ……」
ウィルの言葉が途切れる。彼の呼吸は浅く、顔は蒼白だった。瞳から、徐々に力が失われていく。
「まさか、前回の戦いから対策を……!?」
ガレスが喉を詰まらせる。
マーリンは必死に魔力を注ぎ込むが、効果はなかった。光は届かず、闇が傷を覆い続ける。
「あ、はは……どうしようもねえ……けど……情報は、持って帰れた……これで、みんなは……」
ウィルは震える手で、懐から血に染まった紙を取り出す。
帝国軍の動きを詳細に記したものだった。
文字は走り書きながら、驚くほど正確な情報が記されている。
「それと、この毒も……解析すれば、他のみんなは……平気な、はずだ……。民を守るため……マーリン……お前の力、皆を……救う……」
最後の言葉を絞り出し、ウィルはゆっくりと目を閉じた。
彼の手から地図が滑り落ち、泥に沈んでいく。雨が血を洗い流していく。
「――――――――!!」
ガレスが目を伏せ、マーリンは叫び声を上げた。
その声は、人間のものとは思えないほど悲痛なものだった。
憎しみと悲しみが混ざり合い、言葉にならない感情が迸る。
激しい雷鳴が響き、稲光が戦場を照らす。マーリンの瞳が、不気味な光を帯び始めた。
「ガレス」
低い声で、マーリンが言う。その声には、これまでにない冷たさが混じっていた。
「集落に戻って、防衛を整えてくれ。僕は……行く」
「行くって……どこにだ! 何をする気だ!?」
「ウィルを殺した奴らを……追う」
ガレスは一瞬躊躇したが、友の決意を受け入れるしかなかった。
彼はウィルの遺体を抱え、その場を立ち去る。戦士の体が、妙に軽く感じられた。
「二の舞にはなるなよ。マーリン、お前まで失うわけにはいかない」
「――ああ」
マーリンが立ち上がった瞬間、辺りの空気が一変する。
雨が、まるで逃げるかのように止んだ。木々が震え、鳥たちが一斉に飛び立つ。
遠くには帝国軍の陣が見える。松明の明かりが、雨上がりの闇に浮かび上がっていた。
マーリンの目が赤く光り、回復とは正反対の力が湧き上がってきた。
狂気とも言える魔力が、彼の体から溢れ出す。
(……殺してやるぞ)
■
――その夜、帝国軍は壊滅した。
マーリンの放った魔法に立ちはだかる者は皆、生気を吸い取られ干からびていく。悲鳴も虚しく、闇に消えていった。
虐殺と呼ぶしかない戦いの後、マーリンは静かに集落へと戻っていく。
その瞳は、もう以前の輝きを失っていた。代わりに宿っていたのは、冷たい光。
帝国への憎しみは、マーリンの心を強く蝕んでいた……。
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