第125話 白い世界の中で
――そのとき、空を覆う巨大な浮遊城の底部が、不気味な輝きを放ち始めた。
充填されている光が、明らかに膨らみ始めているのが見えた。
まるで巨大な水風船のように、城の底部全体が光で膨れ上がっている。
「あれ……さっきよりデカくなってない?」
シャルの声が、いつもの明るさを失っている。
彼女の緑色の瞳に、不安の色が浮かんでいた。
村の広場に立つ私たちの周りに、冷たい風が吹き抜けた。落ち葉が舞い上がり、不吉な踊りを始める。
城の底部にある巨大な魔法陣のような模様が、青白い光を帯び始める。
円形に刻まれた文様は、私には読めない古代文字で埋め尽くされていた。
その光はまるで液体のように波打ち、中心に向かって集まっていく。
光の粒子が渦を巻くように収束し、その中心部分が徐々に膨れ上がっていく。
まるで、巨大な大砲の弾を装填しているみたいだ。そう思った瞬間、背筋が凍る。
太古の兵器が目覚めたような威圧感が、全身を包み込む。
(やばい! あれ本当に大砲……!?)
その考えは正しかったようで、浮遊城の底部中央が大きく歪み始めた。
空気がゆがみ、光の向こうの景色が波打つように揺れている。
魔力が凝縮されていく様子が、遠くからでもはっきりと感じられる。
頭痛がするほどの魔力の密度に、吐き気すら覚えた。
「まずいぞ。屋内――あの遺跡の中に避難するんだ!」
ゴルドーの声が響く。その声には、普段の冷静さが微かに崩れている。
黒い甲冑に身を包んだ彼の体が、一瞬強張るのが見えた。
私は咄嗟に遺跡の方角を確認した。村の北側、丘の中腹にポッカリと開いた洞窟。
まるで巨大な獣の口のように、黒々とした入り口が私たちを待ち受けている。
そこまではおよそ900メートル。私たちの足で6分ほど。
その距離が、今は途方もなく遠く感じられた。
光の収束が加速していく。空気が振動し、耳鳴りのような音が聞こえ始める。
まるで世界そのものが軋むような、不協和な振動音。
「急いで! 村のみんなも!」
「お、おお……?」
シャルが私の手を掴み、走り出す。彼女の手のひらが、いつもより熱い。
その掌から伝わる汗が、彼女の緊張を物語っていた。
ゴルドーも全速力で走り出した。彼の甲冑が、金属音を響かせる。
重たい甲冑を身につけているはずなのに、その動きは軽やかだ。
さすがA級冒険者というか、この非常時でも無駄な動きが一つもない。
その後に、騒動に気づいた村人が数名続いているが、だんだんと引き離されていく。
彼らの荒い息遣いと、焦りの声が後方から聞こえてくる。
天から、低い唸りのような音が響き始める。
まるで巨大な機械が始動するような、不気味な振動音。
それは次第に大きくなり、やがて耳を劈くような金属音へと変わっていった。
音の波が体を貫き、内臓が振動しているような感覚。
私たちは、心臓が飛び出しそうなほどの速さで丘を駆け上がる。
足を踏み出すたびに太ももが悲鳴を上げる。
靴が石に当たり、砂利が転がり落ちる音が響く。
時折足を滑らせそうになりながらも、必死で前に進む。
洞窟の入り口まで、あと100メートル。古代の遺跡が、私たちを待っている。
「くっ!」
シャルが後ろを振り返った。私も思わず振り返ってしまう。髪が風を切る音がする。
村人の数は明らかに減っている。ついてこれているのは三人だけ。若い男性たちだ。
子供や老人は早々に置いて行かれ、もう見えない。
声すら届かないほどの距離まで離れてしまっている。
浮遊城の中心には巨大な光球が形成され、その周囲の空気が歪んでいた。
光球は今や小さな月ほどの大きさまで膨れ上がっている。
まるで太陽を見ているよう。目が痛くなるほどの光量だ。
瞳に焼き付いて、視界の端が紫色に染まっていく。
「あと少しだ!」
ゴルドーが叫ぶ。洞窟に入り込んだ。
足音が石の地面に反響して、不規則な音を響かせる。
遺跡の入り口の扉が目前に迫る。
近づくにつれ、古い石の匂いが鼻をつく。埃と苔の混ざったような、独特の香り。
そのとき、背後で何かが弾ける音がした。
