第122話 魔界との別れ
マーリンが「核」を持ち去ってからしばらく……。
玉座の間には重い静寂が立ち込めていた。
天井から落ちる光の粒が、まるで雪のようにゆっくりと舞い降りてくる。
深い紫色をした光は床に触れると、儚く消えていく。
「ミュウちゃん……大丈夫?」
シャルの声が耳に届く。倒れた私の頭を膝枕しながら優しく抱える彼女の手。
その手から、かすかな震えが伝わってくる。
闘いの疲れだろうか。それとも、何か別の感情だろうか。
私はゆっくりと頷く。体の震えと痛みは、徐々に収まってきていた。
玉座の周りには、さっきまでの戦いの痕跡が生々しく残っている。
シャルの雷で焼け焦げた壁には、漆黒の傷跡が蜘蛛の巣のように広がっていた。
イリスの魔力で砕かれた床は大理石が波打ったように歪み、そこかしこに深い亀裂が走る。
そしてマーリンの魔法による凄まじい破壊痕。
渦を巻くように壁を抉った跡が、まるで巨大な竜が爪を立てたかのようだ。
青白いクリスタルの欠片が、床一面に散らばっていた。
それらは月明かりのように淡い光を放っている。
欠片の1つを拾い上げてみると、手の中でゆっくりと光が弱まっていく。
温かみのある触感だったそれは、次第に冷たい石ころのようになっていった。
「……」
私は黙って立ち上がろうとするが、足に力が入らない。
ふらつく体をシャルが慌てて支える。彼女の体温が心地よかった。
「まだ無理しないで、ミュウちゃん! ごめんね。あたしがもう少し強ければ……」
シャルの声には珍しく暗さが混じっている。
その声は、普段の明るい調子を完全に失っていた。でも、それは違う。
(そんなことないよ。シャルは十分強かった……!)
私は首を横に振り、精一杯の意思表示をする。シャルの腕の中で、必死に伝えようとする。
「クッ……」
イリスの短い呻き声が響く。彼女は玉座に腰掛けたまま、虚空を見つめていた。
その表情には、怒りと悔しさが混ざっている。
銀色の長い髪が乱れ、普段の威厳ある姿からは想像もつかない。
魔王から受け継いだ力を取り戻したというのに、結局「核」は奪われてしまった。
「イリス……」
「心配はいらない。これも我の……不甲斐なさゆえだ」
イリスの声が途切れる。その瞬間、玉座の間が大きく揺れた。
天井の石が、バリバリと音を立てて砕ける。
濃い灰色の砂が雨のように降り注ぎ、息苦しいほどの埃が舞い上がる。
「なっ……!」
シャルが私を庇うように抱きしめる。むぐぐ……。
「魔界が、不安定になっている」
イリスがゆっくりと立ち上がる。その姿には痛々しい悲壮感と威厳とがあった。
普段の冷たい表情は崩れ、深い憂いを帯びている。
「『核』は魔界の根源の力。それを失った今、この世界は徐々に崩壊していくだろう」
「ええっ、そんな!?」
彼女の言葉通り、部屋の壁には無数のヒビが走り始めていた。
ヒビの隙間からは、得体の知れない光が漏れ出している。
まるで虹色の液体のようなその光を見ていると、目が痛くなる。
光は脈打つように明滅し、そのたびに玉座の間全体が歪んで見えた。
「このままでは、人間界との境界も不安定になる。いや、すでにその兆候が……」
イリスは一瞬考え込むような表情を見せた後、決意に満ちた目で私たちを見る。
その瞳には、魔王としての覚悟が宿っていた。
「ミュウ、シャル。今のうちに人間界へ帰還させてやろう」
「でも、イリスは!? これからどうするの!?」
シャルの問いに、彼女は小さく首を振る。
銀色の長い髪が揺れる。その髪が空気を切る音が、不思議と耳に残った。
「我はここに残る。魔界の秩序を維持するのは、魔王である我の役目だ」
その言葉には、もう迷いはなかった。
イリスの周りに淡い紫色の魔力が立ち昇り、彼女の決意を物語っているかのようだった。
遠くで、何かが崩れ落ちる音が響く。
轟音が玉座の間の壁を震わせ、天井からは更なる砂礫が降り注ぐ。
