第117話 魔界に響く邪龍の咆哮
巨大な影が魔王城の前に降り立つ。
その衝撃で大地が震え、クリスタルが一斉に明滅する。
地面にはヴェグナトールの爪跡が深々と刻まれ、そこから黒い霧のような魔力が立ち昇る。
漆黒の鱗を持つドラゴン、ヴェグナトール……。
グレイシャル帝国を苦しめた邪龍。
人間の聖女との絆と、その復讐に生きていたドラゴンだ。
その翼は広げれば城の高さほどもあり、赤く光る瞳には古の魔力が宿っている。
翼膜には無数の傷跡が刻まれ、それは月光を受けて不気味な模様を描いていた。
一体、どうしてここに……?
「な、なんでこんなところにコイツが!?」
シャルの声が震える。凄まじい威圧感だ。
まるで重力が増したかのように、体が地面に引き寄せられる。
息をするだけでも、胸が締め付けられるよう。
「そうおかしなことでもあるまい……魔界は我らの故郷。帰ることもあろう」
私の足元では、クリスタルが不規則な音を奏で始めた。
その音は耳障りで、まるでヴェグナトールの威圧に怯えているかのよう。
光の色も不安定に揺らめき、時折赤く染まっては消える。
すると、ヴェグナトールの周囲で異変が起きた。
魔王城の周辺に潜んでいた魔物たちが、一斉に逃げ出し始めたのだ。
影に隠れていた無数の魔物が、まるで暗闇から這い出すように姿を現す。
「アア、オワッタ……!」
「ヤバイ、アイツが来た……!」
「魔王様もおしめぇだァ、逃げろォォォ!」
いつもの不平不満とは違う、純粋な恐怖の声を上げながら、魔物たちは四散していく。
その群れは黒い波のように広がり、やがて闇の中へと消えていった。
……改めて相対してわかる。
ヴェグナトールの強さは、今まで魔界で戦ってきた敵よりも遥かに強い。
魔物たちが逃げるのも当然かもしれない。
「フン……」
低く響く声が、空気を震わせる。ヴェグナトールが魔王城を見上げている。
その巨体が動くたびに、地面が揺れ、クリスタルが共鳴音を奏でる。
「だが魔界もずいぶんと……寂れたものだな」
その声は、明らかな不満を帯びていた。
故郷の変わり果てた姿に苛立っている様子だ。城に向けた赤い瞳には、軽蔑の色が浮かんでいる。
「……当然だな」
イリスが一歩前に出る。その姿は毅然としているが、手が微かに震えているのがわかった。
彼女の長い髪が、ヴェグナトールの放つ魔力に揺れている。
「現在の支配者は、魔界の魔力を独占している。『核』と呼ばれる力を、自らの権力維持のために使っているのだ」
イリスの言葉に、ヴェグナトールは長い首を傾げる。鱗と鱗がこすれ合い、金属音のような音を立てる。
……その仕草は意外にも愛らしく、思わず目を疑ってしまう。猫みたいだ……。
「貴様……魔王の娘か」
「あ、あぁ。父上を知っているのか?」
「腐れ縁だ」
ヴェグナトールは深くため息をつく。
その吐息は暗い炎となって、周囲のクリスタルを溶かしていく。
「本来、この世界はもっと生命力に満ち溢れていた。魔力は大地から湧き出で、下級の魔族も上級の魔族も、みな力に満ちていた」
イリスが昔を懐かしむように説明を続ける。
その声には、かつての魔界への郷愁が込められている。
「『核』とは魔界そのものの力。それを一族の血筋によって受け継ぎ、魔王は世界の調和を保ってきた……」
「しかし、今の支配者は違うと?」
ヴェグナトールの問いに、イリスは静かに頷く。彼女の瞳には怒りの炎が宿っていた。
「父が倒れた後、クロムウェルは『核』を独占し、世界から魔力を奪い続けている。そして今、それを持ったまま人間界へと逃げるつもりなのだ……!」
「……ふむ」
ヴェグナトールは大きく頷いた。