まるで巨大な風船が割れたような音。大気が引き裂かれるような轟音が、耳膜を震わせる。
それと同時に、異様な重圧が背中に伝わってくる。
まるで巨人に押されているような、圧倒的な力。
「やばっ!」
シャルが私を抱きかかえると同時に、遺跡の入り口に全力で飛び込んだ。
ゴルドーも、ギリギリのタイミングで転がり込む。
黒い甲冑が石の床を転がる音が、不気味に反響する。
途端、世界が白く染まった。
まるで目の前で太陽が爆発したかのような閃光。
網膜が焼き切れそうな、存在そのものを否定するような眩しさ。
目を閉じていても、まぶたを通して眩しすぎて痛い。光が脳を焼くように貫いてくる。
耳をつんざくような轟音が響き、地面が大きく揺れる。
遺跡の天井から砂埃が降り注ぎ、喉がむせる。
私の体は宙に浮いたかと思うと、シャルの体に強く押しつけられた。
彼女の鎧がきしむ音が、断続的に響く。
「うっ……!」
シャルの腕の中で、私は耳を塞ぎ、目を強く閉じる。
心臓が早鐘を打ち、呼吸が苦しくなる。
轟音と衝撃が、何度も何度も押し寄せてくる。
まるで世界の終わりのような、破壊的な振動の連続。
おそらく、一分ほどだったのだろう。
でも、その時間は永遠のように感じられた。時間の感覚が完全に麻痺している。
やがて振動が収まり、轟音も遠ざかっていった。
かわりに、耳鳴りのような音が響いている。
頭の中で、金属が共鳴するような音が鳴り続ける。
「み、みんな大丈夫……?」
シャルの声が、どこか遠くで聞こえたような気がした。まだ耳が正常に機能していない。
彼女の腕の中で、私はゆっくりと目を開ける。
視界が霞んでいて、輪郭がぼやけている。
視界が徐々にはっきりとしてくる。目の前の景色が、少しずつ形を取り戻していく。
薄暗い遺跡の中、シャルとゴルドーのシルエットが見えた。
2人とも無事なようだ。埃まみれになりながらも、大きな怪我はない。
「ああ、なんとかな。だが、村の皆は!?」
素早く立ち上がったゴルドーが外に出る。彼の足音が、静寂を切り裂く。
シャルが私を抱きしめた状態のまま、ゆっくりと体を起こす。
その動作に合わせて、私たちの体から砂埃が零れ落ちる。
「外の様子……見に行こっか」
シャルの声が、普段よりも慎重に響く。
その声には、これから目にするものへの不安が滲んでいた。
私たちはゆっくりと立ち上がり、入り口に向かった。
足が震えて、まっすぐ歩くのも難しい。
そこに広がっていたのは――かつて見たことのない光景だった。
そこにあったのは、色を失った世界。
空は真っ白で、雲も太陽も見えない。ただ均一な白色が広がっているだけ。
まるで巨大な白い天井が頭上を覆っているかのようだった。
村の建物は形を留めているものの、すべてが白く漂白されたように色を失っていた。
民家も、畑の作物も、遠くに見える森も、あらゆるものがモノクロの世界のよう。
地面を這う草も白く、葉脈だけがかすかに灰色で浮かび上がっている。
近くの木々は白い彫刻のようで、風に揺れる枝が不気味な影を投げかけていた。
「な、なにこれ……」
シャルの震える声が響く。彼女の赤い髪と緑の瞳だけが、この白い世界で異様に鮮やかだった。
ゴルドーの黒い甲冑も、この世界では浮いて見える。
私たち以外のすべてが、色を奪われてしまったかのようだ。
「村の人たちは!?」
シャルが叫ぶ。その声は、異様なほど空気に吸い込まれていく。
まるで音が遠くまで届かないように、空間そのものが歪んでいるみたいだ。
私たちは丘を下り、村の中へと向かった。
歩くたびに、白くなった砂利が靴の下でかすかな音を立てる。その音が、やけに耳に残る。
家々の窓は暗く、誰もいる気配がない。
開け放たれた扉が、不規則に軋む音を立てていた。
「おーい! 誰かいませーん!?」
シャルの大声が村中に響き渡る。でも、返事はない。
彼女の声が、どこまでも反響していくような不気味な響き方をする。
広場に着くと、そこにはさっきまで避難しようとしていた村人たちの気配すら感じられなかった。
地面には足跡が残されているのに、その先に人影はない。