三つの赤い月の光が、不気味に明滅している。
「我に残された力で、門を開こう」
イリスが両手を広げると、私たちの目の前に光の渦が出現した。
扉のような形をした光の束が、不規則に揺らめいている。
その中心には、薄い膜のようなものが見える。
まるで水面のように波打ちながら、私たちを人間界へと誘うように輝いていた。
「さあ、急げ」
イリスの声が響く。その声は玉座の間に満ちる轟音を切り裂くように鋭かった。
門からは人間界の空気が漏れ出してくる。まるで故郷を思い出させるような、懐かしい匂い。
草花の芳香に、森の湿り気を帯びた風。
魔界の重たい空気とは違う、優しい風が頬を撫でる。
「シャル、ミュウを頼むぞ」
「うん、任せて!」
シャルが私を抱きかかえる。赤い髪が風に揺れ、その先端が私の頬をくすぐった。その腕の中で、また揺れが来る。
バキバキという音と共に、天井から大きな石が落ちてきた。
黒く輝く石塊は、まるで魔界そのものが私たちを引き留めようとしているかのよう。
イリスが手を振ると、石は紫の光に包まれ、粉々に砕け散る。
「早く!」
イリスの声が、普段の冷たさを失っていた。焦りと、強い感情が混ざっている声。
その声には、これまで聞いたことのない切迫感が込められていた。
私は彼女を見つめる。銀色の長い髪は宝石のように輝き、真紅の瞳は決意に満ちている。
そして、深い憂いの色を宿した表情。
高慢な魔王の仮面が剥がれ落ち、そこにはただの少女のような表情があった。
イリスの周りには魔力が渦を巻いていた。
深い紫の魔力は、まるで保護膜のように彼女を包み込む。
それは彼女の覚悟の表れのようでもあり、魔界の崩壊を必死に食い止めようとする意志の表れのようでもあった。
(私たち、このままお別れしちゃうの……?)
私の心に、不意に深い寂しさが押し寄せる。
イリス。一緒に旅した魔王。
時に厳しく、時に優しく、そして常に気高かった彼女。
ここで別れたら、もう永遠に会えないような気がした。
「……!」
必死に声を振り絞ろうとする。でも、喉から言葉が出てこない。
すぐ隣にいるのに、これほど遠く感じるのは初めてだった。
「ミュウちゃん?」
シャルが不思議そうに私を見る。その瞬間、私は彼女の腕から飛び出した。
「あっ、ちょっと!」
よろよろとした足取りで、イリスの元へ駆け寄る。
目の前が揺れる。床が不規則に歪んでいるのが見えた。
クリスタルの欠片が、私の足音に反応するように光を放つ。
「ミュウ? 何を――」
イリスの言葉が途切れる。それは、私が彼女に抱きついたからだ。
「!?」
イリスの体が強張る。彼女の体温は人間よりも低く、肌は少し冷たかった。
でも、その胸の中で確かに鼓動を感じる。
まるで凍った湖の下を流れる小川のような、確かな命の音。
「な、なんだ急に! 我は魔族の王だぞ!? こんな……!」
イリスはうろたえた声を上げる。
その声には困惑と共に、かすかな温かみが混じっていた。
その時、どこからか大きな轟音が響く。地面が揺れ、建物が軋む音が聞こえた。
天井から落ちる砂が、私たちの髪を白く染めていく。
「まったく……! こんな時に何をするかと思えば!」
イリスの声が震える。そして、ゆっくりと私の背中に手を回した。
その手は少し震えていて、でも確かな強さを感じた。
「……達者でな」
小さな声でそうつぶやくと、イリスは私の体を後ろへ押した。
シャルが私を受け止める。温かい腕の中に戻される。
「行け。早く」
イリスの表情には、もう憂いはなかった。
魔王として、この世界を守る覚悟に満ちていた。真紅の瞳が、炎のように燃えている。
「約束する。必ず、この世界を守ってみせる。そして、また会おうぞ」
「……うん!」
その言葉を最後に、シャルは私を抱えたまま門に向かって走り出した。足音が玉座の間に響き渡る。
門から漏れる光が、徐々に強くなっていく。