その動きに合わせ、鱗がキラリと月光を反射する。漆黒の体表が、一瞬だけ虹色に輝いた。
「まぁいい。元より魔力を喰らいに来ただけだ。中にあるというならば喰らうまで……!」
「させませんわ!」
突如、甲高い声が響く。空気が凍りつくような寒気が走る。
リリアンが、氷の結晶に乗って宙に舞い上がった。
その周りには無数の氷の刃が浮かんでいる。
それぞれの刃が月光を受けて青白く輝き、星座のような模様を描いていた。
「なっ、やめなって!」
シャルが驚きの声を上げる。私も思わず息を呑む。
リリアンの姿は今までで一番凛々しく、そして一番狂気に満ちていた。
彼女の周りの氷は、月光を受けて美しく輝いている。
「クロムウェル様の敵は、この私が仕留めます! たとえ相手が誰であろうともォ……ッ!」
その叫び声には、狂おしいほどの忠誠心が込められていた。
氷の結晶が彼女の感情に呼応するように、より一層鋭く尖っていく。
「アアアアアアアッ!」
リリアンの叫びとともに、無数の氷の刃が飛び交う。
青白い光を放つ氷の矢は、まるで流星群のように美しい。空気が一瞬で凍てついていく。
「退け」
ヴェグナトールの声が響く。その一言には、圧倒的な力が込められていた。
地面が轟き、クリスタルが悲鳴のような音を立てる。
飛来した幾多の矢はヴェグナトールに直撃する。
しかしその鱗を前に、氷はぶつかって粉々に砕け散るばかりだった。
だがそれでも、リリアンは止まらない。
「ハアアァァッ!」
彼女は両手を広げ、より巨大な氷の結晶を作り出す。
宝石のような輝きを放つそれは、人間3人分はあろうかという大きさだ。
クリスタルの共鳴音が高く鳴り響き、空気が凍てつく。
周囲の地面は白く凍り、霜の花が咲き乱れる。
「これでどうかしら!?」
巨大な氷の結晶が、ヴェグナトールに向かって飛んでいく。
その威力は、さっきまでのものとは比べものにならない。
氷塊は空気を切り裂き、轟音を立てながら突進する。
……しかし。
「退屈だな」
ヴェグナトールは、尻尾を一振りしただけだった。
衝撃波が走り、空気が歪む。そして尻尾を叩きつけられたリリアンの氷の結晶は、粉々に砕け散った。
まるでガラスが割れるような音と共に、美しい輝きは失われる。
飛び散った破片は月光を浴び、一瞬だけダイヤモンドのように輝いた。
「う、うそ……わたくしの氷が……一振りで……?」
「だから退けと言ったのだ」
ヴェグナトールは大きく息を吐く。その吐息は暗い炎となって、空間を焦がしていく。
炎は一直線にリリアンへと伸びていった。漆黒の炎は光すら飲み込み、通り道のクリスタルを溶かしていく。
「きゃあっ!」
彼女は咄嗟に氷の盾を作り出す。けれど、暗い炎の前ではそれすら意味を成さない。
まるでロウソクの火で氷を溶かすように、あまりにも容易く、盾は一瞬で溶ける。
その後ろにいたリリアンは吹き飛ばされた。彼女の体が、人形のように宙を舞う。
「ぐああああああーーッ!」
「リリアン!?」
シャルの叫び声が響く。しかし、既に彼女は気を失っていた。
素早く飛び出したシャルが、落下するリリアンを受け止める。
「よいしょっと……! 大丈夫、気絶してるだけみたい」
ホッとする間もなく、ヴェグナトールが動き出す。
その巨体が、魔王城の正面へと向き直る。地面が震え、クリスタルが共鳴する。
「斯様な壁一つ破れんとは。魔王の力も落ちたな」
巨大なドラゴンが、皮肉げに笑いながら右腕……というか右前足を振り上げる。鋭い爪が月光を受けて、不吉な輝きを放つ。
「……!」
私たちが息を呑む中、爪が城のバリアを貫いた。