まるでその場で消えてしまったかのよう。
シャルが民家の中を調べ始める。私も後に続く。
「……え?」
家の中に入ると、さらに異様な光景が広がっていた。
テーブルの上には、白くなった食事が置かれている。
スープの湯気が止まったまま。
パンに添えられたバターナイフは、まだ途中で止まったような角度で刺さっている。
まるで時が止まったような、そんな不自然な配置。
でも、人の姿だけがない。
「椅子が倒れてる……逃げ出そうとしたのかな」
シャルの呟きに、私は小さく頷く。
台所では、まだ白い火が消えていない七輪の上に、白く変色した鍋が載っている。
中のシチューは完全に白濁し、かすかに渦を巻いて固まっていた。
「ねえ、ミュウちゃん……」
シャルが、珍しく弱々しい声で私を呼ぶ。
「これって……人間、全部消えちゃったの?」
「……どうやら、そのようだな」
戻ってきたゴルドーが重い声で答える。
村人がいなくなったその光景は、彼にとってはかなり……辛い光景だっただろう。
しかしあくまで冷静さを保ち、彼は窓の外を見ながらゆっくりと続けた。
「浮遊城からの攻撃は、この世界から『人』を消し去った……。建物や物は残して、人間だけを」
私たちは黙って、その言葉の意味を噛みしめる。
静寂の中、時折聞こえる風の音だけが、世界がまだ動いている証のようだった。
「見てみろ。鳥も、虫も、動物の気配すらない。生命を持つものが、すべて消されてしまった」
ゴルドーの言葉に、改めて周囲を見回す。
確かに、鳥のさえずりも、虫の音も、どこにも聞こえない。
完全な静寂。それは、生命の存在しない世界の音だった。
白い世界で、私たちだけが色を持って存在している。
それは、まるで絵の具を流し込んだように不自然で、この世界に私たちがそぐわないことを示しているようだった。
「……それって、どうすればいいの?」
シャルの声に、私たちは空を見上げる。
巨大な浮遊城は、もはや見えなくなっていた。
どうすればいいのか。……わからない。まったく、わからない。
……私たちはひとまず丘の上まで戻り、遠くを見渡した。
白く漂白された世界が、地平線まで果てしなく広がっている。
木々も、野原も、山々も、空も――すべてが色を失い、まるで白紙の世界のよう。
その光景に、私は深い絶望感を覚えた。
もう二度と、あの鮮やかな風景は戻ってこないのかもしれない。
草木の緑も、空の青さも、夕暮れの茜色も。
何より、この世界にはもう何も――。
「……ん?」
そのとき、シャルが目を細めた。彼女は、北西の方角をじっと見つめている。
「あそこ、なんか違くない?」
私も目を凝らす。地平線の彼方に、かすかな色彩が見えた。
白一色の世界の中に、ぼんやりと浮かぶ青みがかった光。
「あの方角、まさか……アランシア王国か」
ゴルドーの言葉に、私たちは息を飲む。
「そういえば、アランシアはなんかかったいバリアがあるんだったよね! アレで砲撃を耐えたってこと!?」
シャルの声が弾む。確かにアランシアには、強力な魔法の結界が存在していた。
その結界は、あのヴェグナトールの猛攻すら凌ぎきった。アレで浮遊城の攻撃も耐えた……!?
「もしかしたら、アランシアなら……!」
シャルの声が生気を取り戻す。彼女の瞳が、かすかな希望の光を宿した。
「そうだ、アランシアなら何か分かる可能性はある。あの国の長は、魔導王の弟子の血族だったはずだ」
ゴルドーの言葉に、私も小さく頷く。
この色を失った世界の中で、アランシアだけが色を保っているということは、それだけの理由があるはずだ。
そして、その中にいる人々は、この惨事から逃れられたのかもしれない。
「ミュウちゃん、行こう! アランシアに!」
シャルが私の手を握る。その手のひらが温かい。今はそれに縋るしかなかった。
白い世界に染まりきらなかった、小さな色彩を目指して……私たちは新たに一歩を踏み出すことにした。
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