その光は温かく、春の日差しのような懐かしい温もりがあった。
「さらばだ、ミュウ、シャル。短い付き合いだったが……楽しかったぞ」
イリスの声が遠くなっていく。目の前が真っ白に染まり、意識が遠のいていく。
風が強く吹き、私の髪を激しく揺らす。
最後に見た光景は、魔界の玉座に立つイリスの凛とした後ろ姿。
銀色の髪が舞い、紫の魔力に包まれた彼女は、まさに魔王そのものだった。
私の視界から、三つの赤い月が消えていく。
まるで涙のように光が零れ落ちる。そして――完全な闇が訪れた。
■
目を開けると、そこは森の中だった。
地面には緑の草が茂り、空には穏やかな太陽が輝いている。
頭上には葉を揺らす木々、足元には柔らかな土。
魔界とはまるで違う、懐かしい光景が広がっていた。
「ミュウちゃん、大丈夫?」
シャルの腕の中で、私はゆっくりと頷く。瞬間移動の影響か、少しめまいがする。
シャルは私を地面に降ろすと、辺りを見回した。赤い髪が風に揺れる。
「ここ、どこだろ。山の中みたいだけど……」
確かに、私たちは緩やかな斜面に立っていた。
遠くには山々が連なり、木々の間から谷が見える。
空気は澄んでいて、時折爽やかな風が吹き抜けていく。
(あれっ、この景色、見たことある……?)
私は静かに辺りを見渡す。見慣れた木々の形。岩の並び方。そして、遠くに見える山の稜線。
シャルも同じことを考えていたらしい。
「なんかさ、この辺って……」
彼女の言葉が途切れた時、私は思い出した。確か、この辺りは――
「ラーナの村の近くじゃない? ほら、あそこに見える山の形! 確か、ゴルドーが案内してくれた時に通ったよね!」
そう。ノルディアスのA級冒険者、ゴルドー。彼の故郷の村の近くだ。
村人たちの奇病を治すために情報を集めていた人物。
(ゴルドー、元気にしてるかな……)
あの時は……そうだ。洞窟から出てくる煙を止めて村の病を治して、ついでに畑も治して。
あの村で初めて「聖女」と呼ばれるようになったんだっけ。遠い昔のような気がする。
「じゃあ、村に行ってみる? 久しぶりに会えたらいいよね!」
シャルの声には、いつもの明るさが戻っていた。
その声に頷こうとした時、私の目に異変が映った。
「……!?」
「ん? どうしたの?」
私は空を指差した。シャルの視線が、私の指す方向を追う。
「え……あれ、なに?」
遠くの空に、巨大な影が浮かんでいた。
まるで空に浮かぶ街のような姿。
白い石でできた建物群が、まばゆい太陽の光を反射して輝いている。
その姿は幻想的で美しく、でもどこか不吉な存在感を放っていた。
浮遊城の周りには、薄い雲が渦を巻いている。
時折風が吹くと、その姿が雲間から姿を現す。
大きさは目測できないほどで、見上げているだけで首が痛くなりそうだ。
「すごい……でも、なんでこんなのが……?」
シャルの声には戸惑いが混じっている。私も同じ気持ちだった。
こんな巨大な建造物が空に浮かぶなんて、今まで見たことがない。
(もしかして、マーリンが……?)
私の心によぎった疑問を、シャルも感じ取ったようだ。
「ねえ、ミュウちゃん。あれってもしかして、マーリンの言ってた『自分の国』ってやつだったり?」
私は小さく肩をすくめる。そうかもしれないし、違うかもしれない。
でも、あんな巨大な城が突然現れたのは、きっと偶然じゃない。「核」を持ち去ったマーリンが、何かの形で関わっているはずだ。
「とりあえず、ゴルドーを探してみない? あの人なら何か知ってるかもしれないし」
その提案に私は頷いた。それに……少し心配だ。
あんな異様な建造物が現れて、村や町は大丈夫だろうか。
私たちは山道を下り始めた。懐かしい道を歩きながら、時折空を見上げる。
浮遊城は相変わらずそこにあり、まるで私たちを見下ろしているかのようだった。
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