ガシャンという音と共に、バリアの表面に亀裂が走る。
蛇のように蠢いていた模様が歪み、その輝きを失っていく。
ヴェグナトールの腕に力が込められている。筋肉が盛り上がり、腕が震え、バリアがガタガタと音を立てて抵抗する。
そして――耐えられず、バリアは壊れた。
砕けた破片が、星屑のように降り注ぐ。
その一つ一つが月の光を受けて輝き、幻想的な光景を作り出していく。
「……まさか。これほど、とは」
イリスが絶句する。私もシャルも、その光景を目を見開いて見つめていた。
あれだけ強固だった魔王城のバリアは、あまりにもあっけなく破壊されてしまった。
まるでガラス細工でも壊すかのような容易さで。
「さて……。あとは好きにするがいい。核とやらを取り戻し、魔界を元に戻せ。さもなくば……この城ごとすべてを砕く」
ヴェグナトールは私たちを見下ろす。
その瞳には、どこか愉快そうな色が浮かんでいた。
……魔王城をぶっ壊すか、それとも魔界がもとに戻るか。
どっちでもいいんだろうなぁ、多分。
「あ、あの……ヴェグナ、トール」
私は一歩歩み出て、ヴェグナトールを見上げる。
シャルが息を呑む音が聞こえた。砕けた地面がカリカリと音を立てる。
「ありがとう……助けてくれて」
私にしては、不思議とすんなり会話ができた。
一度心を共有したからかもしれない。なんとなく、こんなに邪悪で危険なドラゴンなのに、私と彼は少しだけ心が通っているような気がするのだ。
「思い上がるな、聖女もどきの小娘。魔王との縁でやっただけだ」
そう言うと、巨大なドラゴンは首を反らして再び羽ばたき、夜空へと消えていった。
その巨体は三つの月を隠し、やがて闇に溶けていく。
後には、砕け散ったバリアの破片と、気を失ったリリアン、そして呆然と立ち尽くす私たちが残された。
まるで嵐が通り過ぎた後のような静けさ。クリスタルの明滅が、静かな夜の闇を照らしていた。
(とりあえず、リリアンを……)
私は杖を構え、静かに光を放つ。青い光が彼女の体を包み込んでいく。
「リリアン、大丈夫そうなの?」
シャルの問いに、私は小さく頷く。外傷は問題なく治った。
ただ、力を使い果たしているため、しばらく目は覚まさないだろう。
「……四天王の力。かつて『核』によって与えられた力。今こそ回収させてもらう」
歩み寄るイリスの言葉に合わせ、リリアンの体から青い光の粒子が立ち上る。
それは彼女に宿っていた氷の力……四天王としての力だった。
「クロムウェルに与えられた核の力は、元はといえば我のもの。ようやく、我が力も戻る」
光の粒がイリスの手のひらに吸収されていく。
それは、既に回収していた他の三人の四天王の力とともに、イリスの中で輝きを放った。
「……ふぅ」
イリスが深いため息をつく。その表情には、なにやら充実感が浮かんでいた。
「これで、我は完全な力を取り戻せた。魔王の力……父より受け継いだ力だ」
私たちの目の前で、イリスの姿が一瞬輝く。その威圧感は今までとは比べものにならない。
「クロムウェル……もはや逃がさん!」
彼女の瞳には強い決意が宿っていた。その横顔は、まさに魔王のもの。
「よーし! じゃあ、城に突入だね!」
シャルの声が響く。彼女は気を失ったリリアンを、そっと脇に寝かせる。
そして、剣を抜く。私も杖を握り直す。回復魔法の準備は万端だ。
イリスを先頭に、私たちは魔王城の扉へと向かう。
さっきのヴェグナトールの爪で砕けた大きな扉の向こうに、禍々しい魔王城のロビーが見える。
私たちの足音が、重たく響いていった。
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